シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

私にとってのダリ展

 
salvador-dali.jp
 
 先日、東京出張の合間に時間ができて、なにか面白いことがないかネットで検索していたら、国立新美術館でダリ展をやっているのを発見して出かけてみた。
 
 有名画家だけあって混雑していたけれども、見に行って本当に良かった。そのあたりについて、思い出話を交えながら書き綴ってみる。
 
 
 
 *    *    *
 
 私がダリという画家を知ったのは、大学二年生の時だった。
 
 田舎育ちで無教養な学生だった私は、シュールレアリスムには全く関心を持っていなかった。一応、大学一年生の時に美術史の授業を取っていたけれども、美術に興味があったわけでもなく、「単位が取りやすい」と評判だったから選択したに過ぎない。
 
 ところがある日、東京に進学した同郷の友人が「面白いものを買った」と言ってダリの画集を熱心に薦めてきた。
 

ダリ NBS-J (タッシェン・ニュー・ベーシックアート・シリーズ)

ダリ NBS-J (タッシェン・ニュー・ベーシックアート・シリーズ)

ダリ全画集 (25周年)

ダリ全画集 (25周年)

  
 その画集には、不可解で偏執的な絵がズラズラと並んでいた。タイトルも怪しく、わけがわからない。
 
 美術もアートもわからない私にも、ダリの絵は面白かった。すごく細かく書き込まれていて、アンバランスで、刺激的で、夢の中みたいだった。なにより、「俺にも楽しめる絵画が存在する!」というのが大きな発見だった。
 
もっと知りたいサルバドール・ダリ (生涯と作品)

もっと知りたいサルバドール・ダリ (生涯と作品)

 
↑こういう絵柄が嫌でなければ、美術に関心の乏しい人でもダリの絵なら楽しめると思う。もし好奇心を抱いたなら、ダリ展の会場に足を運んでみて欲しい。きっと、大学生時代の私と同じようなインパクトを受けて、面白く眺められると思うから。
 
 
 *    *    *
 
 このダリがひとつの突破口になって、その後の私は絵画を少しずつ眺めるようになっていった。
 
 ジョット。
 エル・グレコ。
 フェルメール。
 印象派。
 ピカソ。
 
 それらの絵画を眺めるたびに、大学の美術史の記憶が蘇った。もちろん授業内容はすっかり忘れていたけれども、西洋美術の全体的な流れは覚えていて、これが非常に役に立った。私は、大野左紀子さんの『アート・ヒステリー』で述べられているような、ある種のテンプレートどおりの態度で絵画を見て回った。
 
 
アート・ヒステリー ---なんでもかんでもアートな国・ニッポン

アート・ヒステリー ---なんでもかんでもアートな国・ニッポン

 
 ただ、そうやって色々と見て回っているうちに、あの、アンバランスで、刺激的で、夢の中みたいだったダリの絵画は少しずつ相対化されていった。
 
 私にとって唯一無二の「面白い画家さん」は、たくさんの画家のなかの one of them になってしまった。もともと乏しかったシュールレアリスムへの興味は消えてなくなり、私のお気に入りはルネサンス期の宗教画になった*1。そして印象派よりも後の西洋絵画は、感動するためでも魅了されるためでもなく、理解するもの・解釈するものとみなすようになってしまった。
 
 そのうえ、私は精神科医のはしくれとして病碩学にも興味を抱いてしまった。私にとっての病碩学とは、画家や作家を精神疾患に沿って分類するものではなく、ジャンルのテンプレートに収まりきらず、疾患分類にも入りきらないものを噛みしめるための手がかりだった。
 
 そういう病碩学の目線でムンクやゴッホの絵を眺めると、これが面白くてたまらない。
 
 ところが、この私流病碩学の視点でみると、ダリはそんなに面白くないように見えたのだった。
 
 大学生時代の私を面白がらせてくれたダリの絵は、病碩学的にみると優等生のように見えてしまった。信じられないほどよくできているが、端正過ぎる。偏執的なところも、わざとらしいんじゃないのか? もしかして、天才のふりをした秀才なんじゃないか。いや、天才だとしても、ダリってのは“おさまりの良い”天才なんじゃないか。
 
 他方で、他のシュールレアリスム画家のなかには、ダリよりもアンバランスで奇妙なものを内包した、不可思議な人がいたりもしたのだった。
 
 
Leonora Carrington: Surrealism, Alchemy and Art

Leonora Carrington: Surrealism, Alchemy and Art

 
Remedios Varo: Unexpected Journey

Remedios Varo: Unexpected Journey

 
 ダリと比べて、このあたりの画家さんの絵には得体のしれない気配を感じる。ムンクほど病的ではないし、不穏な気配を押し付けてくるようなものでもない。精神病的なものやオカルト的なものに呑み込まれているわけでもない。ただ、技巧と内面がギリギリのところで均衡しているような、ハラハラするものを私は感じてしまう。
 
 こういう絵画を知るうちに、ますますダリは相対化されていった。
 もっと面白いものがたくさんあるじゃないか。
 
 
 *    *    *
 
 そんなわけで、私はあまり期待しないでダリ展に臨んだ。
 
 ところがどっこい。たいしたものじゃあないですか。
 
 画集ではなく、実物がズラズラと展示されているせいか、それとも展示会という装置がアウラ、またはスピリチュアルな雰囲気を提供しているせいか、ともかくも私は圧倒されて、夢中になって眺めていた。
 
 《降りて来る夜の影》も《奇妙なものたち》も、画集では気付かなかったものが溢れていて、なんだこりゃあ、凄いと思わずにいられなかった。蟻や松葉杖や目玉焼きといった小物のデザインも、その配置や構図も、信じられないほど素晴らしく見えた。
 
 でもって、これも画集の時には気付かなかった、ダリならではの病碩の気配というか、「この人にしかない何か」を感じ取った気もした。草間彌生の古い作品のようなキツイものではないけれども、ああ、ダリも人の子、すなわち偏りを抱えた人なのであって、狙って偏執的というより、やはり偏執があったのだなあと合点がいった。
 
 大学生時代に魅了されて、いったん心が離れていた「ダリおじさん」だったけれども、結局とても良かった。きっと私は、これからもダリの作品を見に行くのだろう。
 
 
 *    *    *
 
 それと、展示会の企画のおかげかもしれないし、私が歳をとったからかもしれないけれども、ダリという人の成長の軌跡を確かめられたのは良かった。
 
 最初のうちはいろんな描き方を試している。好奇心旺盛な子どもや、流行りものを一生懸命に追いかける若者みたいだ。ダリは凄い画家だが最初から完成していたわけではなかった。
 
 そしてダリの成長は晩年になっても続いていく。
 
 かつて私は、ダリの後半の作品はあまり魅力的ではないと思っていた。変に落ち着いていて、ワクワクしてこなかったのだ。
 
 ただ、作品展を順番に回ってみると、歳を取った後の作品もこれはこれで味わい深く、なによりダリという画家が決して立ち止まらなかったことがよくわかった。
 
 もし、ダリが三十代の頃と同じ作品を創り続けていたなら、彼は立ち止っていたと言わざるを得ない。しかし、ダリは立ち止まっていなかった。首尾一貫したものを保持しながらも、新しい表現、新しい境地を求めて変わり続けていた。
 
 そうやって改めて眺めると後半の作品も味わいがあり、新鮮味があって、心を打つものがあった。《テトゥアンの大会戦》なども、こんなに見どころたっぷりな作品とは思わなかった。画集ではなく、作品そのものを見なければきっと気づかなかっただろう。
 
 天才といえども、立ち止まってしまえばそれまでだ。
 だが、ダリは前へ前へと進み続けていた。
 
 いろんな意味で、大学生時代には気づきようのなかった、忘れがたいインパクトを受け取ったと思う。
 

*1:もちろん今でもお気に入りだが