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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

子どものYouTuberを見ていると不安になる

娑婆

 
 blogos.com
 
 リンク先は、行動をエスカレートさせるYouTuberを「仕事」をキーワードに考察したものだ。
 
 私はYouTuberの行動原理は、金銭と承認欲求の両方に由来している場合が多いとみているので、「仕事」だけに注目するのは片手落ち、と感じる。それと、リンク先の文章は、「仕事」に対する捉え方がやけにネガティブだ。
 

 そして世の中には仕事のためなら、何をしても平気だという人が、数多く存在するのである。
 それは決して良いとか悪いとかではなく、仕事というものはそういうものである。
 例えば、軍隊で働く兵士。彼らはともすれば他人を殺すことすらある。ときには非人間性が糾弾されることもあるが、しかし彼らは誇りを持って仕事をしている。
(中略)
 例えば、会社員。例え妻や子供を愛していても、楽しみにしていた遊園地の日に、取引先から呼び出されれば出勤せざるを得ない。

 もう一度言うが、これらは決して良いとか悪いとかいうことではない。
 仕事というものは、そもそも個人的良心の外にあり、個人では制御できない悪や嘘といった領域をどうしても含むものなのである。だからこそ善悪の基準というものが極めて曖昧になる。

 そうだろうか。
 
 この考え方は、「仕事なら、何をしても平気」という感覚と、「仕事なら、ときには嫌なことでも引き受けざるを得ない」という感覚の区別がついていないように、私にはみえる。
 
 YouTuberのなかには、金銭や承認欲求が欲しいあまり、良心が麻痺している極端な人がいるのは事実だろう。けれども一般に、仕事とは個人的良心を持ちながらやっていくものではないだろうか。
 
 ときには顧客や家族のニーズに応えきれないことがあるし、個人では制御できない悪や嘘に直面することもあるだろう。だが、そういった時に善悪の基準が曖昧になってしまうのではなく、良心の呵責を感じながらも働き、できるだけそのような事が起こらないよう努めているのが社会人だと私は思っていた。
 
 こんな風に考える私は、ひょっとして“おめでたい世間知らず”だろうか。
 
 

幼い頃からYouTubeに出ている子どもは、どんな風に成長するのか

 
 それはともかく、子どものYouTuberである。
 
 少し前から、子どもがパフォーマンスをやる動画投稿を多くみかけるようになった。出てくる子どもは、中学生や高校生とおぼしき年齢だけでなく、幼児が出てくるものもある。PV数も、閑古鳥が鳴いているものから“大手”まで色々だ。
 
 ああいうのを見ていると、私は、不安になってしまう。
 
 子どもが楽しそうに登場しているものでも、この子どもの将来はYouTubeに曝され続けてどんな風になってしまうんだろう……と思うと、なにか恐ろしい出来事の現場を目撃しているような気持ちになってしまうのだ。
 
 リンク先では、親に利用されてYouTubeに出演している子どもがいると述べている。実際、そうかもしれない雰囲気の漂う動画を目にすることはある。子どもを金銭収入の手段として使役するのは、あまり褒められたことではないように私は思う。
 
 それ以上に気になるのは、子ども時代から、不特定多数に観られて評価されることで金銭的・心理的報酬を得る経験を繰り返す生活が、その子どもの人格形成や処世術にどんな影響を与えるのか、だ*1
 
 ネットで不特定多数に観られて得られる金銭的・心理的報酬は、安定した人間関係から恒常的な承認を得るのとは全くタイプが違っている。
 
 PVは理不尽な神様のように気まぐれで、集まる時には集まるが、集まらない時には集まらない。間欠的に注目が集まる感覚は、射幸心をあおり、不特定多数の関心を得るために言動をエスカレートさせるよう誘惑する。そういう体験を幼いうちから繰り返していて、はたして、人格形成や処世術が歪まないものだろうか。
 
 実際には、成人ですら金銭的・心理的報酬のために表現をエスカレートさせて、種々の揉め事を起こしている。そしてYouTubeというメディアは、動画であるがゆえに、過激なものを配信しようと思えばいくらでもできてしまう。そんな、成人でもコントロールが難しいメディアを子どもにいじらせて良いものなのか。
 
 こうやって考えると、YouTubeやニコニコ生放送のたぐいは、年齢制限があって然るべきだと私は思う。13歳などとぬるいことは言わず、18歳未満は一律禁止にしても良いぐらいではないだろうか。親が承諾して動画を撮る場合も、あくまでプライベートな・ローカルな配信に限定したほうが望ましかろうと思う。
 
 と同時に、インターネットで注目を集めること・顔を曝して金銭や注目を集めることに相応以上のリスクがあることを教えるのも、親に期待されるネットリテラシー(のひとつ)だろう。
 
 

子どもYouTuberは「虐待」か

 
 ところで、ここまで書いておいてなんだが、私は子どもがYouTuberをやっていることだけをもって「虐待」と呼べるとは思っていない。
 
 なぜなら、あれを「虐待」とみなしてしまうと、世の中のいろいろなものが「虐待」に当てはまってしまいそうだからだ。
 
 もし、子どもが自分のやりたい意志で*2YouTuberをやっているのを許していたら「虐待」相当だとしたら、子どもにテレビゲームをさせるにまかせている親も「虐待」ということになりそうだし、子どもに炭水化物や脂質の多いおやつを食べさせ、果糖たっぷりの清涼飲料水を与えている親も「虐待」ということになりかねない。
 
 また、親が子どもにYouTuberを“やらせている”場合でさえ、もし親が「これは子どもの将来のためなんです」「子どもの教育のため、キャリア形成のためなんです」と主張していたら、「虐待」と呼びづらいように思う。
 
 子どもの将来のために親が子どもにYouTubeをやらせるのが「虐待」だとするなら、子どもの将来のためと称してタレントスクールに通わせる親や、スポーツのスパルタ教育を強いる親もまた、「虐待」と呼べるのではないだろうか。ピアノ教室だって、お受験のための塾通いにだって、強いればそれほど大きくは違わないのではないか。
 
 子どもの将来という見通しのきかないものに対して、親は、子どものためと称してあれやこれやを学ばせようとする。もし、それらを「虐待」認定してしまったらきりがない。
 
 だから、親が子どもに性的な動画配信を強制しているとか、そういった明白な問題があるならともかく、親が子どもにYouTuberをさせることを許容している・推奨していること自体は「虐待」とは呼べない。控えめに言っても、呼びにくい。
 
 だから私には、「子どもがYouTubeをやっているのはいけない」とか「子どもにYouTubeをやらせている親は「虐待」している」などとは到底言えそうになくて、ただ、「子どもYouTuberをみていると不安になる」と感想を述べるのが精一杯である。
 
 それでも、インターネットの承認欲求の渦中に住まうブロガーの一人として、また、多くのアカウントが心身を持ち崩した顛末を知っている身としては、子どもがYouTubeで一生懸命にパフォーマンスをやっているのを観ていると、心がざわつかずにいられないのだ――この子ども達は無事に育ってくれるのだろうか。こんなかたちで金銭的・心理的報酬を受け取ることに慣れてしまっても、それなり健やかに成長できるものだろうか、と。
 
 インターネットを通じて私達は、世の中の最も素晴らしいものから最もおぞましいものまで眺めることができる。あのちいさなYouTuber達の、いじましいパフォーマンスは、どちらの部類に入るのだろうか。どうあれ、YouTubeで動画を配信している子ども達には、なるべく元気に無難に育って欲しい。
 

*1:YouTubeに限らずネット配信全体に言えることだ。たとえば小学生のうちからtwitterで不特定多数のアテンションを集めているような子ども、など。

*2:子どもの「やりたい」という意志の有無をどのように判断するのか?その判断のややこしさについては、ここでは踏み入って議論しない