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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

ニュータウンに日は暮れて――歴史なき街の、生と死

 
 

 
 地方の国道沿いに住んでいると、ときどき、山間のひっそりとしたニュータウンを訪れる機会がある。
 
 もともと誰も住んでいなかった山野を切り拓いてつくられたニュータウンには、歴史も氏神も伝承も存在しない。本来、都市なるものが多かれ少なかれ背負っているであろう歴史や文化の蓄積がまっさらで、出身も出自もバラバラの核家族が好き勝手な生を生きているのだから、統一した文化・統一した歴史など望むべくもない。考えようによっては、不思議な空間だ。
 
 敢えて統一したカラーを挙げるとしたら、全国共通の没個性なマイホームが、どこまでも続いていることぐらいだろうか。店舗で言うなら、イオン、しまむら、マクドナルド、ヤマダ電機。それらは文化を何も算出しない。少なくともローカルな文化のフレーバーを醸し出すような性質は持っていない――実際、「会津若松市の伝統」「金沢市の伝統」「奈良市の伝統」といった特定の中核都市の伝統や文脈を濃厚に継承しているニュータウンはあまりない。少なくとも、その手の伝統がきわめて希薄なニュータウン、ほとんどゼロに近いニュータウンというのは津々浦々に存在する。
 
 そうしたまっさらなニュータウン、歴史的無重力空間としてのニュータウンは、どうなっていくのか?大都市圏では、多摩ニュータウンや千里ニュータウンの高齢化問題が指摘されている。地方は地方で、ニュータウンが年老いていくのがよくわかる。子ども達が遊んでいたブランコは錆びて朽ちてゆき、通学路からは人影は絶え、ニュータウンで生まれ育った二代目は戻って来ない。造成されて四半世紀ほど経ったニュータウンには死臭が漂っている……とまではいかないにしても、若さや潤いは驚くほど失われている。残されているのは、子育てを終えて老いた世代と、なんらかの理由で親元に留まることになった成人だけだ。
 
 これは、昔からいわれるところの過疎化・限界集落化とは微妙に違う。そもそも、そうしたニュータウンは地方を過疎化させ、都市郊外に人口を集めてくる一助というか、片棒を担うような立場であったはずだ。にも関わらず、その地方から人口を吸い上げてきた都市郊外自身が、今度は高齢化し、ゴーストタウンと化していくのである。似たような現象は、いまも現在進行形に起こっている――歴史を保有しないニュータウンに若い核家族が流れ込み、子どもを育てる。育った子どもは戻ってこず、ニュータウンは老いていく――今、出来たてのマイホームやマンションの立ち並んだニュータウンとて、四半世紀が過ぎればゴーストタウンになっていくかもしれない。その可能性は、ある。
 
 じゃあ、老いていかないニュータウンというのはあるのか?
 
 たまたま中核都市の近郊に位置し、交通の便に恵まれたニュータウンは、下の世代からも利便性を買われ、再開発される余地はあるかもしれないし、現に、利便性の高いエリアは再開発されている。ということは、中核都市という“恒星”が存在しなければニュータウンという“惑星”が新陳代謝を維持する可能性はあまりなさそうとも言えそうで、中核都市の商業的・文化的な“威光”がしっかり届くエリアでなければ厳しいと推測される。
 
 ときに、ヤンキーが「ジモト」と称して街に一定の帰属感を抱くことはある。けれどもそうしたものも、山野を切り拓いたニュータウンだけで成立するものではなく、「駅」や「盛り場」といった中核があってはじめて成立する「ジモト」であって、没個性な家々の立ち並ぶ丘陵地帯が地域アイデンティティとして認知されているわけではない。
 
 中核都市のほとんどは、単に仕事や人口が集中しているだけでなく、あるていどの歴史を持っている。中核都市としての“威光”を利かせているのは、何百年も前から歴史を背負った都市が中心で、山野を切り拓いてつくられた街に人口が集中しているといえば、せいぜい、北海道の諸都市ぐらいのものだ。その北海道の諸都市とて、歴史と文化が相対的に集中している場所に人は集まってくるのであって、歴史も文化も蓄積していない(そして蓄積していかない)ニュータウンに人が惹かれて集まってくるわけではない。
 
 歴史も文化も単体では持たないニュータウンが、無より生じて、無に帰っていく。
 
 かつての典型的な都市や農村とは異なり、ニュータウンには、街そのものが世代再生産していく力が無い――人が生まれても定着はしないのだから。そしてニュータウンという無重力で生まれ育った人間は、生まれながらに無重力に慣れ親しんでいるからこそ、よほど特別な理由がない限り、「故郷」に帰属することも「故郷」で暮らすこともない*1。ニュータウンとは、そういう漂流する人間の仮住まいだ。親元や故郷を離れて仕事を求めた両親の子どもが、どうして「故郷」なるものに拘りを持てよう?
 
 かくして、ニュータウンで育った二代目、三代目は、高確率で歴史的無重力の民となる――何者にも束縛されない自由の民!帰るべき故郷を失った流浪の民!ニュータウンで生まれた子どもは、また別のニュータウンに流れ、住み着くのだろう。
  
 人間の視点にたってみれば、私達はニュータウンを使い捨てにしていると言えるかもしれないし、ニュータウン自身を生物に喩えるなら、ニュータウンとは新陳代謝能力の欠如した、一瞬で老いて死んでいく存在なのかもしれない。そして都市としてのホメオスタシス能力を欠き、歴史や文化を蓄積できないということは、富を蓄積できないとも限りなくイコールに近い。人の死とともに、ニュータウンからは富が消えていくのだろう。ニュータウンには、何も貯まらない。けれどもその儚い空間で、人は生まれ、人は暮らし、育ち、これから死のうとしている。
 
 山奥の古めかしいニュータウンを訪れるたび、私は現代社会の無常を痛感する。故郷が滅ぶのと、故郷が端から存在しないのでは、どちらがマシなんだろうか?どちらも寂しいことだ。今日も、人気のないニュータウンの公園に日が暮れてゆく。
 

*1:ニュータウンの人間、とりわけ若者が帰属意識を持つとしたら、仕事先や通学先の中核都市であったり、京浜東北線や総武線といった「路線」のほうだ。