「努力したけど報われなかった。」
この言葉を、すぐ断定的に使ってしまう人達がいる。けれども、努力や頑張りが本当に報われない、ただの無駄に過ぎなかったのかを即座に判断・評価するのはかなり難しい。“災い転じて福と為す”“怪我の功名”といった事も人生には沢山あるはずなのに、どうして彼らは「努力したけど報われなかった」とあっさり断定してしまえるのだろう?
「努力が報われなかった」と性急に決め付ける勿体無さ
「一年頑張ったけど、報われなかった」;
こんな風に報われたか否かかがはっきり分かるのは、実生活のなかでは受験勉強ぐらいのものだろう。模擬試験の点数やロールプレイングゲームの経験値のように、数値化された形でいつでもどこでも努力の成果をチェックできる分野は人生にはあまり存在しない。21世紀においても、ひとりひとりに蓄積される経験や因縁*1は常にアナログ的で、好ましい変化も悪しき変化も、たいていは目に見えないほどゆっくりとした形でやってくる。その、亀のようにゆっくりとした変化の累積を形として捉えるには、鈍感な人ほど長い時間が必要なんじゃないだろうか?
例えば失恋。その恋では実らなかった努力やあがきが、次の機会に大きな教訓となって生かされるということは、十分あり得るし、そういった蓄積も無しに男女交際のノウハウを円熟させていけるとは思えない。健康・人間関係・趣味・仕事などの分野にも、同じことはしばしば当てはまる。人生には、短期的には無残な結果のようにみえるエピソードが、長期的にみれば極めて重要な発想の転換点だったりすることがよくある。しかし、こうした長期的な“怪我の功名”はすぐには絶対分からないもので、数年後の自分自身が振り返ってみて初めて観測・評価できるものだったりもする。
にもかかわらず、努力を“損切り”してしまう人は後を絶たない。この努力は無駄でしか無かったと決め付けて省みることなく、一切の可能性を諦めるという態度。しかし、ひとつの失望・ひとつの期待はずれのたびに努力を損切りしていたら、一体全体、なにが残るだろうか?人生には晴れの日も雨の日もあるけれど、寒冷前線が通過するたびに「努力は報われなかった」とみなして可能性をリセットするような人の手元に、何かが残るとは思えない。*2
いつも努力の損切りをしてしまう人は、もしかすると三段跳びの一段目で「これは無駄に過ぎなかった」と毎回立ち止まってしまう人かもしれない。ホップ→ステップ→ジャンプの一段目で、「ジャンプに達しなかった俺は努力するだけ無駄」と決め付けているのかもしれない。一度転んだら、二回目も必ず同じ転び方で転ぶものだと思いこんでいるのかもしれない。けれどもそれらは本当だろうか?
“努力の損切り”をためらってみよう
すべての努力を死ぬまで抱えていけ、とは言わない。
けれども、「努力が報われなかった」と安易にそれまでの積み重ね & 積み重ねた自分自身を否定してしまうのは、あんまりだと思う。少なくとも、本当に努力が報われなかったかどうかはすぐには分からないという意味において、性急に結論を出すのは間違っている。この、早すぎる努力の損切りは、あらゆる努力を呪い殺す態度であり、未来の自分に何の贈り物も残しにくい処世術だ。第一、自分自身が苦労を凌いでがんばった記憶を、そんなに簡単に人生から斬り捨ててしまって良いものだろうか?
できるなら、努力の損切りをためらってみて欲しい、と思う。報われたと思うのが困難な時にも、せめて三年ほど“塩漬け”にしてみて欲しい。本当に努力が無駄でしかなかったのか・何かの足しになったのかを評価する役割を、三年後の自分に託してみて欲しい。そうしたほうが、今の自分自身の精神衛生を楽にしやすいだけでなく、未来の自分自身になんらかの材料を残せるかもしれないから。そして、もし未来の自分が「ああ、あの時がんばって上手くいかなかったのも、まんざら無駄でもなかったんだな」と思える時が来たなら、ほんの少しだけ、その努力は未来の自分に届いたということになると思う。こういう時には、たいてい時間が味方してくれる。
努力が報われたかどうかを判断する権利を持っているのは、現在の自分自身だけではない。未来の自分にもその権利があること・未来の自分が現在と全く同じ判断を下すとは限らないことを、どうかお忘れなく。