シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

私達は、自らの人生をゲームになぞらえる程にメタ化視点に慣れすぎている

 
 以下のエントリ群と、それに対するトラックバックやブックマーク数をご覧になって欲しい。私は人生をゲームに喩える、という視点があっても良いとは思うし、そういった視点から得られる教訓やユーモアを貴重なものとは思うけれども、人生をゲームに擬える視点がこれほどまでに一般化・陳腐化している事には驚かざるをえない。
 
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 人生を神ゲーに喩える人、糞ゲーに喩える人。ゲームが楽しいという前提に立って、ゲームほど楽しくないからゲームじゃないと言う人。堀井雄二さんの「人生はRPG」以来、人生をゲームに喩える表現はこんなにも一般化してしまっている。
 
 ロールプレイングゲーム、とりわけ見下ろし型のロールプレイングゲームやシミュレーションゲームは、キャラクターの営みに対してプレイヤーがメタ視点をもって眺めやり、操作するという形式をとっている。また、3Dアクションゲームや3Dダンジョンゲームのようなプレイヤー視点のゲームにしても、数値化されたパラメータやダンジョンマッピングなどの幾つかの次元においてプレイヤーはキャラクターに対してメタ視点を持たざるを得ないし、また持たなければゲームがゲーム性を保ったゲーム然としては成立しにくい。
 
 対して、人生にはパラメータもなければ操作性も無い。実は「キャラクターを操作するプレイヤー」らしきものもいない。敢えて言えば*1、キャラクターが勝手な意志のもとに動き回っているor環境に反応して蠢いている、というのが実際のところで、個人を何らかのインターフェースに則ってメタ視点から操作している者は存在しない。そして、勝手な意志で動き回るのであれ、環境に反応して右往左往しているのであれ、主体はメタとベタという区別のなかで少なからぬベタな感情・動機によって駆動している(またはさせられている)。人は、メタ視点やメタ判断に基づいて自分自身を“操作”出来ないし、よしんばある程度出来たとしても、それはベタな感情・動機と並列的に存在することは出来ても単独で個人の言動を規定することは無い。人、そして人生に対してメタ視点を導入し、メタ判断のもとで(あたかもキャラクターパラメータを覗いたり見下ろし型マップのなかで操ったりするが如く)操縦する事は非常に難しいし、実際、それ無しで生きている人も少なくない。人はメタのみで生きるにあらず。ひょっとしたらベタのみで生きることは出来るかもしれないが、メタだけで生きることは不可能で、せいぜいメタベタ混合状態ぐらいが関の山、の筈なのである
 
 しかし、私達はメタの夢をみる。ネット上を書く人・読む人においては、これほどまでに人生をゲームに、そして人生に対してメタ視点に喩えることが一般的なものになっているようだ。これは面白いことである。何故だろうか。
 
 一つには、ネット上にモノを書く人・読む人が極単純にゲームに親しんでいるから、というのがあるだろう。一つの物語なり成長なりをゲームという媒体のなかで眺めやることにゲーマーやオタクは慣れきっている。だからこそ、というのはわかりやすい理由であり、外せないところだろう。でもそれだけで人は人生をRPGやらMMOやら育成ゲームやらに喩えるだろうか。もし、人生に対するイメージがゲームに対するソレと大きく解離していたら、わざわざ人生をゲームに喩えようとはすまい。やはりもう一つの背景としては、ネット界隈にいる多くの人達自身が、自分達の人生に対してメタ視点を導入しやすい心性に傾いている、というファクターが存在しているのではないかと思う。
 
 メタ視点過剰は、自分自身を揺り動かす情動や動機に対して距離をとるには優れているし、戦略的に自分自身の人生設計を行うにも向いている――ちょうど、MMOのキャラクターを長期的育成を視野に入れて育てるように――。だが、実際の個人の人生というのは、メタ視点からの判断だけでは割り切れない言動に充ち満ちていている。ご主人様が何らかの目的に則った形でキャラクターを操作しているというより、個人は、情動と反応という自分自身でも把握困難なものに駆動されている割合が多いわけで、メタ視点だけで自分の人生を切り盛りすることは容易ではない*2。それだけでなく、メタ視点を導入することが人生に関するサイコロを振ることへの諦念を促進させる人や*3、都合の良いメタ視点を導入することで都合の悪い自分自身の情動・反応から目を逸らせて「俺はわかっちゃいるけれども敢えてやっている」という態度をとる人は、そのメタ視点が存在すること自体が適応の幅を狭いものにしかねない。
 
 今回の「人生はゲームに喩えられる」に関する様々な発言をみても分かる通り、私も含めたネット界隈に住む人や、オタク達は、自分達をメタ視点で取り扱うことにあまりにも慣れすぎている。この、自らをメタ視点でパラメータ化・見下ろし化する傾向が、“戦略的に自らの人生をマネジメントすることに慣れているが故に”であれば良いのだが、私見では、“多くの人はそうではなく自らの人生の影やドロドロしたものをcut offする為に都合の良いメタ視点に耽溺しているのではないか”、と疑っている――例えばハルヒのキョンのように。とりわけ、ゲームプレイヤーからのメタ視点の如く自分自身(或いは他人)を照覧することをやたら好む人達において、彼ら自身が自分自身の人生をそのメタ視点から管制・操縦しているという印象を受けたことは本当に少ない。代わりに、メタ視点から自分の人生を冷ややかに(あるいはシニカルに)眺めやる傍観者のまなざしばかりが私の目につく。そのような人々においては、果たして、「人生をゲームに喩える」に代表されるようなメタ視点は適応促進的なものだろうか?彼自身の苦しきを減らして選択肢を増やしてくれる「神の目線」だろうか。少々、疑問に思わざるを得ない。
 
 繰り返すが、私達ネット住人は、或いは私達オタクの少なからぬ人間は、自らの人生をゲームになぞらえる程にメタ化視点に慣れすぎている。良いメタ視点、悪いメタ視点というのもおかしいのだが、戦略的であれ逃避的であれメタへの過剰な傾倒は(ベタへの過剰な傾倒と同じかそれ以上に)色々な副作用をもたらすものだと思う。そして現代というのは、誰もが自分の人生をゲームに喩える事などわけない程には、自分自身をメタ視したりパラメータ化したりすることが当たり前になっている時代のようなのである*4
 
 これだけ沢山の人が自分自身をメタ視出来るorしてしまうとするならば、そのなかには、メタ視症候群とでも名付けたくなるような、メタへの過剰な要請を抱えた人達や、メタ視に埋没してしまって身動きとれなく人も出てくる筈*5だし、事実そのような人達をネット上やオタク界隈で多数みかけることが出来る。自分自身や個人をやたらとメタ視することがもたらす落とし穴に、私達はどこまで気をつけることができるだろうか?
 

*1:そしてこの敢えて言う言い方は明らかにメタ視点な、私自身人生や個人をゲームに喩えるもの言いだが

*2:自分自身の情動をもメタ分析・パラメータ化させればいい、という人もいるかもしれないが、これはメタ心理学をやっている人間にとってすら完璧を期することが出来ないものである、ことは言い添えておく

*3:この言い回しは、『ひぐらしのなく頃に』をプレイしたことのある人ならしっくり来ると思う。

*4:コミックやアニメのキャラクターの造形においても、この傾向がみてとれる

*5:正規分布のはじっこのほうに