優越感ゲーム - モヒカン族
他の人が持っていなさそうな物品や知識を持ち、ひけらかすことによって「自分は他のつまらない連中とは違う」「自分だけが価値のあることを知っている」といった感覚に耽る営為を、インターネットスラングでは優越感ゲームと呼ぶ。優越感ゲームは特に思春期にはありがちな心理であり、「他の連中とはちょっと違うオレ」を演出して他人と自分を差異化するべく、あれこれの文化コンテンツが頻繁に買い求められることになる。
ところで、優越感ゲームは何故必要なのだろうか?
「そりゃあ優越感が気持ちいいからさ、他人と差をつけたいんだろう」と答える人もいるかもしれないが、だとしたら何故、他人に優越していることが気持ちよく感じられるのだろうか?どうしてやめられないんだろうか?時間や金銭を費やして、衣服やデジタルガジェットなどを、何遍も何遍も飽きる事無く、反復的に買い求めるような優越感ゲームは、一見、きわめて非合理的な行動にみえる。しかし思春期の男女なら誰しも、そのような非合理的にみえる優越感ゲームにそれなりに時間とお金をかけるし、かけすぎて身の破滅を呈する人すらいる。そうでなくても年齢や場面に不相応な優越感ゲームをやりすぎれば影で馬鹿にされるリスクが高いのに、よくやるとしか言いようが無い。それはどうしてなのか。
ひとつには、周りの同性や異性に一目置かれるためにユニークさをアピールしたい、という本能的な何かがあるのかもしれない。
人間は、並外れて豊かな認知機能を持っているうえに、とても複雑な文化に包まれて生活している。そんななかで、同性や異性に対して「オレは凡庸なオス(メス)とは一味も二味も違う」とか「オレはこのグループのなかでトップになる資格がある」とアピールする手段として、優越感ゲームがあるのかもしれない。原始時代であれば、動物を仕留めたり敵部族の長老の首を持ち帰ったりすれば、「ライバル達とは違うオレ」を雄弁に証明できたかもしれないが、あいにく現代社会には狩るべき動物も敵部族も存在しない。その代償として、文化のジャングルのなかから宝石のようなコンテンツを探し出してきたり、流行の一足先を行くような衣服を身につけてみたりすることで、集団のなかで自分の特別さをアピールしたくなるのかもしれない。そういった日々の積み重ねの結果として「ダサい奴らとは違うオレ」「このグループのオピニオンリーダー」を演出することに成功すれば、実際、同性や異性から一目置かれるチャンスもあるのかもしれない。
けれども、それだけではなさそうだ。世の中の優越感ゲームの“プレイヤー達”をみていると、実際にどれだけ同性や異性を惹きつけることが出来ているかといった実利の面が二の次になってしまっていて、勝ち負けに拘って一喜一憂することに魂を奪われてしまっているような一群をみかけることがある。彼らの、反復的で強迫的な優越感ゲームをみていると、そのような行動に走らなければならない、やむにやまれぬ心の事情があるのだろうなぁと推察せずにはいられない。
思うに、優越感ゲームは、自分自身の自信の無さやアイデンティティの乏しさを代償するためにも必要とされる営為なんじゃないだろうか。自信の無さやアイデンティティの乏しさの度合いが酷い人ほど、それを代償するために要求される優越感ゲームも苛烈にならざるを得なくなるのではないだろうか。
・自信の無さを、他人に優越していることを確認することで埋め合わせる。
・アイデンティティの乏しさを、凡人ではない自分を確認することで埋め合わせる。
しかし、どれだけ先取りしても流行は追いかけてくるし、「凡人ではない特別な自分」を確認する為のポーズをとり続けるのはラクではない。自信の無さやアイデンティティの乏しさを優越感ゲームで補い続けようと思ったら、何ヶ月も、何年も、いつまでも走り続けなければならず、強迫的に、反復的に、“優越し続けなければならない”。本来、それはとてもしんどいことだ。
人間という生物は、ポジティブな欲求の為に頑張る場合には、疲れれば休むこともあるし、欲求を充たせば一休みすることもある。しかし、欠けているモノを埋め合わせる為や、眺めると不安になる現実から目を逸らすためなら*1、倦もうが疲れようが体を壊すまで頑張り続けるものである。自信の無さやアイデンティティの乏しさに直面するのを回避するために、体に鞭打ってでも優越感ゲームを戦い続ける人々----なんともしんどい生き様だが、優越感ゲームに最も忠実な“プレイヤー”というのは、こうした人々ではないかと思う。
優越感ゲームが少なくなるための条件について
ここまで、優越感ゲームが必要な理由について考えたが、逆に、それらの理由がなくなればなくなるほど、(その人の)優越感ゲームも減ってくると推測することが出来る。例えば以下のような条件が揃っている人は、優越感ゲームにしのぎを削るための動機に乏しいそうである。
・コミュニティのなかでリーダーシップが確保できていたり、一目置かれる存在になっている
・異性へのアピールの必要性がなくなってきている
・自信を欠いたメンタリティを脱却してきている*2
・アイデンティティがまずまず充たされている
これらの条件が揃っていればいるほど、その人の優越感ゲームの頻度は低くなり、強迫性も帯びにくくなりそうである。ところが、こうした条件は思春期前半の90%の男子には望むべくもない。特に男性の場合、コミュニティのなかで一目置かれるにも、自信を身につけていくにも、それなりに時間がかかりやすい。だとすれば、思春期男性のなかでも若い年代において優越感ゲームが盛んとなるのも、“中二病”“高ニ病”といったスラングが生まれてくるのも、当然といえば当然なのかもしれない。