シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「その日、自分は何を思い、何をしたか」

 


 
 上掲ツイートがたまたま目に飛び込んできて、ああ、そういえば意外と覚えているなぁと思い、書きたくなったのでブログにメモっておく。
 
 
【911が起こった時】
 
 この頃の私は、夜の10時までに帰宅できていればテレビ朝日の『ニュースステーション』を観ているることが多かった。唐突に「ビルに飛行機が衝突した」というニュースが報じられて、はて、変な事故もあるものだなぁと思っているうちに二機目衝突が報じられて驚き、テレビに釘付けになっているうちにビルがガラガラと崩れ落ちていくのを信じられない光景として眺めていた。ニュースの最中にも「テロではないか」というコメントが流れていたような気はするが、当時の私には、イスラム勢力がアメリカの中心部大規模なテロをやるということがさっぱり信じられなかった。
 
 約18年経った今から思い返せば、00年代~10年代を象徴する出来事であったのだけど、もちろん私はそのようには捉えていなかった。他の人々もたぶんそうだっただろう。その後、世界じゅうでテロが起こり、中東情勢が“混迷をきわめる”と、あの時に見通していた人なんていたのだろうか。
 
 
 【松本サリン事件が起こった時】
 
 地下鉄サリン事件が起こった時の印象は、あまり覚えていない。自分にとってインパクトが大きかったのは、ごく近くで起こった松本サリン事件のほうで、地下鉄サリン事件のニュースを観て最初に思ったのは「これでやっと松本サリン事件の犯人がわかる」だった。当時は、河野さんという近隣に住んでいる人を容疑者のように見る向きもあったが、自分には、河野さんのような人物に有機リン系の有毒ガスが作れるとは思えなかった。地下鉄サリン事件が起きて、ああ、やっぱり河野さんではなかったんだなと確信した。
 
 松本サリン事件が起こった時、私は信州大学の2年生で、早朝にかかってきた親族からの電話で事件を知った。「信州大学の近くで毒ガス事件があったけど、大丈夫け?」
 
 テレビをつけてみると、当時の私の住まいから2kmほどの場所で7名の死者が出ていると報じられていた。そのなかには、信州大学医学部の5年生も混じっていた。同級生は誰も被害に遭わなかったが、非常に近い場所に住んでいた者もいて、その日はその話題で持ちきりだった。やがて、信州大学附属病院のドクターが「有機リン系の薬物中毒、ちょっと考えられない」と言っていた話が流れてきて、実際、そのとおりの報道が流れた。
 
 ただ、事件があまりにも唐突過ぎて、不可解な出来事だったので、じきに私達はこの事件のことを忘れていった。地下鉄サリン事件が発生する、その時まで。
 
 
 【東日本大震災が起こった時】
 
 東日本大震災が起こった瞬間のことは、非常にはっきり覚えている。
 
 その日私は、いつものように精神科の外来診療を行っていた。地震が起こった午後2時過ぎは少し難しい診療面接をやっていて、私も患者さんも楽な気分ではなかった。気の乗らない面接をどうしようか、と思っていた時に私はめまいを覚えた。
 
 「すみません、ちょっとクラクラして」「今、めまいが……」
 
 私と患者さん、めまいを訴えたのはほとんど同時だった。同時だったから、めまいではないことを知った。地面が、大きく揺れている。
 
 大きな船にでも乗っているような、うねりがいつまでもいつまでも続いた。これは絶対に大きな地震に違いない。こういうのはtwitterが一番速いと思ってタイムラインを覗くと、東北で巨大地震が起こったと誰かがつぶやいていた。患者さんとの話し合いは有耶無耶に終わって、その日はそれでお開きになった。
 
 自宅に帰る途中、珍しくカーナビでニュースが見たくなった。コンビニの駐車場で津波の映像を見て、すぐさま気分が悪くなった。福島県の海岸沿いを上空のヘリコプターが映した映像で、今まで見たこともない、日本の風景とは思えない、焦げ茶色の海岸線だった。なぜ気分が悪くなったのかはわからないが、ニュース報道を見てこれほど気分が悪くなったことは前にも後にも無い。あれは何だったんだろう?
 
 
 【「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」を観た時】
 
 1997年7月19日は、惣流アスカラングレーの命日である。他にも、葛城ミサト、赤木リツコそのほか多くの人が死んだ。いや、死んだと言って良いのだろうか? さしあたり、その後、惣流アスカラングレーが蘇ったのは間違いない。
 
 これに先だって公開された『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』で、テンションは十分に高まっていた。そのラストシーンから、惣流アスカラングレーが危機的状態に置かれていることも承知していた。で、『まごころを、君に』を観て、私の頭のなかはゴチャゴチャになった。私達のよく知っている惣流アスカラングレーは死んだ。ストーリーの必然として死んだようだった。たが、赤く染まった海岸線のラストシーンで蘇った、ようにみえた。到底元気の出る終劇ではなかったけれども、ともかく、惣流アスカラングレーは蘇って「気持ち悪い」と言い残した。
 
 当時、エヴァンゲリオンに熱狂していた人のなかには、いわゆる「謎解き」に夢中なタイプもたくさんいた。人類補完計画、セフィロトの木、最後の使徒、サードインパクト、そういったボキャブラリーを舐め回して、その意味を深読みするようなタイプだ。時の風化を経た今になってみると、1997年のサブカルチャー作品には、そういう深読みがいかにも似合うように見えてしまう。
 
 いっぽう私は、碇シンジ、惣流アスカラングレー、綾波レイといった、キャラクターそれぞれの行く末に関心のウエイトを置いていた。アニメに出てくる個別のキャラクターに対して、これほど身を案じていたことはそれまで無かった。無かったからこそ、『まごころを、君に』の結末を気にしていた。
 
 『まごころを、君に』を見終わった瞬間は、なかば茫然自失だった。一緒に映画を観に来ていたオタク仲間は、お気の毒に、といった表情を浮かべていた。そのとき私は、クックックと反動形成的な笑みを浮かべていた。まあ、ショックだった。
 
 それでも、惣流アスカラングレーは死んで蘇ったのである。そのことに重大な意味があるように私には思えた。庵野監督がどのような意図であのようなストーリーにしたのかはわからないし、別に、わかりたいとも思わなかった。だが、さしあたって私に重要だったのは惣流アスカラングレーが死んで蘇ったという、公式作品内での事実だった。
 
 私の人生にとって、惣流アスカラングレーが死んで蘇ったという作品内事実はひとつの転帰だった。現在の私の社会適応、その相当部分は惣流アスカラングレーの死と再生から始まったと割と本気で思う。おかしな話に聞こえるかもしれないが、死んで蘇った惣流アスカラングレーを観た時、私もそのようでありたいと思ったからだ。
 
 『まごころを、君に』のことを書いたらおなかが減ってきたので、このお題について書くのはこれでおしまいにします。