シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

恋愛の為に自分を賭けるのか、賭けるスリルの為に恋愛するのか

 
2008-04-22 - 空中キャンプ
 

奥菜さんはちゃんと賭けている。だからわたしもばんばん賭けていこうとおもっている。

http://d.hatena.ne.jp/zoot32/20080422#p1

 
 リンク先の記事を読んでいて、“恋愛に自分を賭ける”ということについて色々と考えさせられました。なるほど、恋愛に際しては、“市場価値”の高そうな男女であっても自分の自意識やプライドを異性に賭けなければならないというのは確かだと思います。そしてそれが出来ないが故に、傷つくことを怖れて異性からの逃走を図る輩に溢れているのも事実でしょう。
 
 ただし、異性に対して自分自身を賭けるというのも、度が過ぎて癖になれば、また違った問題を呈してきます。そこの所を、ちょっと書いてみたいと思います。
 

恋愛のために自分を賭けるのか、賭けるスリルの為に恋愛するか

 
 私は奥菜恵さんという人の暴露本を読んだことがありません。しかし、zoot32さんのブログに書いてある記事を抜粋すると、

奥菜さんの告白本を読んでいると、彼女はむしろそうした修羅場を求めているようなふしすらあって、男女がある一線を越えて本気でぶつかりあう瞬間(痴情のもつれ!)にこそ充実を感じ、リアリティを見出しているようにも見える。自分をがっつりさらけだすのが恋愛だし、みっともないまねを平気でするのが愛なのよ、と。

http://d.hatena.ne.jp/zoot32/20080422#p1

 となってます。でもこれって、恋愛そのものに夢中になってるというよりも、自分自身を賭けることに夢中になっている、ようにもみえませんか。修羅場を求め、本気でぶつかりあう瞬間に充実を感じるというくだりを見ている限りでは、「相手のことが好き」で自分を賭けてるのか「自分自身を賭ける」のが好きで自分を賭けているのか、よく分からなくなってきます。自分を曝け出すのが恋愛・みっともないのも恋愛というのは確かにその通りですが、「自分がどこまでギリギリの所までいけるのか」に陶酔するというか、自分を断崖絶壁に立たせることが、ある種の嗜癖になっている男女って実際に時々見かけるんですよ。ドン・ファン型ともまた少し違った、「男女関係で断崖絶壁のスリリングに陶酔するのが癖になっちゃってる人」が。考えようによっては、タフな人達と言えます。ですがこんなのは、ある種、博徒のようなものじゃないですか。お金が欲しくて博打を打つというよりも博打を打つスリルそのものに病みつきになっている人をみて、「人間力が高いな」とは言う人は少ないと思います。と同様に、異性が好きで自分を賭けるというよりも、自分を賭けるスリルそのものに病みつきになって恋愛している人をみて、「女子力/男子力が高いな」というのは、ちょっと無いなぁ、と思いませんか。本気でぶつかりあうことに充実感を感じ、リアリティを見出すと言っても、もし、それが病みつきになってるような人は、なんか危ういような気がしませんか。
 
 

修羅の世界を避ける為にも

 
 恋愛のために自分を賭ける、のは良いとしても、賭ける人がすべてお手本になるとは限りません。賭けるスリルや擲つ自分に陶酔するようになると、色々と苦労するんじゃないかと思います。ですので、

わたしもばんばん賭けていこうとおもっている。

 ばんばん賭けることが目的化してしまったり、賭けのスリルに身を任せすぎないようにはご留意ください。恋愛という目的の為に自分を賭けるのは構わないと思いますが、スリルやヒリヒリ感の為の手段として恋愛に賭けるようになった人は、多分アウトなんじゃないかと思います。色々と。