シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ひとでなしX師の記憶

 
 「傷つくのが嫌とか、傷つけるのが嫌とか、デリカシーを装って臆病風に吹かれている連中が足踏みしている間に、俺はあいつを食ってしまおうと頑張ろう。あいつからは搾取してやろうと企もう。あいつを殴りつけて隷属させてようとつっかかろう。食ってやる。搾取してやる。殴ってやる。やばくなったらとんずらしよう。逃げ切れなかったら、まぁ、俺があいつらの餌になるまでのことだ。次からは気をつければいい。次があれば、の話だが。」
 
 「殴って、殴られて、刺して、刺されて、騙して、騙されて、お互いにもっと強くならなければ。」
 
 「連中が気取っている間に、目に砂を投げつけてやれ。そして、勝つんだ。勝つことが目的で、決闘に立会人がいないならば、まず、勝て。勝ってしまってから、良心の呵責という贅沢に溺れればよい」
 
 「常に、食うか食われるかだ。だからウサギが相手でも絶対に手を抜くな。逃げられないように、反撃されないように、獲物は確実にしとめろ。栄養をつけろ。強くなれ。」
 
 「抵抗しない魚は、とにかく食べてしまえ。抵抗する魚は、可能なら食べてしまえ。一緒に漁をする奴とは、仲良くしろ。敵わない鮫からは、逃げてしまえ」
 
 「バレなきゃインチキじゃない。それはマジックと呼ばれるんです。ただし、疑われたマジックは既にインチキですからね。」
 
 「周りにいる友人知人異性をかたっぱしミキサーにかけて、経験値にしてしまうミキサー大帝メソッド←本拠地を全く別の場所に持っておいて、コミュニティ焼き畑農業。やるならネットに疎そうな集団で。」
 
 「良心・倫理性・友情・愛情を最大限に運用しろ。強力な仲間を増やせ。敵を囲い込め。」
 

「キーキー喚く女性」

 
 「キーキー喚かない女性は存在しない」と信じること・規定することは、やはり女性蔑視にあたるのだろうか。
 
 きっと、あたるのだろう。
 もし、キーキー喚く女性、というものが悪いものであるという固定観念があるのならば。
 
 ところで、納豆がネバネバしているのと同様、女性はキーキー喚くものだという理解があって、しかもそのキーキーっぷりを存分に愛しているとしたら、これはどうなのだろうか。これもやはり、女性蔑視にあたるのだろうか。きっと、あたるのだろう。
 
 ああ、ちなみに私の意見は違いますからね。キーキー喚く女性も喚かない女性もいる。男性にもキーキー喚く奴がいる。頻度も湯加減もちょうど良いキーキーっぷりな、そういう女性がいいですよね。反対に、つんざくような金切り声をあげる女性や、キーキーいいながら文化包丁を振り回すような輩は遠慮したいです。自分好みの按配でキーキー喚く女性を探して、一緒にキーキーといがみ合って生活できたらいいですね。
 

情報の海に溺れ、「魔女狩りの如き決め付け」を繰り返す僕ら

 
 見渡す限りの情報。見渡す限りのテクノロジー。見渡す限りの他人。
 想像を絶する数の選択肢と、想像を超えた速度で推移する世の中。
 現在の僕たちが住んでいる世界は、あまりにも情報片と選択肢が多い。
 だけど、判断する僕らの脳と情動は、古代人と大して変わっていない。
 
 「情報が多いことは良いことだ」などと呑気に笑っていられる人は幸福な人か、とびきり頭が良い人なんだろう。これだけ他人や社会や自分の利益に関係した情報が増加したにも関わらず、未来は不透明で、自分の立場も不明確で、何を選択するのが適切なのかは分からないというのが娑婆の現況ってもんだ。いや、むしろ中途半端な情報片が増えたことによって、僕たちは「一層わからなくなってきている」。情報を収集すれば色々な事が見えてくると思ったら全然そんな風じゃなく、情報を集めてすぐに分かるのはせいぜい部分部分の拡大像ぐらいなもので、手元には不安げな断片ばかりが届けられる苦痛!「じゃあ結局俺はどう判断するのがベストよ?」という全体を俯瞰したうえでの結論は、情報量が増えた分だけ以前より到達困難になっている。もちろん、玉石混交の中から最も重要な情報を取捨選択できる人や、複数の情報を巧みに組み合わせて統合的な推論を実行できる人といった頭の良い人達は(今まで以上に)有利になるに違いない。だが、そうでない凡愚の僕たちにとって、情報断片の大氾濫は、神経を磨耗させ・判断の羅針盤を狂わせ・不安を煽り立てるばかりの苦しい状況なんではないだろうかと心配になってしまう。
 
 とはいえ、古代の軍指揮官が取り扱わなければならなかったよりも多くの沢山の情報片に毎日曝されているにも関わらず、現実はというと、意外と多くの人は精神を破綻させることなく、情報の大河で(なんとか)溺死を免れている。外から入ってくる情報はどれも細切れで、わけがわからなく、なかには強い不安を惹起するものが混入しているっていうのに、パニックになるわけでもなく生きている僕たち。幾ら中枢神経の神経細胞が刺激に応じてシナプスを絡めあっていくとはいえ、ものには限界ってものがあるでしょうに。この事を考えると、僕は、人間の中枢神経の情報フィルタリングの強力さに感心せずにはいられない*1。すげぇよなぁ。
 
 人間の脳みそは本来、ここまで大量の(新規の)人・(新規の)情報に曝されるように設計されてはいないっぽいけど*2、それでも何とかこなせるのは、神経細胞の可塑性もさることながら、効果的な情報ショートカット機能を装備しているからに違いないと推測する*3。ショートカットと言うと聞こえが良いけれど、このショートカットの少なからぬ割合は「根拠薄弱の決め付け」「思い込み」で占められている。これらの決め付けは、情報の形が歪む等の副作用と引替えに、不安を惹起したり脳に過負荷を加えて混乱したりするリスクを回避しやすくしてくれる。例えば「地球温暖化が進行している」「現代人の生活は成人病になりやすい」という情報。こういう不安な情報が未加工のまま頭にこびりついている人は不安で仕方なくなりそうだが、普段は忘れていたり、「○○という健康食品を摂っているから大丈夫」「エコ商品を購入して温暖化を防ごう」と思い込むことによって不安を拭い去ることが出来る。また、多元的な要因で発生していて特定の原因ひとつに還元出来ない現象についても「魔女のせいだ」「フィギュア萌え族のせいだ」などと一元的に断定して思い込んでしまえるならば、僕たちはすっかり安心して把握したつもりになれる
 
 本来、大量の情報断片を並べて繋ぎ合わせたうえで安心するのが望ましいとはいえ、それが出来る状況・スペックが実際は限られている以上、こうした「頭の悪い」「現実には即さないまにあわせの」不安除去は程度の差こそあれ、すべての人に要請され続けると僕は考えている。魔女狩りをしていた頃と比べて脳スペックはそれほど変化していないにも関わらず、人・モノ・情報の流れは飛躍的に増加している現代社会。だとすれば、迷信や思い込みに基づく簡易な不安除去をやってしまう確率は、古代・中世の迷信深い人達とそう変わらないのではないか。そりゃ、中世に比べれば、個人が保有する「知識の短冊」は増えているに違いないし、科学的推論のトレーニングすら進んではいる。だけど、「知っていること」「考えられること」の増加と同じかそれ以上に、「わからないこと」「考えられないこと」が増えていることに着目しなければならない。見知らぬ外国人・原因不明の不登校・性犯罪・キレる若者、などに関する情報の断片は、判断を促さず、むしろ不安だけを与えてしまう。原因も一元的に説明づける事が出来ない。こうした、不安且つ曖昧な情報片に対して、僕らはどこまで適切な態度をとることが出来るのか?そりゃ、なかには出来る人もいるだろうし、不安にも関わらず留保の態度をとれる人もいるだろう。だけど、一元的な決め付けに身を委ねたり、不安を防衛する意味合いしか持たない「見掛け倒しの対処行動*4で束の間の安心に飛びついたりする人のほうが遥かに多い事を僕は知っている。相互不理解や偏見に伴う摩擦、心的サプリメントとしての意味合い以外には全く実効性の無い「運動」などなど、頭のいい人達によって非効率呼ばわりされそうな思い込みを、頭のよくない僕らはついつい選択してしまうに違いない*5が、個人の適応という視点からみた時、じゃあ他に不安や葛藤のやり過ごしようがあるかと言うとある筈もなく、僕らますます多くの事物に対して(安易で一元的名)決め付けや信じ込みを要することだろう。また、現にそうしている。そうしなきゃ、ホメオスタシスが保てない。とりわけ、不安を煽りがちで、全体的把握が困難な、よくわからないものに対しては。
 
 世間の人は、「決め付けはいけない」とか「少ない情報で断じてはいけない」とか色々言うけど、なんのことはない、実際はその世間の大半の人は今も「決め付け」の世界に生きている事を思い返してみよう。頭の良い理想主義者を拝むだけじゃなく、僕たちの愚劣で臆病な判断の牢屋を這いずってみよう。最も判断力に富んだ人でさえ、自分が興味を持っていない分野で不安な点があると、少ない情報で判断をショートカットしようとする誘惑に抗するのは容易じゃないって事を思い出してみよう。「マスコミが伝えたからフィギュア萌え族は犯罪者」、「2chに書いてあったから韓国人は全部キチガイ」といったタイプの一方的思い込みは、得体が知れず情報が断片的にしか伝わって来ない部外者に対しての不安を減弱し、不安な考察迷路を彷徨うという(誠実だが)エネルギーとスペックを要する作業をショートカットしてくれる有意味な営みでもある。明確な適応的意義が存在し、無意味な筈が無い。集団レベルでみれば、こうした決めつけは無用な摩擦と資源の無駄遣いを生みだす厄介者だけれど、個人のメンタリティの防衛・統合という視点からみた時、情報フィルタリングとしての「決め付け」はむしろ適応促進的であり、だからこそ決してなくならないと推測される。判断をショートカットし、不安を防衛できるこれら「魔女狩りの如き一方的決め付け」は、欠く事の出来ない適応行動として、僕らの人生にまとわりつくことだろう。不安の防衛と引替えに、悲喜劇の副作用を惹き起こしながら。
 
【追記】
 幸か不幸か、個人が一生の間に遭遇する情報量は増加の一途を辿っており、遭遇する情報片のなかには「環境問題」「理解しあえない他人に関する問題」などなど、専門家以外には考えても考えきれない不安な断片も数多い。情報量の増大に伴う不安を抱えきれなくなった者から順番に、僕たちは益々「魔女狩り的な決め付け」に身を任せて不安を紛らわせようとするだろう。また、決め付けに基づく対処行動(バッシングや、不安防衛アイテム消費など)を選択して、不安からメンタルを守ろうとするだろう。総合的判断を伴わない、取り扱いの難しい情報片ばかり溢れかえったこの情報化社会は、中世に勝るとも劣らないほど「決め付け」が横行しやすい状態なんじゃないかな、と思わずにはいられない。こんなにまで「よくわからないけれども不安な」情報が溢れかえっているなんて!
 
 もし、この手の「魔女狩り的決め付け」を取り除きたいと思っている人がいたら、こうした決めつけもまた適応的意義を十分に持っている事を意識したうえで対策を練らないと駄目だと思う。また、現代社会がいかに情報豊富になったとはいえ、不安を拭うことには全く成功していないか、不安を煽ってさえいるかもしれない点に着目しなければまずいと思う。
 

*1:なお、この情報フィルタリング機構が壊れているっぽい人が時々精神科にはやってくる。彼らはとりわけ人工的な情報負荷に対して脆弱または繊細だ。

*2:なぜなら、サバンナで生きていた頃のホモ・サピエンスが一生の間に目にする外界というのは、比較的限られた経年変化の少ない情報で構成されていただろうから。また、時代の流れ、などというものは無きに等しかっただろうから

*3:ああ、昔の偉い人の受け売りですいません。

*4:この代表例が、環境破壊や資源枯渇に対するエコ商品の消費であり、途上国搾取に対するホワイトバンドである

*5:尤も、「頭のいい人達」のなかにも、見掛け倒しの考察ごっこに耽る、自分の不安を防衛する為だけにテキストを書く人が多いから、「頭の良い悪い」は関係ないのかもしれない。

僕たちの、終わりなき魔女狩りと免罪符ごっこ

 
 情報の海に溺れ、「魔女狩りの如き決め付け」を繰り返す僕ら - シロクマの屑籠
 
 情報の海に押し流され、いっこうに判断力の向上しない、不安で臆病な僕達。『博学は、まだ判断ではないbyゲーテ』とはよく言ったもので、古代・中世の人達よりもずっと沢山の知識を学んでいながら、僕達の判断は憶見と決め付けに満ちていて、そういった判断のショートカットをせずには臆病な心を守ることが出来ない。エポケーの重みに耐えられる人なんて、極少数に限られている。
 
 だから僕らは続けるのだろう、愚劣な副作用に満ちた、「魔女狩り」やら「免罪符ごっこ」を。新しい知見を身につけるチャンスを狭め、資源を浪費し、相互不理解をますます酷くするような愚行を、21世紀になっても未だ繰り返すのだ。ほら、みてごらん?謂われなき犯人探しと、今の気分を慰める効果しか無い「免罪符ごっこ」が、あっちでもこっちでも繰り広げられているでしょう?情報が幾ら氾濫していても、ちょっと情動の色が混じっただけで脊髄反射してしまう愚かな僕達。結局、今も昔も「よく考える」のは一握りで、残りの大半、つまり暗愚な僕らは、「考えないで決め付ける」。決め付けあった結果として、相互不理解しあって、いがみあって、殴りあう。これまでも、これからも。
 
 試しに、身近な「魔女狩り」と「免罪符」の例を挙げてみよっか。
 
・魔女狩り1:性犯罪はオタクのせい
 「オタク」というなんだかよく分からない人達がいて、二次元美少女の絵をみて自慰に耽っているらしい、という断片的な情報を、性犯罪の増加の魔女狩りに使うという愚行。二次元美少女愛好家の多くは犯罪の「は」の字も無理な、善良というよりも臆病な人達だが、性犯罪報道に苛立つ人達の不安を防衛するにはスケープゴートが必要で、「ボソボソしゃべって、なんだかキモくて、えっちなアニメをみているっぽい」イメージが先行したオタクに薪がくべられている。もう何年も変わっていない構図。
 

・魔女狩り2:悪いことは全部大陸人のせい
 韓国や北朝鮮、中国に対してのイメージを膨らませて、悪いことは全部大陸人のせいにすれば良いと決め付ける短絡。外国人犯罪者の報道などにもある通り、実際にろくでなしの大陸人が日本に入ってきているのは間違いないにせよ、何でもかんでも大陸大陸を連呼して、日常の不安や葛藤を紛らわせている人達もまた、魔女狩りな人達と言えるだろう。彼らはこの決め付けによって、仮に「付き合い甲斐のある大陸人」や「取り込み甲斐のある文化」に出会ったとしてもチャンスを棒に振ってしまう可能性が高い。
 

・魔女狩り3:田舎の医師不足は倫理観の欠如のせい
 田舎の医師不足を倫理観の欠如によって一元的に説明づけてしまおうとする人達の蒙昧。曰く、かつての赤ひげ先生はいなくなった、どいつもこいつも医者は保身とカネの事しか考えない我利我利亡者だ、と。確かに倫理観の変化と我利我利化はあるだろうけれども、倫理観とやらを昭和時代にまき戻せば問題が解決するわけでもないし、倫理観以外の複合的な問題を考えなければ建設的な提案にはならないこと疑いない。だが、彼らの目的は問題の解決ではなく自分達の不安と不満を解消する事なので、さしあたり、「医師の倫理観」という藁人形に釘を打てばそれで満足なのだろう。
 

・免罪符ごっこ1:環境対策に、エコ商品を
 エコと銘打ってある商品を購入しさえすれば絶望的な環境破壊に自分が何かを為したような気分になって、環境破壊の不安から距離をとることが出来る。実際に、その商品がどこまでエコなのか、またはどんな仕組みでエコに貢献するのか、費用対効果の面でまっとうなのか、等等を評価しなければ分からないけれど、人々が欲しているのは「実際に地球環境を守ること」ではなく「地球環境を私が守っている気分」なので、リサイクルがむしろ非効率なエコ商品すら、考えないで嬉々として消費する。
 
・免罪符ごっこ2:健康にはやっぱり○○←好きな健康食品の名前を入れてください
 同様に、健康と銘打ってある食品はどれも、不健康で栄養過剰な身体が何とかなるような気分にさせてくれるので、実際にどれぐらい健康食品なのか&どれぐらい自分自身のコンディションに合致しているのかを棚にあげて消費される事が少なくない。本当に健康を維持しようと思ったら、その健康食品が怪しいものなのかどうかとか、自分自身のコンディションに適用できるのか等をきっちり調べるとってもんだろうが、そんな事をしないで健康食品を買い漁る人が少なくない。なかには、特定の栄養食品を摂りすぎてかえって太ってしまったりとか、笑うに笑えない話が巷にはゴロゴロしている。
 
・免罪符ごっこ3:ご機嫌ボランティア、ご機嫌ホワイトバンド
 ボランティアの類も、「どれだけ実際に貧しい人達を救うのか」や「どれだけ効果的なボランティアなのか」を考えずに、不安な気分や後ろめたさを防衛する為に選択されやすい*1。ホワイトバンドや「愛は地球を救う」などが好例だが、とにかく気持ちよく格好よくボランティアを為し、それを通して人々は何かをやった気分を購入・消費するという図式。ボランティアやチャリティーが、しばしば現代の免罪符ごっことしての陥穽に陥りやすい点に注目。彼らの多くは、自分がボランティアやチャリティをやったという心象を大切にしているのであって、自分の為したものが適切に運用されているのかどうかまでは気が回らないことが多い。
 

 ...挙げているうちに嫌になってきた。他にも、「少子化になったのは○○のせい」に類するような発言&それに飛びつく人達は後を絶たないし、実際の効能を考えずに購入してしまいたくなる免罪符的商品は常に人気商品である(ダイエット関係や、学力関係にも免罪符ごっこは多いですよね)。テクノロジーがこんなに進歩し、情報通信もこんなに進化した21世紀だけれど、そこに住まう愚かな僕たちは、今も「魔女狩り」「免罪符ごっこ」に明け暮れている。不安や葛藤の防衛という個人的ニーズが存在する限り、そして僕らが十分に賢くない限り、こうした愚行は際限なく繰り返されるのかなぁ。文明が進歩したとて(そして十分に賢い人達は進歩しているにしても)、猿な僕たちはというと、あんまり進歩していない、ということか。
 

*1:またもっと酷いことに、「ボランティアをやっている自分の表明」を通して政治的立ち位置を確保する為や、優越感を堪能する為に用いられることも多い!他人にまなざされている自分の姿を鏡で確認してニヤニヤしながら行われるボランティアとチャリティ!