シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

満腹感と承認欲求は“貯められない”

 
 承認欲求とか、自己愛を充たすとか、そういう欲求って、誰にでもありますし、そうした心理的な欲求に飢えている人が巷にはごまんと存在しています。誰かに褒められたい・誰かにいっぱしの人間だと保障して貰いたい・共感して欲しい……そういう欲求に誰もが飢えているという意味では、なるほど、21世紀はこころの世紀と呼べるのかもしれません。
 
 ところで、この手の心理的でソーシャルな欲求には、厄介な性質があります。
 それは「承認欲求は貯められない」という点です。
 穀物やお金みたいに貯めておければ便利でしょうに、貯められないんです。
 
 

心理的な欲求を満たすのは、空腹を満たすのに似ている

 
 この点において、承認欲求とか自己愛って、穀物や貨幣よりも、食欲や睡眠欲に近い感じがします。定期的に――できれば毎日適量を――充たし続けるのが一番健康的で、一時にどれだけ沢山提供されても貯蓄が効きにくい、のですから。
 
 人はおなかが空いてくると何か食べたいと思うものですが、食べられるキャパシティにはおのずと限界があります。ある程度は“食いだめ”も出来ますし、多めの食事摂取を続けていれば皮下脂肪がついてきて飢餓に強くもなるかもしれません。けれども一時に“食いだめ”できるキャパシティには限度があり、まさか一ヶ月分まとめて食べるなんてことは不可能です。睡眠にしても、一週間分まとめて睡眠を摂るような事は出来ません。 
 
 これと同じで、承認欲求なんかも“承認の貯蓄”って出来ないと思うんです。例えばある日・ある時、インターネットやテレビで“時の人”になり、普通の人の一生分ぐらいの承認欲求をかき集めたとしましょう。けれども満足していられるのは、せいぜい一週間かそこらぐらいではないでしょうか。何万人何十万人から賛辞や注目を集める行為は、喩えるなら数万人分の料理を一度に提供されるようなものであって、結局は食べきれないし保存もききません。
 
 ということは、承認欲求にしろ、自己愛にしろ、理想的な充たし方は「毎日適量を摂取し続けること」ということになりそうです。“時の人”とか“有名人”を目指すのではなく、恒常的かつ確実に心理的に充たされるような社会適応を目指したほうが、心理的には飢えにくくなれるでしょう。
 
 

承認欲求を“暴飲暴食”してしまう事について

 
 それと、あまり注目されていないような気がするんですが、承認欲求を“暴飲暴食”するも実はあんまり良くないような気がするんです。
 
 粗食とでも言うべき、ちょっとずつの・日常的な心理的充足で満足するのに比べて、“時の人”になるような、ゴージャスで非-日常的な心理的充足で満足するほうが快感が強いのは確かです。しかし、そういうのって、フォアグラやキャビアや生ハムばかりの非-日常な料理をバクバク食べてメタボ一直線みたいな人物みたいなもので、心のダイエットができないというか、自己イメージばかりブクブク太ってたくさんの心理的充足を与えられないと満足出来ないような、非効率な心になってしまうと思うんです。たくさんの心理的充足を与えられないと満足出来ないってことは、それだけ多くの承認なり自己愛なりが充たされなければ不幸になるというわけで、いわば“燃費の悪い心”を身につけるも同然です。
 
 大昔は、非-日常的な心理的充足というと、(お祭りのような)ハレの日の場面に限られていましたし、その後も、人々の注目を集めるような特殊な状況・人物に限られていました。だから、“フォアグラやキャビアや生ハム”に喩えたいような派手な心理的充足で自己イメージがメタボる人は比較的限られていたと思われます。ところが20世紀末以降、非-日常的なガジェットの消費やサブカルコンテンツの消費を介して、私達庶民でも簡単に非-日常的な心理的充足にありつけるようになりました*1
 
 2012年現在、そうしたコンテンツを介した非-日常的な心理的充足はきわめてイージーなものになっており、お金か時間さえかければ、多種多様な手段で貪ることが可能になりました。喩えるなら、“フォアグラやキャビアや生ハム”に手の届かない人も、“化学調味料漬けのラーメン”や“わかりやすいテイストのファストフード”で幾らでも承認欲求や自己愛を充たせるようになったのです。それを福音だと言う人もいるかもしれません。しかし、そうした強烈過ぎる快感に慣れていくなかで、どんどん自己イメージを膨らませて“燃費の悪い心”になっていくこと・そうした人工的手段に依存していく事を、本当に福音と呼んでよいものか、私は疑問に思います。
 
 それと、もう一つ問題があって、極端なレベルで承認欲求を“暴飲暴食”すると、刺激が強すぎて神経にはキツいと思うのです。
 
 たくさんの人から注目を集めること・“時の人”になることは、純-心理的な次元では確かに大きな快感です。その一方で、人間は、あまりにもアテンションを集めすぎると*2身体レベル・神経レベルでは疲れやすいとも思うのです。いくらラーメンが旨いからといって、ラーメンばかり大量に食べ続けていれば胃腸や膵臓に大きな負担になってしまうのと同じように、いくら承認欲求や自己愛を充たすことが快感だからといって、派手で非-日常な充たし方を繰り返していれば、身体レベルや神経レベルでは大きな負担になるのではないか、ということです。
 
 承認欲求や自己愛がなければ人間は心理的に飢えてしまうというのは確かですが、さりとて“暴飲暴食”に明け暮れるあまり、身体や神経を酷使し、あまつさえ生活リズムを崩したり睡眠不足に陥ったりしていては本末転倒というか、何をやっているのかわかりません。そっちの芳香には、心身の健康なんてものは無いと思うんですよ。心の平安も。
 
 心理的な満足を求めるのは良い事だと思いますが、無思慮な“暴飲暴食”は考え物です。
 
 

*1:このあたりのいきさつについては『ロスジェネ心理学』にまとめました。持っている人は第四章を参照して下さい。

*2:または少数からでも強すぎるアテンションを集め続けると