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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

「ただし、お金や判断力や体力に恵まれていたら」

 
 自由。それは良いものである。
 ただし、お金と判断力と体力に恵まれていたら。
 
 自由。それは取り扱いに注意しなければならない。
 お金にも判断力にも体力にも恵まれていないなら、尚更だ。
 
 お金や判断力や体力に自信のある人々が、自由の徹底を叫ぶのは、私にはよくわかる。きっと、その人物は自由を使いこなす自信があるのだろう。しかしそのような人々は、はたして、自分よりお金のない人・判断力のない人・体力のない人のことを省みながら自由を叫んでいるだろうか。自分の身の丈に合うシャツを、全く身の丈の会わない人にも似合って当然とみなして、それが絶対だと胸を張ってはいないだろうか。
 
 現代社会において自由は、こうした「ただし、お金や判断力や体力に恵まれていたら」を度外視して議論される性質の強いものではある。なぜなら、ただ、自由であるというだけで、それは尊いということになっているのだから。もちろん、個人の自由を巡る歴史的経緯を思えば、そうした姿勢が不可避で不可侵なのは私も判っているつもりではある。しかし、多くの人達が中庸を推したように、なにごとにも程度問題というものがあるのではないだろうか――自由という不可侵な概念についても、同じような疑問を向ける余地はないだろうか。もう少し控えめに言っても、個々人が社会に対し自由を求め仮にそれを勝ち得たとした時、その自由が誰にとってどのような福音をもたらしどこまで困難をもたらすのか、常日頃から検討が必要ではないだろうか。
 
 進路を決める自由にしても、子育てをデザインする自由にしても、家を買ったりFXに手を出したりするにしても、個々人が自由を獲得することで得られるものはたくさんあった。それはまちがいなく得難い獲得だった。しかし、その得難い獲得を凝視してみれば、それはお金と判断力と体力に恵まれている人をこそ大きく利する獲得であった。これも誰かが言っていたような気がするが、自由には、その濃度が高まれば高まるほど個人に“強さ”を要求する性質が間違いなくある。
 
 世間を眺めていると、お金や判断力や体力に恵まれないまま、授けられた自由を持て余し、最悪のかたちで行使してしまっている人達をしばしば見かける。それとも、私の見立ては間違っていて、あの、自由を持て余して力尽きたりアウトローに転げ落ちたりしている人達というのも、実は、イキイキと幸福裏に自由を呼吸しているとでもいうのだろうか。
 
 私は、そんな自由から受益する人間でありたい。
 
 これは、「私は自由から受益できるような強い人間でありたい」と言っているにも等しい。なぜなら私は、自由についてまわる「ただし、お金や判断力や体力に恵まれていたら」という条件を、どうしたって意識せずにいられないからだ。
 
 ところが現実の私自身はといえば、資産家ではなく、賢者でもなく、体力抜群でもない。だから自分の手許にある自由の取り扱いには、細心の注意を払わなければならない。インターネットというのも、そうした、与えられた自由のひとつだ。インターネットもまた、たくさんのものを個人に与えてくれる。ああ、自由なインターネット!「ただし、お金と判断力と体力に恵まれていたら」。たとえ力が乏しくとも、私は、私達は、サバイブしなければならない。