シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

飲むと元気が出るワインについて、ダラダラ書いてみる

 
 
 
 
 今週から来週にかけて、すごく忙しいせいで元気が出ない。
 だから今日は、飲んだら元気が出そうなワインが飲みたい。
 
 以前、「くたびれた金曜日に呑みたいワイン」というブログ記事を書いたことがあった。そこで紹介したワインは金曜日の夜をグダグダに過ごすには十分で、そのうえお手頃なものだった。
 
 ただし、あくまでくたびれた金曜日をグダグダに過ごすためのワインであって、土曜朝のコンディションはお察しである。そうじゃなくて、今欲しいのは飲んだら元気が出るワイン、飲む者に活気をもたらしてくれるワインだ。いわば、「アガるワイン」が欲しい。
 
 ワインもアルコールである以上、基本的には元気を奪うものであるはずだ。アルコールは酩酊状態をもたらすから、飲んでいる最中は安酒でさえ「アガる」と体感されやすい。しかし肝臓に負荷をかけるうえ、体内にアセトアルデヒドを発生させて全身にも負荷をかけているわけだから、翌日、グニャグニャになっているリスクは高いと言わざるを得ない。
 
 だから、どれほど活気をもたらしてくれるワインでも、沢山飲んでしまえば元気が奪われる。原則、飲まないほうが元気が出ると言って構わない。飲んだら元気が出るワインという言葉も、「適量を飲むぶんには元気が出るワイン」と書くべきなのだろう。
 
 適量を飲むぶんには元気が出るワインは、実際存在すると思う。少なくとも私にとってはそうだ。そういうワインが恋しくなってきたので、私にとっての「飲んだら元気が出るワイン」を、ダラダラ書いて気分転換してみる。
 
 
カビッキオーリ ランブルスコ ロッソ アマビーレ
 まずは定番のランブルスコ。パルマハムの里でつくられた微発砲赤ワインのなかでは、この、カビッキオーリという作り手のアマビーレが群を抜いて元気が出る。似たような価格のいろんなワインが売られているけれども、滋養があって悪酔いしにくいという点では、こいつが群を抜いている。
 
 ランブルスコにはちょっと甘口の品が多くて、こいつもちょっと甘口なんだけど、こってりとしているおかげか、甘口が嫌味には感じられない。飲むヨーグルトのような不思議な爽やかさもある。悪いランブルスコは、飲めば飲むほど甘さがクドなり、生臭さすら漂ってくるけれども、こいつはそれが無い。ちなみに倍の値段を払えば「高級品のランブルスコ」も買えるけれども、これを2本買って1本ストックしたほうがたぶん幸せ。
 
 
ピエロパン ソアーヴェクラシコ カルヴァリーノ
 これも、前に紹介したことの白ワイン。チリやカリフォルニアで作られた濃厚白ワインを油絵に例えるなら、ソアーヴェは水彩画。ただ、コンビニで売られているソアーヴェだと疲れがぜんぜん取れないし、ソアーヴェの高級路線のなかには、濃厚白ワインっぽくて飲み疲れるやつがある。高級な濃厚系って、疲れていない日に呑むぶんには楽しいけれども、疲れた日には呑めたもんじゃない。
 
 で、このカルヴァリーノは、水彩画にたとえたくなる淡い飲み心地そのままに、襟を正したような端正さがある。風味に奥行きがあるおかげで飽きにくく、ソアーヴェならではのホンワリとした飲み心地のおかげで、風味の奥行きを押し付けてくる鬱陶しさも無い。カリフォルニアやフランスの高級ワインは、しばしば、風味の奥行きを押し付けてくるから疲れた日には敬遠したくなるが、こいつにはそういう心配をしなくていい。楽しい日にも、悲しい日にも、そっと寄り添ってくれるワインだと思う。
 

マックマニスファミリー ピノ・グリージョ
 ピノ・グリージョという品種でつくられた、カリフォルニア産のワイン。カリフォルニアのお手頃白ワインって、だいたい濃くてクドくて飲みにくくて、翌日に元気が出る感じじゃないけれども、ピノ・グリージョは割と例外。もともと、イタリアでたくさん作られていた日常品種だからか、安くてもおいしい。高級ワインに期待するような「リッチな雰囲気」には程遠いけれども、酸がさわやかで、台所洗剤みたいな匂いがパーッと開いて、くどくなくて、それでいて味がスカスカになることもない。
 
 この品種、フランス産*1やイタリア産もあるんだけど、フランス産は美味いけど呑み疲れる品がチラホラ。イタリア産はチープをきわめすぎていることが稀によくあるので、カリフォルニア産が安全牌じゃないかなーと思ったりもする。チープで構わないなら安いイタリア産でも可。
 
 
リースリング セレクション ド ヴィエイユ ヴィーニュ [2014]
【トリンバック】 リースリング キュヴェ フレデリック エミール [2007]
 フランスはアルザス地方でつくられた、リースリングという品種の白ワイン。ワインをいくらか知っている人だと、リースリングってドイツの甘口ワインを連想するかもだし、あれはあれでいいものだけど、自分の場合、ドイツの(しばしば高級な)甘口白ワインはつい「鑑賞」してしまいがちで、かえって疲れてしまう。甘すぎるのもちょっと。
 
 その点、アルザス産のリースリングは甘口ってわけじゃないし、まだしも気楽に飲める。ここに挙げた銀ラベルと金ラベルは、並品より味も香りも多彩で、それでいて押し付けがましいほどでもない。スッスッと飲みたいなら銀ラベル、ちょっと欲張りたいなら金ラベルか。ただし、金ラベルはお値段が。
 
 
ジゴンダス オー・リュー・ディ [2012] ドメーヌ・サンタ・デュック
 フランス南部、ローヌ地方でつくられた「濃い」赤ワイン。濃い赤ワインの常として、たくさん飲むとしんどくなるので、3日以上かけて飲むのがちょうど良いと思う。で、これも濃い赤ワインの常として、ある程度赤ワイン慣れしているというか、渋みがOKな人じゃないとこいつは飲めない。
 
 赤ワインが飲める人には、果実味がしっかりして飲み応えのあるワインだ。価格の割に香りの多様性に恵まれていて、ときどき、香木のような目を見張る香りがしたり、ビーフジャーキーみたいな肉系の香りが混じったりして、「おお、畑でつくられた良いワイン飲んでるぜ!」って気持ちが高鳴ってくる。赤ワインの高級路線は欲張るときりがないし、値段が気になって「鑑賞モード」に入ってしまうおそれがあるので、疲れている日には適さない。疲れている日に呑むなら、値段の割に風味が豊かで、しかも栄養を飲んでいるような感覚を伴ったワインがいいと思う。ボルドーやブルゴーニュの赤ワインだと、お値段や品種の関係もあって、こうした条件が揃いにくい。開拓するならローヌ地方の赤ワインじゃないかなと。私はローヌ地方のジゴンダス地区のものを贔屓しています。高騰するフランスワインのなかではマシ。
 
 
フェヴレ モンテリ 一級 レ・デュレス 2013

 あとは「値段のあまり高くない、マイナーな地区のブルゴーニュ」もいいかも。
 
 この、モンテリという地区のワインは、威張るようなワインからはかけ離れていて、軽い飲み心地で滋味がわりとあって、ワインを飲む際に緊張を強いるところがない。本来、ワインなんて緊張しながら飲むようなモンじゃなく、「高級ワインと真剣勝負!」みたいな飲み方のほうがどうかしているのだと思う。モンテリには「果し合い」を迫るところが乏しく、『艦これ』でいうならしばふ絵のような芋っぽさ、いや、包容力がある。パチパチの美人に例えたくなるワインより、「おかん」に例えたくなるワインのほうが、疲れた日にはふさわしい。
 
 
 あと、ボルドーはあんまり飲んでないけれどもシャトー ラネッサンは割と穏やかに楽しめて良かった。ボルドーの1000円台の赤ワインは気持ちが落ち着くけれども、飲む人を楽しませてくれるサービス精神に乏しいものも多いので、元気が出るワインは少ないかも。あと、ごく一部、やたら風味が濃くて、エキスを飲んでいるみたなボルドーワインも、呑み疲れやすいので疲れた日に向かない。
 
 「味や香りが強いワイン」は「おいしいワイン」としばしばみなされるけれど、こと、疲れた日に元気を出すには向かないと思う。味や香りが多彩なのは良いことだけど、押しが強いとワインに押されてしまう。そういうワインは、元気な時に呑みたい。
 
 だらだら書いてちょっと気持ちが落ち着いたので、今日はこのなかから一本選んで飲もうかと思います。おわり。
 
 

*1:フランスではピノ・グリと呼ばれる

「何者にもなれない」の正体と、中年期以降の約束事について

 
fujipon.hatenablog.com
 
 リンク先のブログ記事をtwitterに流したら、
 


 
 zomzom1974さんから「自分のような中途半端になってしまった人にもぜひ言及して頂きたいです。」というコメントをいただいたので、少し言及してみる。なお、ここから先に書く「何者」の定義は、fujiponさんのブログ記事と一致しているわけではないし、なにか役に立つことを言ってみたいわけでもないことは断っておく。
 
 

「何者かになれた/なれない」はニーズの一致・不一致次第

 
 
 fujiponさんのブログ記事でいう「何者」のなかには、界隈の第一人者とか、名声を獲得したとか、そういったニュアンスが含まれているように読めた。そういうニュアンスで考えるなら、第一人者にもなれず、名声を獲得してもいない人が、「自分は何者にもなっていない」「自分は何者にもなれなかった」と言うのもわからなくもない。
 
 このニュアンスの「何者」なら、ごく一握りの有名人やアスリートや成功者だけが「何者かになった」ことになるし、本人の要求水準いかんによっては「何者かになった」という実感はどんどん遠ざかることになる。あるジャンルで日本の第一人者とみなされている人ですら、主観的には「何者にもなれなかったなぁ」と思っていることだってあるかもしれない。
 
 そのことを裏返しに考えてみよう。この主観的な「何者かになった」は、あくまで主観次第ということでもある。界隈の第一人者にならなくても、名声が得られなくても、何者かになった実感ができあがることだってあり得る。たとえば、地域コミュニティのメンバーに自然におさまっていて、無名ではあっても「何者かになった」という実感のなかで生きていく人もいる。あるいは、誰かの配偶者として・親としての生活が「何者かになった」という実感の源になっている人もいる。
 
 このことを踏まえて「何者かになれたか・なれないか」を考えると、人は、自分自身のニーズに見合った社会的役割が与えられているときに「何者かになれた」と実感して、そうでないときに「何者にもなれていない」と感じる、と考えられる。
 
 だから主観レベルの「何者かになれたか・なれないか」は、客観的な立場や状況だけで考えては片手落ちだ。現在の立場や状況が自分自身のニーズと一致しているか否かという、合致性のほうが重要ではないかとすら思える。
 
 たとえば、世の中には医者になりたくてしようがない人が存在する。彼らが医者になり、天職であると実感すれば、彼らは「何者かになれた」と実感するだろう。
 
 反面、職業人としては一人前なのに「何者にもなれていない」と感じる人が多いのもまた、医者の世界だ。世間的には、医者になれば「何者かになった」と思う人が多いかもしれないが、少なからぬ医者は、現在の立場や状況が自分自身のニーズと一致していないと感じている。
 
 ニーズが一致しない背景には、もっと有名になりたい・もっと偉くなりたい・もっと違った仕事がやってみたかった、等々の執着があるのかもしれないが、ともかく、世間的には「何者かになった」と思われがちな医者という立場でも、ニーズが一致していなければ「何者かになった」という実感には辿り着かないのである。
 
 だから、「何者かになる/なれない」といったアイデンティの問題は、自分自身の能力開発や進路選択だけではマルッと解決しない。
 
 ものすごく高学歴な20代前半の若者のような、非常に可変性の高い状況の人なら、この問題を自分自身の能力開発や進路選択とイコールで結んでおいて構わないかもしれない。しかし、そこまで可変性の高い状況は例外なので、現在の自分自身の主観的なニーズをよく心得たうえで、自分自身の持ち札・立場・今後の見通しでできることとの摺り合わせが、いつも重要になる。
 
 自分の持ち札・立場・今後の見通しでは到底不可能なニーズを、変形させることなく野放しにしておくのは、世渡りとしては上手くない。能力開発や進路選択によって自分自身のニーズに近付いていくことも大切だが、自分自身の主観的なニーズを把握したうえで、そのニーズを自分自身の持ち札・立場・今後の見通しに近づけていくこともまた大切だ。能力開発や進路選択にはそれほど優れていなくても、自分自身の主観的なニーズを変形させ、自分自身の持ち札・立場・今後の見通しに近づけていくのが巧い人なら、「何者かになる」のはそんなに難しいことではない。なれるものになってしまえば良いのである。
 
 

第三者からみれば、中年は全員「何者かになっている」

 
 ここまでは主観的なアイデンティティの話をしたが、第三者からみた中年は、全員何者かになっている、ともいえる。
 
 壇上で喝采を浴びるような中年も、うだつのあがらないサラリーマン人生の中年も、サブカル畑で生き続けてこれからどうしようか考えている中年も、第三者からみれば全員そのような中年なのであって、「何者でもない」なんてことはない。
 
 トートロジーめいているが、偉くても偉くなくても、幸福でも不幸でも、そのようなものとして出来上がっている中年は、そのような存在なのである。
 
 これが、人生の余白がたっぷり残されている思春期の若者ならそうでもない。のろのろした幼虫がサナギになり、脱皮して蝶になるような可能性があるのが若者だ。心のどこかでそういう可能性を信じている若者は、現在でもそんなに少ないわけではない。
 
 だが中年は違う。中年にも人生の余白は無いわけではないが、半分ぐらいは既に生きてしまっている。これから起こる変化は、基本的に、これまでに自分が敷いてきた人生の延長線上で起こることになる。蝶の幼虫が成虫に変わるような、劇的な変化はあまり起こりそうにない。
 
 顔の表情や皺もそうである。
 
 自分自身が年を取るにつれて、若者や子どもの顔には歴史が刻まれていないことが多い、と感じるようになった。もちろん、極度に過酷な環境で過ごしてきた若者や子どもの場合、早くも、その痕跡が表情や皺となって刻まれていることはある。けれども大半の若者の顔には、人生の履歴としての表情のクセや、皺がそれほど深くは刻まれていない。
 
 対して、中年~高齢者の顔には、人生の履歴が深く刻まれている。これまで何十万回、何百万回と浮かべてきた表情が、顔面表情筋の偏りや皺といったかたちで顔にこびりついている。そういう意味では、若者の顔よりも中年~高齢者の顔のほうが情報量が多い。
 
 だから、主観的に「自分は何者にもなれないまま中年になった」と思っていたとしても、第三者から見ればそうもいかない。これまでの履歴の積み重ねによって、すべての中年は、そのような中年として出来上がっている。少なくとも若者と比較すれば、そのように考えられる余地が大きい。
 
 自称「何者にもなれなかった中年」は、第三者からみて、悩める中年にみえるかもしれないし、まっとうな中年とみえるかもしれないし、フットワークが軽いことを座右の銘にしている中年にみえるかもしれない。いずれにせよ、「何者にもなれていない若者」と同列にはできない履歴の蓄積が存在していることは、ときどき意識してもいいんじゃないかと思う。
 
 でもって、その自分自身の履歴の蓄積を愛したり許したりできるかどうかが、中年のQuality of Life を左右する課題であり、中年期危機が深まるかどうかを左右する課題でもあるのだと思う。ああ、そうなると結局、「何者かになれる/なれない」の主観的なニーズの変形がここでも問題になるわけか。
 
 主観的なニーズの変形は、渡世のスキルとしては最重要のひとつだと思われるけれども言語化が難しい。ので、今日はここでやめにしておく。
 

父親になったブロガーたち

 
 長いことブログを書き続けていると、いろんな人が現れて、いろんな人が去っていく。何人かは鬼籍に入った。もう決して戻って来ないブロガー・ツイッタラー・ウェブサイト運営者のことは意外と覚えている。インターネットという僅かな縁でも、記憶は繋がっていくものらしい。
 
 ところで、私の観測範囲のはてなブロガーから「父親になりました」という話を耳にするようになった。今、妊活しているというブロガーの話も耳にしたりする。
 
 これは十年前のはてなダイアリー時代には無かったことだ。はてなダイアリーが希望をもって語られていた2004~2006年頃にも、30代や40代の男性ブロガーはいたように思う。そのなかには、単著も出しているような著述家も混じっていたけれども、父親になるとかならないとかいった話題はあまり見かけなかった。
 
 しかし、現在のはてなブログには「父親」がたくさんいる。父親になって時間の経ったブロガーも、父親になったばかりのブロガーもいる。父親になること・父親として過ごすことについて、ブログ記事がアップロードされるようになった。
 
 
zuisho.hatenadiary.jp
 最近父親になられて、父親になったこと周辺のことについて書いておられる。積極的。
 
nogreenplace.hateblo.jp
 ブログの副題に『この世の裏を知ったドルバッキーは世を儚んだ。』とあるが、それでも2018年に父親になられた。ばっきーばっきーどるばっきー。おめでとうございます。
 
maname.hatenablog.com
 元ニュースサイト管理者にして、はてなを長く利用しておられるまなめさんも、最近父親になられて、子育てについてあれこれ書き綴っている。これからが楽しみだ。
 
mubou.seesaa.net
 はてなのブロガーではないけれども、ご近所さんみたいなものなので一緒くたにしておこう。しんざきさんは、ゲームと子育てについてたくさんのことを書いている。
 
fujipon.hatenablog.com
 はてなブロガーのfujiponさんは、子育てのことを直接には書かないけれども、記事のところどころに父親としての所感や気付きを綴っておられる。父親やりながらブログを書いているテイストがよく伝わってくる。
 
 



 
 ここに挙げた方々は、私より少し年齢が上か、少し年齢が下とおぼしきブロガーだ。ズイショさんやまなめさんなどを眺めていると、ただ父親でありながらブログを書いているのではなく、父親になった自分自身の変化と、父親になったことで変わりゆく周囲の風景をブログに刻み付けているような気がして、興味深い。そういったブログ記事がみんなが読めるかたちで公開されていることに、時の流れを感じる。
 
 「私がまだ若かった頃から知っていたブロガーが父親になった」ことに時の流れを感じるだけでなく、「父親になったブロガーが、父親になったという出来事やプロセスを積極的に捉えて、それをブログに公開していく」ということにも時の流れを感じるわけだ。
 
 未婚者中心のメディアだったブログに、父親としての自分を書き綴るブロガーが、それも、知っているブロガーから出てくるなんて!
 
 ちなみに、母親としての自分を書き綴るブロガーは幾らでもいた。たとえば2010年前後の某ブログ空間には、ネットリテラシーの欠如したたくさんの母親子育てブログが、無防備な姿を晒していた。顔写真もコンプレックスも家庭の事情も丸出しにしたブログすら、数多の母親によって綴られていた。母親が子育てについてブログを書くということは、もともと珍しいものではなかった。
 
 対して、父親としての自分を書き綴るブロガーは私の観測範囲に入って来なかった。それは、私自身の観測範囲が限られていたせいもあるだろうし、男性ブロガーが父親たる自分自身について書き綴ることに積極的な意味を感じていなかったからかもしれない。しかし2018年の私の観測範囲には、父親になったブロガーの、父親らしい文章が視界に入ってくる。
 
 彼らの文章には、喜びも驚きも苦労もある。怒りや悲しみはそっと隠されるかもしれないが、ときには、行間に何かが漂うこともあるかもしれない。
 
 いずれにせよ、若い頃からブロガーだった人々が歳を取り、そのなかから父親になる人が現れて、その文章がアップロードされることを楽しくも思う。そういった父親の文章は、今父親をやっている人々に何かをもたらすかもしれないし、これから父親になるかもしれない人々へのボトルメールになるかもしれない。
 
 古来、ブログの良いところは「何を書いても構わない」ことだった。父親が、父親としての所感や気付きをブログに書いたって構いやしないだろう。とりわけ、父親になったブロガーが子どもや子育てに関心を持っているなら尚更である。さきほど挙げたブログの書き手はネットリテラシーに長けたベテラン勢だから、「やらかす」心配もあまり無いだろうし。
 
 ブロガーが父親になれば、父親らしいブログ記事ができあがってくる。当たり前といえば当たり前だけど、私は、その当たり前が嬉しくてたまらない。父親になった後の風景や心象は、まだインターネット上にはそんなに流通していない。もっと語られて良いように思うし、ときには私自身も書きたいと思う。
 
 
 ※追記:『さよならドルバッキー』のzeromoon0さんが女性ではないか、という仄めかしをはてなブックマークで見かけた。これまで私は女性ブロガーの性別を何度も間違えてきたから、そう突っ込まれると自信が無い。「私は女性ブロガーです」と明記してない女性ブロガーを、私はしばしば男性だと思ってしまう。オフ会で仰天したことも一再ではなかった。もし、この点で失礼があったとしたらすみませんです。
 
 

高学歴者ほど「若者」から「大人」に変わるタイミングが難しい

 
 
・高学歴の人は就学期間が長く、仕事のキャリアアップも結婚も、後々まで定まりにくい。ゆえに、「若者」的なメンタリティから「大人」的なメンタリティにもっていくための猶予期間が短く、難易度が高い。
 
 

高卒~高専卒のクラスメートは、すぐに「大人」になった

 
 私は北陸地方の田舎出身なので、都市部よりもずっと進学率が低い中学校を卒業した。クラスメートのうち、大学進学した者は3割もいなかったのではないだろうか。高卒の割合がとても高く、中卒で働く者もいたと記憶している。
 
 中学校を卒業した後も、実業高校や高専に入ったクラスメートとの付き合いは続いていた。ゲームやPC、漫画やアニメについての情報交換もたくさんやった。受験勉強に追われるか否かという違いはあったものの、それ以外はだいたい同じようなものだと感じていた。
 
 ところが、高校や高専を卒業するや、彼らは急激に変わっていった。
 
 いまだ大学に通う私をよそに、彼らは急に「大人」になった。いや、急に大人びて見えるようになったと言うべきか。最初のうち、それは一足先に社会に出て、収入を得るようになったからだと思っていたし、半分はそれが正解だったのだろう。
 
 だが、それだけではなかった。彼らは早々に結婚し、子どもを育て始めて、まさしく「大人」になっていった。最新のゲームやPCにもあまり関心を示さなくなり、オヤジ臭い趣味を始めたり子煩悩になったりしていった。二十代のうちから早くもおじさんのような風格を漂わせ、それがサマになっていたのを憶えている――“あいつら、『新世紀エヴァンゲリオン』も『カードキャプターさくら』も知らないのに、充実した顔してやがる……”
 
 一方で私は医学部に入学し、オフ会などを通じて“どこからどう見ても高学歴な人々”にも出会うようになった。彼らは勉強熱心で、好奇心や向上心が強くて、ゲームやPCや漫画やアニメに詳しい人も多かった。自分自身を戦略的に成長させてていく意志や能力を持っている、とも感じた。そこには田舎の中学校とは隔絶した世界が広がっていた。
 
 ところがそんな彼らも、「大人」という点では、高卒や高専卒の人達の後塵を拝していることがほとんどだったのである。
 
 彼らはなかなか結婚しなかったし、子煩悩にもならなかった。30歳までに結婚するのは早い部類で、結婚しない人も珍しくない。比較的若々しい状態を保っているとも言える反面、なかなかサマになるオヤジっぽさを身に付けられなかった、とも言える。さすがにアラフォーともなれば、彼らも強制的に「若者」という括りから叩き出されたわけだが。
 
 また、高学歴な人々のなかには、結婚しても簡単には子宝に恵まれず、不妊治療を受ける人が少なく無かった。挙児希望の時期を考えれば不思議なことではない。高卒や高専卒の人達が20代の中頃までに子どもをもうけていたのに対し、10年ほど遅れて挙児しようというのだから、産婦人科医の助けを借りなければならなくない確率は高くもなろう。
 
 [関連]:NHK クローズアップ現代 「精子“老化”の新事実 男にもタイムリミットが!?」 - Togetter
 
 先日、『クローズアップ現代』でも紹介されていたように、女性側はもちろん男性側も、生殖能力は三十代になって下がっていく。男性は何歳になっても挙児の心配をしなくて構わないというのは間違いである。本当は、女性が妊娠適齢期を気にするのと同じぐらい、男性だって妊娠適齢期を気にするべきなのだ。
 
 ついでに言うと、年齢が高くなってからの子育ては身体にも厳しい。30歳までに子どもを小学生に入れてしまうのと、40歳になってから子どもを小学生に入れるのでは、体力的なシビアさが違う。なぜなら、20代に比べて40代のほうが体力的余裕が少ないからである。
 
 また、先日、Books&Appsの安達さんが、「もっと早くからやっておけばよかった」と思うことのリストを書かれていて、そのなかに「子育て」が含まれていたのだが、そのなかに考えさせられる一節があった。
 

もし子供を将来的に持ちたい、と思っているなら早い方がいいと、後悔している。
一つは体力的な問題、子育ては体力勝負の部分が大きく、体力がないと余裕が持てず、ついイライラしてしまいがちだ。
そしてもう一つは子供の将来の問題だ。
子供が成人する頃に、私は還暦を迎えてしまうことを想像すると、「子供の人生を見ることのできる時間の短さ」を痛感する。

 私にとって、「子育てを遅く始めると、子どもの人生を見ることのできる時間が短くなってしまう」は盲点だった。確かにそのとおりだ。早く子育てを始めた人ほど、子どもの人生を長いこと見ていられる。逆に、遅く子育てを始めると子どもの人生を見られる時間が短くなる。それどころか、子育ての途中で癌などの病に倒れる確率も高くなってしまうだろう。
 
 高齢出産のリスクには色々なものが挙げられているが、「子どもが成人するまで無事でいられる確率が下がる」もひとつのリスクだと思う。
 
 

高学歴者のライフコースは「大人」に変わるタイミングが難しい

 
 ならば、『高学歴者は、挙児や子育てを始めるのが難しい』と言わざるを得ない。
 
 挙児や子育ては、「若者」にありがちなメンタリティとはすこぶる相性が悪い。「若者」は、自分自身の成長やキャリアづくりに一生懸命になるものだし、それこそが若者だろう。自分自身に一生懸命になれる時期だからこそ、若者はメキメキと音をたてながら成長していく。
 
 しかし、挙児や子育て、後進の育成などは、このようなメンタリティとは相性が良くない。子どもを育てるためには、自分自身の成長やキャリアづくりに集中し過ぎるわけにはいかない。親が子どもにお金や時間や情熱を集中投下するのを見た時、「自分はあんなことしたくない、それよりも自分自身の成長とキャリアだ!」と思うのが「若者」的なメンタリティであろう。だが、「若者」的なメンタリティを変えないまま挙児や子育てに突入してしまうと、子育ては、自分自身の成長やキャリアを阻害するストレスに満ちた活動、ということになってしまう
 
 じゃあ、一体いつになったら「若者」的なメンタリティに区切りをつけ、挙児や子育てに向いている、せめてストレスの彼岸に意義を感じられる「大人」的なメンタリティに切り替われるのか?
 
 近著『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』でも触れたが、「若者」から「大人」への気持ちの変化は、アイデンティティの安定・確立の度合いによって左右される。人間関係やキャリアが安定せず、自分の発展可能性が不透明な時期にはアイデンティティは不安定で、そのような時期の「若者」は自分自身の成長やキャリアに夢中になりやすい。*1
 
 高卒や高専卒のクラスメートが早々に結婚し、おじさんらしい風格を身に付けていったのも、彼らの人間関係やキャリアが早期に確立して、「若者」的なメンタリティを維持する必要性が乏しくなったからだろう。そして彼らのメンタリティは子煩悩な「大人」に難なくシフトチェンジしていった。彼らの場合、卒業してすぐに「大人」にならないとしても猶予の時間はある。なぜなら、彼らはまだ若いうちに社会に出るし、キャリアの見通しもつきやすいからだ。
 
 だが、高学歴者はそうはいかない。大卒で22歳、大学院卒で24歳──あくまで大学浪人も留年もしなかった場合の数字である。卒業後も、高学歴者はキャリアがすぐに定まらない。転職も増えているので、最初に入った企業で働き続けるとは限らない。よしんば同じ企業に居続けても、入社後しばらくは転勤異動のたぐいで落ち着いていられないことも多い。ホワイトカラーの宿命とはいえ、これではキャリア面のアイデンティティは固まらないし、都会のスピードを追いかけるにも「若者」的なメンタリティを維持したほうが都合が良い。そういう境遇のなかで、「若者」的なメンタリティのままではストレスになってしまうであろう挙児や子育てを決断するのは、なかなか難しいことではないだろうか。
 
 高学歴者が24歳ぐらいで社会に出て、28歳ぐらいで仕事や世間にちょっと慣れてきて、それで30代の中頃から卵子や精子の老化が実質的なものになってくるとしたら。事実上、高学歴者は非常に短い期間しか挙児・妊娠の適齢期を持てないということになる*2。わずか数年のうちに、キャリアのフレキシビリティや都会のスピードについていきつつ、パートナーや家族にリソースを捧げるのに適した「大人」的なメンタリティへとシフトチェンジしていくのは、アクロバティックなことだと思う。だが、そのアクロバットが、大都市圏の高学歴者には問われているのである。
 
 出生率の高さで言えば、首都圏や大都市圏は軒並み低い。また、高学歴者の出生率が低いこともよく知られている。
 


 合計特殊出生率、2016、都道府県別統計とランキングで見る県民性 より引用

 


 国勢調査における、女性の教育歴別出生率 『日本における教育別出生力の推移(1966~2000 年)』より引用

 
 マクロな目でみると、現状は「高学歴者に妊娠や出産のチャンスを僅かしか与えない社会」に他ならないし、少子高齢化の一因でもあるだろう。また、高学歴者という、文化資本の塊のような人々のもとで子どもが生まれ育つチャンスが少なくなるということでもある。長い目でみれば、これは巨大な損失であり、絶対に何とかするべきと思われるのだが、ほとんどの国において、こうした現状はあまり改善していない。
 
 マクロな社会がすぐには改善しない以上、ミクロな個人は自力でこの状況に挑まなければならない。高学歴になっていく人は、全員、自分たちの生物学的な適齢期が非常に短い期間であることを知っておかなければならない。と同時に、「若者」的なメンタリティのままでは挙児や子育てはストレスフルなものになるわけだから、自分自身のキャリアアップやスキルアップにすべてを注ぎ込みたいメンタリティをいつまで維持し、どこからパートナーや家族のために励むメンタリティにシフトチェンジしていくのかを、将来あり得る課題として意識したほうが良いと思う。
 
 不幸なことに、これらの課題に答えを出すための猶予期間はあまり長くない。いや、社会的にはいくらだって引き延ばせるのだけれど、精子や卵子の老化をはじめとした生物学的な制約は不可避なので、答えを出す時期が遅くなれば遅くなるほどコストやリスクが嵩むことになる。
 
 10~30年ほど前に「若者」だった世代においては、こうした「高学歴者のライフスタイルと結婚・妊娠・出産の問題」をちゃんと意識している人は少なかった。それより、思春期の延長や「若者」でいられる期間の延長をイノセントに寿ぐ人のほうが、高学歴者の世界では注目されていたように思う。
 
 しかし、「元・若者」たちが結婚・妊娠・出産を延長した挙句に苦労し、卵子や精子の老化が広く知られるようになった今はそうではあるまい。とりわけ高学歴者にとって、こうしたライフコースにあわせたメンタリティのシフトチェンジは、時間的猶予が短いだけに切実である。
 
 「若者」をやるべき時期に「若者」的なメンタリティを持ち、自分自身を成長させるのは素晴らしいことだけど、ライフコースの先まで見据えるなら、いつまでも「若者」的であり続けるのが正解とは限らない。その次にやって来る「大人」の季節についても考えを巡らせておいたほうがいいんじゃないだろうか。
 
 

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

 
 

*1:アイデンティティの定まらない時期に自分自身の成長やキャリアに夢中になるのは悪いことではない。むしろ、それぐらいの時期には自分自信のことに夢中になれることのほうが大切である。ここが、「大人」とはメンタリティの面でも立場の面でも違っているところである。

*2:そのくせ動物のように発情期があるわけでもないから、この短い期間に頑張って子をもうけようとするような遺伝的配慮を人間は持っていない。

「異世界」の正体は「パン生地」だ。好きなように加工できる

 
 

コンテンツを最適化すると多様性は死ぬのか? | fladdict
 
 リンク先は、「コンテンツを最適化すると多様化が失われるのか?」というタイトルで「小説家になろう!」の異世界モノ寡占状態について触れている。
 
 なかなか読みごたえがあって、何かを言いたくなる文章だったと思う。そこで、私も日頃なんとなく異世界モノについて思っていることを言語化したくなったので、書いてみることにした。
 
 

読み手も書き手も「異世界」を必要としている

 
 思うのだが、「小説家になろう!」で異世界モノを求めているのは、ランキングの投票側である読者だけでなく、書き手のほうも同じではないだろうか。
 
 異世界は、上下水道完備で食糧問題も全くないシチュエーションが描かれても構わない。
 
 逆に、上下水道や食糧問題がぜんぜん遅れていて、そこに主人公が転生してきてインフラや食糧問題をどんどん改善していく異世界が描かれたって構わない。
 
 トマトやジャガイモといった、現実世界と同一の食べ物を、そのままの名前で描いても構わない。
 
 逆に、そういった食べ物が無い世界を描いて、主人公がそれらを持ち込んで無双する異世界を描いたって構わない。あるいは、ちょっとうるさがたの読者を意識して、トマトやジャガイモを違った名前にアレンジして登場させたって構わない。
 
 異世界とは、主人公に活躍させたい分野を都合の良いかたちで欠落させたり、気にしないで済ませたい枝葉末節を略記で済ませたりすることを許す、都合の良い空間、と言い直すこともできる。
 
 「小説家になろう!」の異世界モノとは、ジャンルであると同時にフォーマットの名前でもあるわけだ――読み手と書き手にとって一番都合の良いかたちで、欠けているものを欠けているとみなして描きだし、略記で済ませたいものを略記で済ませることを許す、パン生地のようなものだと私は連想する。
 
 パン生地のこね方やトッピング次第で、異世界モノというフォーマットはいかようにも変わる。美少年美少女が風呂やシャワーに不自由しない世界で、魔法や特殊スキルをガンガン使っていく物語に集中することもできれば、薄汚れた少年少女が、最低の衛生状態から現代知識を駆使して快適さを手に入れるまでの物語に集中することもできる。
 
 あるいは、現代社会からもたらされたテクノロジーや生活様式をあっという間に吸収する、やたらと進歩的な人々が住む異世界を描いても構わないし、正反対に、現代社会からもたらされたテクノロジーや生活様式に頑迷に抵抗する、中世の農民のような人々が住む異世界を描くこともできる。
 
 そのほか、法体系がどこまで進んでいるのかいないのか、封建制度がキツいのかキツくないのか、出生率がどの程度で、それを問題にするのかしないのか――そのあたりをどうとでも描ける(または省ける)のが「異世界」なのである。
 
 「小説家になろう!」で異世界モノが流行った理由はいくつもあるのだろうけど、私は、その理由の上位に、上述の「異世界モノはなんにでも加工できるパン生地みたいなもので、書き手も読み手も自分が集中したいことに集中できる」があるように思う。日本のサブカルチャー領域で一種のコンセンサスになっている「異世界らしさ」さえ受け容れられれば、そこで自由自在に戦記モノやラブロマンスや俺TUEEEEを書ける/読めるというのは、なかなか便利なことだ。
 
 もちろん、この「異世界らしさ」というコンセンサスにも不自由な面が無いわけではない。とはいえ、このコンセンサスさえ引き受けてしまえば後は何をやっても構わないし、どんなテーマに集中したって構わない異世界を、現在の書き手/読み手が存分に利用しているのは事実だろう。そして「小説家になろう!」やそれに類似したサービスを見渡すに、「異世界らしさ」というコンセンサスを共有できるユーザーの数は決して少なくない。
 
 そんな「異世界モノ」と「小説家になろう!」も、いつかは最盛期を過ぎて、下り坂の季節がやって来るのだろう。しかしそれまでは、この好きなように捏ねられるパン生地はたくさんの人に愛され、多産な時期を過ごすはずだ。まあ、どのジャンルの最盛期も10年も経てば懐かしく思えるものなので、好きな人は今のうちに精一杯楽しんでおくしかない。
 
 なお、「ライトノベル」も好きなように捏ねられるパン生地だったし、「エロゲ―」もある意味そうだった。後者はともかく、前者は今も一定の勢力を誇っているけれども、そろそろ時間切れなのでまた後日。
 

異世界はスマートフォンとともに。(1) (角川コミックス・エース)

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