「最近日本から寛容さが失われている」のは何故か - Togetterまとめ
新幹線の車内ではしゃいでいる子どもや、夜遅くまで騒いでいる大学生に対し、私達はどれだけ寛容な気持ちを保っていられるだろうか?次世代を担う子ども達の、年齢相応の振る舞いに対してさえも、寛容よりも非難が勝る人が増えているのではないだろうか?
寛容さとは正反対の、きわめて自己中心的な人達もよく見かけるようになった。自分の意に沿わない相手に攻撃的な人間や、他人に際限なく要求する人間が、モンスター○○などと呼ばれて問題視される時代でもある。*1
これらを踏まえて「昔の日本人が寛容」で「現代の日本人は寛容じゃなくなった」と結論づける人は多そうだ。少なくとも、見かけ上、日本から寛容さが失われたように見えるのはその通りかもしれない。
「身内」には寛容でも「他所者」にはそうでもなかった日本人
では昔の日本人は、本当に寛容だったのか?
ここで、「昔の日本人は、誰に対して寛容だったのか?」を思い出してみると、そうでもなかったような気がしてくる。
昔、地域社会で暮らす人達がコミュニケートしていたのは、他人であっても他人とは言いきれない、運命共同体的な、顔見知りの存在だった。こうした顔見知りは、現代の基準からすれば「他人」というよりむしろ「身内」に近い。農業にせよ漁撈にせよ村祭りにせよ、生活空間や作業を共有しなければならないなかで、顔見知りへの寛容さは必要な処世術だったのだろう。
しかしそんな日本人が、余所者に対しては警戒的だったこと・コミュニティのウチ(内)とソト(外)を区別していたことも忘れてはならない。例えば「他人に迷惑をかけてはならない」「世間様に申し訳が立たない」といった言葉も、「コミュニティの人間に迷惑をかけるな」「コミュニティに申し訳ないことをするな」というニュアンスが強いのであって、コミュニティのソトの人間までが想定されていたわけではない。そして、ソトに対しては「旅の恥はかき捨て」のような言葉も流通していたわけだ。
なので、「昔の日本人は寛容だった」と回想する際には、「あくまで身内意識の及ぶ範囲に対する寛容さ」だったことを留意する必要がある。身内贔屓、と言ってしまっても良いかもしれない*2。その身内贔屓が、家族、町内、地域、出身学校、都道府県といった具合に同心円状に意識され、それぞれの水準にみあった寛容さを発揮していたものが、「日本人の寛容」として観測されていたように見える。
この、身内意識・身内贔屓のメンタリティは今でも日本人に残っているらしく、企業、角界、専門家集団など、身内を意識できるフィールドではそれらしい身振りを数多く観測できる。そして身内贔屓な人達のなかには、意志決定に際して、合理性や事実性よりも身内意識を重視する人が少なからず混じっているらしく、“「ウチ」か「ソト」か”がコンフリクトの源となることも珍しくない。
身内意識をもてる情況下でなら、寛容に(そして甘く)振る舞おうとする人はまだ多いようだ。
「身内がいなくなった」→「寛容さの対象もいなくなった」
ところが、街から身内がいなくなってしまった。
都道府県や市町村レベルはもちろん、町内や地区という意識も希薄になって久しい。生活も文化も風習も共有しないオートロックマンションの住民やニュータウンの住民には、身内意識を持てるようなコミュニティは存在しない。駅の構内やショッピングモールで遭遇する他人も、イベントも生活空間を共有しない、ほとんど全き他人ばかりである。そんな、一期一会で、顔も覚えられない他人に対して、身内意識を抱くのは不可能に近い。
そうした状況下で、若い世代だけでなく老年世代さえもが、不寛容で自己中心的な態度を選ぶのも、自然といえば自然かもしれない。そういう人達は、ショッピングモールを「他所」「ソト」とアイデンティファイし、「他人身内に迷惑をかけるな」よりは「旅の恥はかき捨て」に近いモードで振舞っているのだろうし、その認識自体は間違っていない。
こうした現象を、「日本人が寛容じゃなくなった」と捉えるのはたぶん間違っている。現代人が過去の田舎者より不寛容になったというより、身内とアイデンティファイされる人間に出遭わなくなったから、寛容に振舞う相手がいないだけではないだろうか。
失われた「身内」を求めて
ところで、こうした「身内の喪失」は、地域や街だけでなくもっと広いレベルで起こっている。
日本企業が濃厚なコミュニティ的性格を漂わせて外国人をビビらせていたのも遠い昔の話で、身内意識はどんどん希薄化している。特に、契約社員のような雇用システムでは身内意識を抱くことはほとんど不可能である。また家族関係に関しても、核家族化が進み、その核家族すら各人バラバラになりやすい昨今、身内意識の拠り所として頼りなくなる一方だ。
結果、多くの日本人は、かつて無いほど「身内」の少ない、互いに寛容さをシェアできる相手の少ない境遇を生きることになった。「身内と他所」、「ウチとソト」という意識がいまだに強い日本人にとって、これは簡単なことではない。“しがらみ”からの開放はいいとしても、そのかわり、寛容になれる相手も見いだせず、誰かの寛容さにもたれかかることも出来ない――さらに言うなら、甘えたい願望も甘やかす願望も充たせない――のである。
こうした「身内」にまつわる願望を代償するためか、日本のインターネットには、身内意識を疑似体験できるような、村感覚じみたコミュニティが繁栄している。『ニコニコ動画』『2ちゃんねる』『Mixi』といった日本固有のインターネットサービスには、ヴァーチャルな身内感覚を体験しやすいものが多い。もたれあいや馴れ合いを重んじ、身内に対しては甘いと言って良いほど寛容な・身内以外に対しては残酷と言って良いほど不寛容に傾きやすいこうしたネットコミュニティ群(virtual village、と表現したくなる)は、失った「身内」を埋め合わせたい日本人の心の隙間を埋める、“こころのサプリメント”として機能しているのかもしれない。*3
*1:尤も、寛容でない他人が増えたのか、それとも私達自身が寛容でなくなったからモンスターが増えたように見えるのか、区別するのは容易ではないし、そのあたりへの注意深さを欠くのは危険でもある。
*2:そして、ここでいう身内贔屓のメンタリティは、身内に対する甘えの期待、空気への隷属圧力、といったものと表裏一体であることは言うまでも無い。
*3:ただし、身内贔屓に無我夢中のネットコミュニティ同士が、不毛な争いや、徹底した相互不理解を繰り広げている風景をしばしば見かけるにつけても、“こころのサプリメント”以上の役割を果たすとは考えにくく、政治的・社会的に有意味なまとまりを形成する可能性は低いと推測する。内側にしかアタッチメントのついていない小さなボールが何個集まったところで、大きな一つのボールとはなりえない。