シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

インターネットは人生劇場で、アカウントは「おまいらの人生の物語」だ

 
orangestar.hatenadiary.jp
 
 そんなんでいいの? って言われましても。
 
 こういうの見ると、「おまいらの人生の物語」って短編集をつくりたくなりますね。自分自身も含めたインターネット発信者の生きざまを、いろんな角度から書くんです。そしてカクヨムに投稿するのです!
 
 アフィリエイト。PV稼ぎ。はてな村。ライフハック。どれも立派な人生じゃあないですか、人間が人間として執着にしがみつく、そう、いろんな色彩を帯びた執着が、その人の気質・訓練度・歴史なんかと相混じってブログや動画に顕れてくるんですよ! ある者はアフィリエイトに夢中になり、ある者はゲーム実況に思春期を賭け、ある者は小さなネットコミュニティにこだわり、ある者は「三文ライフハック記事」をありがたがってみせる。
 
 人生。
 
 人生っすよね、全部。
 
 「あなたの人生の物語はそんなのでいいの?」
 とアジコさんは問われる。
 
 YES!
 
 私なら、YES!と答えますね。そしてアフィリエイト、PV、ブックマーク、はてな村、に夢中になっているブロガーの皆さんや、自由を求めて不自由な芸人に一直線のインターネット芸人の皆さんも、YESと答えなければならない。
 
 問うまでもなく、ブログに記されたもの、インターネット上で表出されたものが「おまいらの人生の物語」なんですから。インターネット拝金主義も、インターネット遊び人主義も、ブロガー同士で空気を読み合うのも、そのさまをネット上に表出させたら、それがあなたなんです。「わざとやってるんです」「芸ですよ芸」なんて面構えでやっていても、それも全部あなたの業です。インターネット上で何をやるのかは自由ですから、自由意思にもとづいて表出したそれらは、あなたの構成素子と言わざるを得ない*1。インターネットという環境をどう捉え、どう適応しようとしているのかを含めて、あなたが顕れてくるのです。
 
 「それがあなたの執着ですね!」ってやつですよ。
 
 昨今、アフィリエイトが大好きなネット発信者が増えました。や、昔も少数いたけれども、昔の人はどこかプロっぽくて、アマチュア臭い投稿でカネを稼ぎにかかる人の発生率が跳ね上がったのは最近です。
 
 そのような、お商売っぽいネットユーザーのブログ記事や動画投稿というのは、つまり、「お商売なおまいらの人生の物語」なんでしょうね。カネ。カネのためにブログを綴る。それも人生の物語じゃないですか。筆者にはYESと言う権利があるし、他人の評価がどうであろうとも、自分自身の人生の構成素子にYESと言って護る義務を負うのだと、私は思いますよ。
 
 で、こうやって、ブログ界・インターネット界には無数の「おまいらの人生の物語」が存在し、ぶつかりあい、摩擦を起こしながら寄り集まっていて、大河のような「時代」が形作られていく。
 
 某所でアジコさんは、「ブログが面白い・面白くない」のお話をされていたけれど、そうやって無数の人生の物語がぶつかり合いながら、あるタイプの人生の物語が浮かび上がりやすい場が衰退し、別のタイプの人生の物語が浮かび上がりやすい場が隆盛してきて。そういう「時代」の流れのなかで、ブログ遊び人主義な人生は顕れにくくなってきました。でもって、今、インターネットに顕れやすい人生の物語は何なのかっていうと、カネ、ネットビジネス、ソーシャルキャピタル*2、ですよね。だから、十年ぐらい前のインターネットの素人界で主流だった人生の物語を愛していた人には、面白い演し物が減ったと感じられるし、自分自身も演りにくくなったと感じられてしまう。
 
 他方、カネを追いかけたい野心が人生の物語な人達にとっては、現在のインターネットこそが人生の物語を全力で投げ込める、執着をストレートに具現化できる、都合の良い場なのでしょう。カネが執着の主因子ゆえ、ブログでやるか、動画でやるか、noteでやるか、それともインスタやtwitterか、といった砂金堀りの場所選びに神経質にならざるを得ない姿も、それも、その人の人生。
 
 人生!
 
 私やアジコさんが愛好するような人生の物語は目立たなくなってしまいました。日本土着の魚がブラックバスやブルーギルに駆逐されて生息域を狭めた程度には、出会いにくくなった、と言えます。だから“古き良き”インターネットを愛していた人にとって、目当ての人生の物語を発見する効率が下がったのはそのとおりだと思います。「この釣堀、ブラックバスとブルーギルばかりになっちまったな」
 
 
 ※余談ですが、こうした変化の結果、はてな匿名ダイアリーが相対的に面白い物語の釣堀っぽくなったんですが、あそこはアカウント追跡性が無いので「記事単位」でしか人生の物語が観察できないのが致命的です。何か月も何年も一人のアカウントを観察し続けなければ、人生の物語は読み取れません。単発記事なら、発信者はいくらでも自分自身に化粧を施せる。でも、何か月も何年も発信し続けていると、化粧が剥げ落ちて、執着の地金が出てくるじゃないですか。そして彼らは(いえ、私達は)、その執着の地金や自分自身の器量に引っ張られるまま、オンライン空間におのれの軌跡を描いていく。ある者は浮かび、ある者は沈み、ある者は輝きを失い、ある者は超新星爆発する。そういった生きている軌跡こそが、インターネットの人生の物語として珍重に値すると、私などは思うのです。
 
 
 話を戻しましょう。
 
 では、どうしてカネに実直な人生の物語がネットに顕れやすくなったのか?

 これって、ネットサービスの仕組みがどうこうって問題だけじゃなく、日本社会全体がそうだって要素もあるんじゃないのかな、と私は思ったりします。教養主義の衰退・ライフハックの台頭・アドラー心理学の21世紀風の流行・失われた○○年――こういうの全部と、今、若い人がインターネットに投げかける執着との間には、関連性があると思うんです。
 
 個別のひとりひとりを眺めれば、今でも教養主義的な若いアカウントは見つかるし、00年代のブログ文化が似合いのようなアカウントも見つかります。でも、インターネット界全体の「時代」の流れとしては、わかりやすく即物的な方向に流れているようにみえるし、そうした流れは、社会全体の気分や社会病理の方向性とも概ね一致しているというのが私の暫定解釈です。
 
 「時代が変わって、人も変わって、執着や人生も変わってしまった」のでしょう。
 
 もし、そのことに哀惜を感じておられるのなら、アジコさん、あなたは私と同様、精神として若者ではなくなったのだと思いますよ。今を生き、今しか生きられず、自分が空気のように呼吸している時代精神を後発世代と比較することができない(そもそもその必要が無い)のが、若者ってやつでしょうから。
 
 自分が空気のように呼吸してきた時代精神と、現在の時代精神との間に差異を感じるのも、若者が若者でなくなった一兆候なのだと思います。だからって悲観することはないんですけどね。若者ではなくなった立ち位置から若者の姿を眺めるのは、それはそれで滋養に富んだことだと思いますし、結局、若くたって年を取ったって、あらゆる力を総動員して生きていくしかないのですから。そうでしょう?惣流アスカラングレーさん。
 
 そうやって、人生全力疾走している若者も中年も老人も、インターネットにあれこれ書き綴っているのですから、インターネットとは人生劇場であり、アカウントとはそれぞれの人生のライフログに他なりません。人生の全貌ではないにせよ、とにかくも、そこには人生の構成素子が投げかけられ、人生を反映した何かが浮かび上がっているんですよ! ブログや動画から執着を嗅ぎ取り、アカウントの心拍に耳を傾け、ディスプレイの向こう側に思いを馳せる――そういう作業をとおして、私は諸行無常を実感するとともに、なにかしら自戒と省察を得ているつもりであります。
 
 そんなわけで、アジコさんも是非、これからもインターネット人生劇場を観劇し続け、娑婆世界についての新しい省察を得ましょうよ! と誘ってみます。そうですね、いつかワインでもご一緒しながら、「おまいらの人生の物語」について語り合う機会でもあればいいですね。
 
 原稿が追いかけてきたので、今日はこのへんで。
 

イエルマン Were Dreams... 2013
価格:7560円(税込、送料別)

 

*1:ちなみに、ロールシャッハテスト同様、「表出しない」という自由もあるわけです。だとしても、表出されたものは、防御の構えを含めて、やはりその人の意志や無意識が反映されたアウトプットに違いないのです

*2:社会関係資本、いわゆるコネなど