シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

えいえんはないよ――21世紀ビジュアルノベルにおける時間感覚――

 
 いつまでも終わらない文化祭。いつまでも続く理想郷。一千年間夏の空。いつまでも僕とキャラクターだけの楽しい毎日。リセット可能性――少なからぬオタクコンテンツは、現実逃避の道具として、いつまでも終わらない青春回想ツールとして供されてきたことと思うし、そういった営為に好都合なコンテンツが淘汰のなかで生き延びてきたことには注目があって良かったと思う。もちろんエロゲーにおいても、作品と消費者との共犯関係の結果として、消費者を終わらない文化祭に留め置くことに好適な作品は沢山つくられたと思う。
 
 でも、(私でもプレイするような)人気があった最近のビジュアルノベルをみていると、「リセット可能性」や「終わらない文化祭」に対するアンチテーゼのような内容の作品が増えてきている、と思う。それが東浩紀さんの言う『ゲーム的リアリズム』的メタ経由か、それともコンテンツ内物語レベルのベタレベルかはともかく、21世紀のビジュアルノベル、それもかなり売れたビジュアルノベルにおいて時間感覚や選択一回性に敏感な作品が増えてきているんじゃないか、そしてそういった作品がオタク達によってしっかり支持されているんじゃないか、という気がしてならないのだ。以下、幾つかの作品における時間感覚・選択一回性に関して私見を短く挙げてみる。
 
・君が望む永遠(2001)
 2001年に既に出ていたゲーム。長い長いプロローグから三年後の世界において、主人公の選択ひとつひとつが(良い意味も含めて)取り返しのつかない結果をもたらす、ということを骨の髄まで浸透させたゲーム。既にこの時点で、選択のひとつひとつは後戻りの効かないもので、時に人を傷つけることはあっても前に進むしかない、という(現実では当然の)感覚がインパクトのある形で呈示されていた。主人公の孝之も、ヒロイン達も、逡巡に逡巡を繰り返すが、最後は後戻りの効かない形で自分達の人生を切り取っていく。なお、永遠の逡巡を延長しようとしたプレイヤーや、永遠の文化祭を選ぼうとしたプレイヤーには、地獄のバッドエンドが待っている。
 
 「傷つけるとか傷つけないとか言っていないで前に踏み込むしかない」というこの時間感性に当時のプレイヤーがどこまでついていけていたのかはともかく、それがメインテーマとして盛り込まれ、皮肉の如く“君が望む永遠”というタイトルになっていたこの作品は無視できないと思う。
 
・ひぐらしのなく頃に(2002-)
 雛見沢で永遠にループし繰り返される惨劇…という構造が、メタ視点を差し挟みつつ打破されていく。巧みなストーリー運びとオタクガジェットを織り交ぜて、オタクコンテンツとして高いクオリティを提供している一方、「永遠の繰り返しのなかで感覚を麻痺させていくことの是非」「ひとつひとつの選択が、取り返しがつかない分岐点となっている重み」などが繰り返し強調されている。
 
 「何度もループするからいい加減にやっても良い」とか、「何度もループするから一つ一つの営為の価値は薄い」といった考えは作中強く否定されている。一度しか無い綿流しを越えた後日談としての『ひぐらしのなく頃に・礼』においても、選択の掛け替えのなさはやはり強調されている。
 
 永遠のループ構造と、それに対する醒めたメタ視点が描写されることによって、ひぐらしはかえって時間感覚への敏感さや選択一回性についてプレイヤーに意識させる事に成功している、と思う。
 

・CLANNAD(2004)
・智代アフター(2005)
 どちらの作品も、限られた時間のなかでキャラクター同士が過ごして、やがて終わりがあるにしても縁はいつまでも連なっていくというテーマが盛り込まれている。というかそれがメインテーマだとさえ僕は思っていた。止まっていた時間は動き出すし、人はどんどん変わっていくし、街も命も時間も主人公を待ってはくれない。だからと言って一瞬一瞬に価値が無いわけではないし、不幸な境遇にあるからといって立ち止まったままではいられない。いかなる境遇でもいかなる関係でも、その時の最善を最善に生きるということが肯定的に描かれているのがこの二作品であり、20世紀のkey作品とは随分と違った印象に(良い意味で)驚かされたと記憶している。
 
 [関連]:智代アフター:成熟を重ねていくkeyの物語 - シロクマの屑籠
 

・この青空に約束を(2006) 
 この、一見ベタで恋愛ハーレム学園モノっぽい作品においても、時間感覚や選択の可能性については敏感にならざるを得ない造りに仕上がっている。ほぼ全ルートにおいて「楽園からの出発」「ピーターパンからの卒業」「萌えな日々の終わり」といった主題が通底しており、しかもそのうえで終わりの日までのプロセスが力強く肯定されている。楽園が刹那のものであることにいじけるでもなく、偽りの永遠に逃避するでもなく、それぞれの現在と未来を精一杯生きるキャラクター達の姿は、何をプレイヤーに問いかけているのだろうか。寮を旅立つの日の彼らの涙がこんなに美しいのは、どうしてだろうか。
 
 この作品は、「ただ思春期を楽しく懐古する恋愛学園モノ」という枠を逸脱したメッセージを強く訴えかけている。そこを拾わずに素通りするのは随分と勿体ないと思う。キャラクター達が時間と向き合うさまを是非読み取っていきたい。
 

えいえんは、ないよ

 
 以上、時間感覚や選択可能性に敏感な21世紀のビジュアルノベルを幾つか紹介してみた。他にも(Fate/ataraxiaなど)時間感覚や選択可能性に深く関与したゲームを挙げることは出来るだろう。オタクは永遠の思春期から抜けられないとか何とか言われがちだけど、そのオタクコンテンツの最たる分野においても、時間感覚や選択可能性が主たるテーマとしてプレイヤーに突きつけられた作品は色々ある、ということだ。
 
 勿論、こうした主題はオタクコンテンツで新たに生まれたものではなく、他のメディアや文化圏では既出のものだ。むしろ、遅きに失した印象さえある*1。しかしオタク達とて時間の流れや選択の一回性から目を逸らし続けるばかりというわけではない――その事をこれらの人気ビジュアルノベル達は証明してくれていると思うし、エロゲー制作者の感性が永遠の思春期に縛られているわけではないという安堵感も与えてくれていると思う。
 
 確かに、美少女ビジュアルノベルは、自分の願望をキャラクターに投げかけて回収したり、永遠のハーレムに逃避するツールとして役立ちやすい構図を持ってはいる。けれども、その構図に制作者も消費者も閉じこもりっぱなしというわけではなく、“美少女の楽園という手続き”を越えて、時間感覚や選択可能性の問題に(ゆっくりとだが)アプローチしはじめているのではないだろうか。もう永遠なんて言ってられない。永遠を越えて、限られた時間と選択肢の世界へ。
 

*1:この挙動の遅さは、例えば惑星開発委員会の宇野さんあたりにdisられる余地を提供することだろう

「決断主義」は流行の最先端ではなく、ただ当たり前のことでしかない。

 
 http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/2_0/2007/06/5_c5bd.html
 
 善良な市民さん(以下、宇野さんと表記)がSFマガジン上で書いた「決断主義」に関して、Masaoさんが「時代遅れだ」「現実は軽くなってるじゃん」と反論しているのが上記リンク先の記事だ。しかしMasaoさんの感覚のほうがむしろ時代遅れというか、時代に逆行していると思う。娑婆はますます流動性と多様性とグローバリゼーションをきわめていて、容赦なきパワーゲームが先鋭化しつつある状況に若い世代は対応を済ませている、と宇野さんは言いたいんじゃないだろうか。そして「現実を軽くする」ことで娑婆に対応出来たと思いこむ感性に対して、「そんなんでサバイブできるの?」と疑問を投げかけているのではなかろうか。
 
 流動性・多様性をきわめた現実をサバイブするには、分からないものは分からないと留保しつつも、その場その場では最善の選択肢を掬い取っていくほか個人の生きる術は無い。こうした90年代末〜2000年以降の気分を先取りすることに成功したからこそ『デスノート』や『鋼の錬金術師』などはある種のイニシアチブを獲得することに成功したのだろう、というのが宇野さんの主張だと私は理解しているし、その主張には殆ど同意することが出来る。失われた十年世代が青白い顔しながら、「えいえんはあるよ」だの「オタが望む永遠」だのに気を取られている間に、それより下の世代のうちに「あんな風にやってたんじゃ到底これからの世渡りは覚束ない」という気づきが芽生えることに不思議は無い。往時のオタク達の営みや(既に斉藤環先生によって広く知らしめられていた)“ひきこもり”の営みなどは、脳の柔らかい若年者層の間に適応主義的・決断主義的コーピングを発達させる反面教師として機能しちゃっていたのではないか、とさえ私は思うことがある*1。シンジ君ごっこへと進んだ年長者や、セカイとひとつになっちゃって呆けている男女の姿は、勘のいい年少者には「あれは多分ダメ」という感触を与える良い教材になったんじゃないか、と。まぁここら辺はいくら何でも深読みのしすぎとしても、セカイ系に漬かりきった私やMasaoさん達より下の世代において、世渡りに対してより敏感な感性が増えてきている*2ことは認めてもいいんじゃないかと思うし、それは「決断主義」という語彙に込められたニュアンスを当然の条件としているものじゃないかとは思う。
 
 確かに、宇野さんの形容した「決断主義」は新しいものではないと思う。宇野さん自身が指摘するように、台頭の兆しは90年代後半にはあったわけだし、自己責任だの何だのというのは小泉政権の頃にとりわけうるさかった。じゃあ益々ポストモダンでグローバルな2007年現在において「決断主義」に代わる処世が提示されているかと言ったら、何があるだろうか?私はソレを示すことが出来ない。むしろ就職戦線の活況も相まって、決断主義は若年者層においてブーストしやすい状況がもう暫くは続くんじゃないだろうか。もちろん「決断主義者」においては、就職戦線の活況を自己実現に直結させるようなイノセントは(もはや)希薄だろうけど、少なくとも、セカイ系的処世だのエヴァ的引きこもりだのといった現実逃避の遷延ではヤバいということは直感している筈だ。
 
 たぶん私はMasaoさんとは異なる意味で「決断主義は新しくない」と思っている。時代に追随出来ない時代遅れの遺物になったという意味ではなく、「そんなの当たり前じゃん」というニュアンスにおいて新しくも何ともない、陳腐な前提になったんじゃないかな?という意味でだ。若年世代オタク達において、脱オタなんて時代遅れでオタクでも服飾面に気を配るのがコモンセンスになっているのと同様、この苛烈な娑婆世界で「舵をきる度胸」を身につけておかない奴は落伍やむなし、という気分が蔓延しているんじゃないだろうか。その気分に鈍感な人はアンテナ感度低いよね、という含意が宇野さんのテキストにはあると思う。(二十代前半、十代の皆さんいかがですか?)
 
 セカイ系コンテンツ・決断主義系コンテンツの是非や、決断主義必須の状況下においてセカイ系コンテンツがどんな役割を担うのかについては後日の話題とするのでここでは触れない。にしても、『個人の処世術』という次元においては、陳腐な前提としての決断主義が広がりつつあって、(セカイ系的処世よりも)現代都市空間でサバイブするうえで有効なものと皆が気付き始めているんじゃなかろうか。そして今更「決断主義」に気付いた人達や、今でも目を逸らし続ける人達というのは、感度が悪かったり将来がヤバかったりするのではないだろうか。
 

現実逃避しやすくなったという。しかしあなたは現実を相対化し尽くせるのか?

 
 Masaoさんは宮台先生の言葉を引用しているけれども、「現実逃避の言い訳が要らなくなった」ということと「現実逃避が適応を長期的に阻害しなくなった」はイコールだろうか?「現実逃避の言い訳が要らなくなった」ということと、「現実が軽くなった」というのはイコールだろうか?私は違うと思うし、宮台先生が喋っているニュアンスがMasaoさんの把握通りなのかも疑問があったりする。
 
 第一に、幾らネットのこちら側が充実したとか、萌えコンテンツが充実したとか言っても、果たして食欲性欲睡眠欲をネットによって相対化し尽くすことが出来るかといったら、そりゃあ無理だと思う。リップサービスなのか、http://www.geocities.jp/wakusei2nd/p3.html内の宮台先生は「テクノロジーで何とかなるかも」的発言をなさっているけれども、いくら何でも十数年以内に食欲性欲睡眠欲をネットで代償できるようになるとは私は考えない。十数年先と言ったら、今三十歳の男性オタも立派な中年だ。それでも永遠の思春期をやっていられるだろうか?私個人の危惧としては、レアメタルや化石燃料の枯渇や環境問題などによってテクノロジーが十分発展する前段階でホモ・サピエンスはそれこそ「もっと決断主義的な」気分に見舞われるんじゃないかと邪推している*3。十数年後の物質世界を楽観できる人達が、ときに私には羨ましい。
 
 第二に、どれだけインフラが整備されようとも、どれだけ現実逃避の言い訳が不要になろうとも、自己実現の問題や自意識の問題は常に椅子取りゲームにならざるを得ないという世知辛さは残るんではなかろうか*4。現在の日本のインターネット状況がいかに自己実現と自意識の問題に絡めとられているのかをみるにつけても、結局、ネット上で決断主義同士のぶつかりあいが横行するだけなんじゃなかろうか。ネットが非現実で非ネットが現実などという線引きはここでは意味を為さない。ネットも非ネットも、そこに人が群れる限りにおいては娑婆に違いなく、「決断主義的なパワーゲーマーを前に、うずくまるセカイ系プレイヤーは有効な打撃を与えられない」という図式がそこかしこで展開されざるを得ない*5。セカイ系だの引きこもり系だのは、一部のMMOなど、パワーゲーマーが見向きもしなさそうなニッチのなかで万能感に酔っ払い続けるという逃げ道しか確保出来ないんじゃなかろうか。確かに、ニッチに逃げ込むことやニッチをデータベースから構築することはもっともっと簡単になるだろうけど、そのことは当人の一層の現実逃避を促進し、社会と接点を持つ能力を退化させるだろうし、一層狭いニッチへと撤退を繰り返す道でもあろう。そしてどこまで小さなニッチに逃げ込んだとしても、そこが人の群れ集う空間である限り、自意識や自己実現をはじめとする椅子取りゲームで私達はひしめき合うに違いなく、とどのつまり「決断主義」から逃れることは困難だ。より完全に決断主義から逃れるには、最終的には「萌えゲー」などの人のいないスタンドアロンな空間に移行するしかないわけだけど、そのような生き方でさえ現実リソース(資金や住まいなど)を要請し、尚且つ現行のテクノロジーでは食欲性欲睡眠欲や対人関係欲求を代替し得ないことを考えれば、本当の意味でスタンドアロンでいられる人間など娑婆には存在しない。引きこもりの人達の苦悩と娑婆における適応低下を思うにつけても、パワーゲーマーだらけの娑婆からの撤退に次ぐ撤退の末路は、非常に苦しいポジションだけだと思う。
 
 そして第三に、仮に物質的・金銭的コストを減少させることが出来たとしても、時間的・加齢的コストは減少させられないという問題が残存する。娑婆の時間の流れが速くなり、グローバル化・流動化がここまで来てしまった現代において、時間的・加齢的コストを軽視することはどういった結末を当人の適応に招来するだろうか。決断主義的にベストを尽くしてさえ大変なのに、安楽にくるまれて時間的・加齢的コストを浪費していていつまで楽しい時間を過ごせるだろうか?社会の荒波のなかでサバイブできるのだろうか?疲れた時にセカイ系コンテンツを楽しむぐらいならともかく、セカイ系的まどろみを現実への対処より優先させ過ぎて、時間的・加齢的コストを浪費することを私は勧めることが出来ない。時間と加齢は、決断主義者にも現実逃避者にも、オタクにも非オタクにも平等に流れていく。「現実が相対的に軽くなった」なんて口にする人は、「時間までも相対的に軽くなった」とでもお考えだろうか。もしそうお思いなんだとしたら、それこそセカイ系的世界観への逃避であり、長期的には適応を狭小化させる道であると私は断じたい。時間的・加齢的コストはテクノロジーでは安くできないことに注意を喚起したい。
 

「現実を薄めて」感覚器を麻痺させたキリギリスの行く末

 
 そんなこんなで、私は作品としてのセカイ系一群は悪くないと思いつつも、個人の適応という次元では「決断主義」と向き合わずにセカイ系的適応に走ることは中期〜長期的にみて大きなしっぺ返しをもらたす選択だと思わざるを得ない。現実の相対化。それも時にはいいだろう。ディズニーランドもエロゲーも悪くはない。だが、安易で安楽であることを理由に、コンテンツや狭いニッチで「現実を薄めて」「感覚器を鈍感たらしめてばかりいる」キリギリスには応報的な末路が待っているんじゃないかと私は警告はしたい。
 
 「完璧じゃないから」「今はその時じゃないから」などと決断を先延ばしし、「コンテンツに逃げることを専らとし」、そうやって現実を薄めて切り取ってを繰り返したらその先に何が待っているのか?決断主義的行動をとるですら現在と未来の安寧は保障されないというに、「現実を薄めてばかりの日々」を繰り広げたらもう終わってるじゃないですか。「現実逃避に要する安価なコストすら支払い困難になりかねない未来」という想像力が欠如している人達は、若さも時間もお金もポジションも失った挙句に――現実を蔑ろにしてきたしっぺ返しとして――猛烈な虚無感に遠からず襲われるのではないだろうか。繰り返すが、安価安価というけれど、それは金銭面だけの話でしかない。私やあなたの人生の一分一秒は、そんなに安いものなんですか?あなたの人生の一シーン一シーンはそんなにチープなものなんですか?コストが安価になったということ・コンテンツが豊かになったということは、現実・時間というもののシビアさとは関係ないことだし、むしろコンテンツに幾らでも溺れる可能性のある今だからこそ、決断主義的に、命を賭けて自分の舵取りをしていくしかないんじゃないだろうか。
 
 現実逃避にかかる金銭的世間体的コストは確かにどんどん安価になるに違いない。しかし、幾らコストが安価になろうとも、時間的なコストや若さのコストにおいては現実逃避は依然として“高価な買い物”であり続けるだろう。セカイ系的処世においては、この時間感覚・先延ばし不能性に関する感覚がまさに欠落している。そして決断主義者は、それがキリギリスのモルヒネでしかないことを踏まえて(泣きながらでも)選択肢を直視し、生きざるを得ないを生きる。仮想世界、それも結構だ。だけれど、仮想世界もそうでない世界も含めて娑婆であり、そこには人が群れていて、万人に等しい速度で時間が流れている。どれだけ遠くに逃げたつもりになっても、どれだけ現実を希釈したつもりになっても、現実は現実のままで、私やMasaoさんは肉体の檻に閉じこめられたままでしかない*6。親の脛やら自分の青春時代やらといった、有限のリソースを食いつぶして己の一年一年を希釈して痛覚をごまかすという営為は、バトルロワイヤルでグローバルな現実に対するモルヒネとして機能するかもしれないが、当人の明日や明後日を豊かにする材料を提供するのか、私は疑問である。
 

コンテンツが安くなったとて俺は手を抜かないぞ。十年後もコンテンツを享受する為に。

 
 率直に言うと、今回のMasaoさんの文章に対しては「現実を軽くする?なにを世迷い事を!」というのが第一の感想だった。現実逃避もコンテンツも、結局はその現実あってこそ享受出来るものだということを私は絶対に忘れないし、だからエロゲーやらブログやらを楽しみつつも、自分自身の人生操縦を娯楽で希釈しようなどとは絶対に思わない。それこそ「将来もエロゲーやブログを自分が楽しむ土台を一層盤石にするために」益々真剣に娑婆をサバイブするつもりだ。出来るだけ適応しよう。健康には気をつけよう。家族を形成しよう。十年後の心変わりした自分に僅かでも財産を残そう。そういった適応至上主義が必ずしも私の人生を保障してくれるわけではないが、未来の自分がサバイブする為の期待値を少しでも高くする為に手抜かりなどしない。私は娯楽としてセカイ系コンテンツを消費したり、ゲームを遊んだりもするにせよ、可能な限り現実にしがみついてあがいてやろうと思う。またそうすることが、日常生活の一喜一憂をより色濃く真剣なものにする道だと私は信じてやまない。真剣に願望し、真剣に挫折し、真剣に成功し、真剣に喜怒哀楽する。脱オタ頑張ってた頃のMasaoさんだって、そうだったんじゃないんですか?
 
 私は個人的適応に全力を尽くしますよ、Masaoさん。他人からみて粗末だろうが何だろうが、自分の期待値を最適化するべく努めますよ。どんなに頑張ったって真冬の路地に放り出されるリスクはゼロにはならないのが人生行路だとしても、最善は尽くしますし、またそうするしかありません。
 

*1:注:じゃあセカイ系“コンテンツ”も反面教師として嫌われていたかというと、これには疑問を差し挟む余地があると思う。ここは宇野さんと意見が異なるところかもしれない。でも政治的にスルーする&出来ると判断するだろう、宇野さんは。

*2:このことが、その世代の平均的スペックを底上げしているか否かは疑問が残る。多分、一握りのエリート以外はスペックがむしろ下がるんじゃないかな?とさえ思う。これについてもいつか触れたい。

*3:第三次産業的テクノロジーばかり注目する人は、第二次産業的諸問題や第一次産業的諸問題を第三次産業的問題で解決出来ると勘違いする悪癖があると時々思う。1Gのメモリスティックの価格はどんどん安くなる。けれども一袋の小麦や一枚の銅板はこれ以上は安くならないし、むしろこれから高騰すらしかねない、という事に私は繰り返し注目する

*4:そしてMasaoさん、あなたや私も常に椅子取りゲームのプレイヤーなんですよね。

*5:宇野さんが今やっている事自体が、これじゃないのかな?

*6:攻殻機動隊の草薙素子さんの境地にまで行かない限り、この制約から逃れることは出来ない