2006年現在の日本は、各人の所属する文化・習慣・価値観の多様化が著しい状態だとしばしばいわれるが、オタク文化圏もまた、カルチャーの細切れ化がとりわけ進行している分野のひとつと言えるだろう。ゲームやアニメといったコンテンツが無尽蔵に氾濫し*1、好み・ジャンルによって樹状の枝分かれを遂げた現在のオタク文化シーンの全体像を把握することは、一人のオタクにとって殆ど困難になっている。例えばエロゲーという分野なり、例えばミリタリーという分野なりは、それぞれのジャンル内だけでも幅広いニッチに分かれており、同じエロゲー愛好家の間でさえ、“互いに翻訳可能な共通認識のあるゲーム”を探しながら話をしなければならないという状況は少なくない。相手の知らないゲームの話をする際、「月姫の琥珀さんみたいなキャラ」とか、「スクールデイズっぽい黒さ」などといった表現を用い、何とか自分の考えを伝達しようとしたオタクさんは決して少なくはない筈だ。
元来オタクという人種は、ジャンルを問わず、自分が打ち込んでいるオタクコンテンツの話題を通してコミュニケーションをとる傾向が強かったと常々私は思っているし、それもまたオタクの社会適応を特徴づけている重要なポイントだと思う。おそらくは非言語コミュニケーションの不器用さを補うために、または対人コミュニケーションの侵襲性を軽減するために、オタク達はオタクコンテンツの話題を謂わば「中継地点」のように間に挟みながら仲間達とのコミュニケーションを構築しがちである*2。故に、オタク達にとって、オタクコンテンツは単なる娯楽以上の重要性な適応上の意義を有している。つまり、オタク仲間達と楽しいコミュニケーションをとるうえで必要な“共通理解”“共通認識”としての意義である。特に、不特定多数のオタクに通用し得る共通コンテンツ(アニメならガンダム・エヴァ、エロゲーなら葉鍵、などか)は、これまで多くのオタク達のコミュニケーションを下支えしてくれていた。一緒に感情を共有したり、共通認識を確認したりするうえで、各オタクジャンルのビッグタイトル達はオタク同士の繋がりに様々な便宜をはかってくれていた。「話の合うジャンルや作品があったから会話が助かった」という経験は、オタクな貴方ならばきっと一度ならず経験したことがある筈だ。特に初対面のオフ会の時とか、オタクサークルに新しく入っていく時などに。
こうしたオタク固有のコミュニケーション形態の特徴を考えた時、昨今の「ポストモダンっぽいオタク文化ニッチの細分化」もまた、単なる文化の多様化以上の意義を孕んだ現象として注目したほうが良いんじゃないだろうか。もう、「ガンダムの話をしていればとりあえず大丈夫」とか、「エロゲーなら葉鍵をやっておけばエロゲー談義にcatch upできる」という時代は終わったんじゃないか?オタク達にとってコミュニケーションの媒体として重要なオタクコンテンツが、かくも細かく多様化してしまい、作品の洪水が押し寄せている今、「幾つかのメジャーなオタクコンテンツさえ見ておけばオタク仲間との会話を円滑に出来る」という保障は次第に失われつつある。少なくとも数年前に比べれば“その分野のオタクなら誰もが知っている作品”の数は非常に少なくなっている*3。特定のメジャーコンテンツが該当ジャンルオタクほぼ全員にとっての「共通体験」となり得る可能性は、2006年現在、冗談抜きで失われつつある。少しづつ、だが確実にそうなっている。
あまりにも多様化し、あまりにも沢山のオタクコンテンツを抱えた現在のオタク達は、娯楽として消費するには多すぎる作品を抱えてしまったと同時に、オタクなら誰でも知っていると期待されるような、コミュニケーションに供しやすい“共通認識となり得る作品”をも失ってしまいつつある。一人で黙々とオタクコンテンツを消費しているだけの人はともかく、オタク仲間と知り合っていくことを楽しみにしているオタク達にとってこれは大きな痛手といえる。かつて、コミケやオフ会で新たに知り合ったオタクさんと話をしようと思った時、オタク達はお互いに共通の話題となり得る作品さえ知っていれば、曲がりなりにもコミュニケーションを実現出来ていた。だが、これからはそんなに簡単にはいかない。オタク文化ニッチの細分化・多様化によって、ひとつの作品が“オタクなら誰でも体験している作品”“エロゲーオタにとっての常識”になり得る余地は次第になくなりつつある。Fateクラスの極大メジャーコンテンツすら、(エヴァやAirなどに比べて)どれぐらいオタク同士の会話に安心して使えるのか怪しいところだ。これまでオタク達は、コンテンツを介した会話を行うことでオタク同士のコミュニケーションを円滑に進めていたが、今後オタク文化の細分化と多様化が益々進むにつれて、コンテンツを介したオタク的コミュニケーションは滞りやすくなっていくだろうと私は推測する。
オタク同士のコミュニケーションをとりもっていた、沢山のオタクコンテンツ。だがこれからは、むしろ(多様化・細分化の故に)オタク同士を分かつ文化的障壁として認識されやすくなるのかもしれない。もう、コミケで知り合った初対面の人に「○○ぐらいなら、きっとみんな知っているよね」というネタ振りは通用しにくい。少なくとも十年前よりは通用しない確率が高い。オタクコンテンツにすっかり依存したコミュニケーションをとっているオタク達にとって、今後のオタク文化細分化と、それに伴うコミュニケーションシーンの変化は、楽観できるものではないと思う。
*1:それに加えて同人界隈が二重のコンテンツ提供を行っているのだから恐ろしい!
*2:なお、こうした趣味の介在が無い時のオタク同士の会話は、当然のことながら流暢さを欠いたどこかぎこちないものとなってしまう。こうしたぎこちなさを何度も何度も目撃&体験しているうちに、私は以上のような推測を強くしていったわけである。
*3:ひどい場合、オタク同士の会話を支えるオタクコンテンツを、数年前の作品から引っ張って来るしかないことすら多い。例えばハルヒを語るにあたって、エヴァンゲリオンという作品を引用せざるを得なかった人達。ああ、私も含むんだけど。結局、ブログなり何なりでひとつの新作品を広範囲のオタクに説明しようとした時、エヴァまで後退しなければ「共通認識」「共通体験」として期待できるコンテンツがなかったということだと思う。そういう点で、エヴァを使ってハルヒを語るという現象はすごく示唆的だった。