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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

スマートフォンやタブレットばかり使っていると頭が悪くなるんじゃないか

 
 「いいね!」に慣らされて俺はバカになってしまいそうだ - シロクマの屑籠
 
 ついでに、スマートフォンやタブレットばかり使っていると頭が悪くなるかもしれない問題――言い換えると“日頃使っているインターフェースに思考が影響を受ける問題”――についてまとめておく。
 
 スマホやタブレットは、出先で大まかな情報収集をするには便利で、そのモバイル性は捨てがたい。けれども、これらをインターネットのメインの手段にし続けていると、インプットとアウトプットの質感はかなり劣化してしまうと思うし、ひいては、ユーザー個人の思考の水準もかなり低下するんじゃないかと私は危惧せずにいられない。モバイル端末に頼るのは、できるだけモバイルな状況だけに絞ったほうがいいと思う。
 
 まず、モバイル端末は本格的な文字入力には適していない。ガラケーなんかに比べればずっと速く、ずっとたくさんの文字を入力できるけれども、キーボードに比べれば長文を打ち込むには向いていない。そもそもインターフェースの設計自体が、長文の文字入力を前提につくられているとは思えない。
 
 ディスプレイのサイズも問題だ。拡大/縮小できるとはいえ、一度に視界に入る文字の量はどうしても限られる。大型ディスプレイでネット上の文物を眺めるのに比べると、一度に視界に入る情報量は限定され、それがそのまま認知のバッファ限界になってしまう。小さなディスプレイほど、画面外にはみ出た文章を記憶しておかなければならない負荷が大きくなり、画面に表示されているお陰で自然にバッファされるテキスト量が少なくなってしまうのだ――これは、虫眼鏡でネットブラウズしているような近視眼的な狭さであって、きちんと文章を読むには適していない。文章をきちんと咀嚼したい時は、視界内に入るテキストボリュームは一定程度あったほうがいいと思う。
 
 ところが、スマートフォンやタブレットには、そういう「文字入力の速さ」や「テキストボリュームの広さ」が欠けている。
 
 テキストが一度にたくさん打てない・たくさん読めないということは、ひとつのテキスト、ひとつのトピックスを長時間考え続けるには向いていない、ということでもある。視界内にたくさんテキストを表示できない状況下では、思考はその狭さの影響をかならず受ける。例えば私がブログを書くにあたっても、自宅の大型ディスプレイでやるのに比べると、出先用のモバイルノートPCではかなり思考が窮屈になっていると感じるし、それが文章にもしばしば反映される。しかしタブレットやスマートフォンではこの比ではない。小さなディスプレイで読み、小さなディスプレイに書くのは、小さな世界にほかならない。
 
 かつて、PCユーザーがケータイ小説を嘲笑している風景をネットでは頻繁に見かけた。しかしケータイ小説とは、書き綴るうえでも読むうえでもガラケーという小さなインターフェースに最適化された読み物だった。さて、ガラケーよりはスマート(賢い)とみなされがちなスマートフォンが普及した――なるほど、ガラケーよりはたくさん文字が表示できるし、ディスプレイの総面積も広いから、スマートフォンはガラケーよりは賢そうなインターフェースだ。それでもデスクトップPCの広々としたディスプレイに比べれば圧倒的に狭い。そして多くのユーザーは、そのスマートフォンを使って、鶏の尻尾より短い文章を交換して満足しているのである。ケータイ小説を小馬鹿にした舌の根も渇かぬうちに、小さなディスプレイに閉じこもって、短文の洪水に溺れ、難しい本をちっとも読まなくなってしまった人もなかにはいるだろう。
 
 そんなネットライフの、どこがスマートだというのか?
 
 

ディスプレイやキーボードだけが問題じゃない。SNSのフォーマットもまた然り。

 
 こういう「インプットとアウトプットの手段が思考を枠付け、継続的に使い続けると個人の思考フォーマットに影響を与える」問題は、文章フォーマットにも当てはまる。さきに挙げたケータイ小説などはその最たるものだし、文庫サイズや“お約束”が定式化したライトノベルなども、書き手と読み手の思考を公然と枠付けしているといえる。もちろん、そうした枠付けによってかえって自由になれる部分も無いわけではない(短歌や俳句などもそうだろう)。しかし、そこで与えられる自由が、フォーマットの不自由に依存しているのはやはり確かである。
 
 コミュニケーションの場としてのtwitter、Facebookもまた然りだ。人間は、インターフェースやフォーマットといった枠付け・不自由から、無意識のうちにジワジワ影響を受けずにいられない。だからこそ、自分がどのようなインターフェースを愛用し、どのようなフォーマットのなかでインプットやアウトプットをしているのか、常に自覚的であったほうがいい。何時間も、何年もネットを使い続けるのなら特にそうだ。
 
 いや、別に自覚的でなくても構わないといえば構わない。そのかわり、無自覚な人はインターフェースと枠組みが押し付けてくる影響を、鵜呑みにすることになる――窮屈なディスプレイで繰り広げられる窮屈な思考。短文フォーマットに依存した短いアウトプット。そして「いいね!」や「お気に入り」まで単純化された感情……。
 
 

背筋を伸ばしてネットをやる時は、ちゃんとしたPCでやるべき

 
 以上を踏まえてタブレットやスマートフォンを眺め回してみると、これらが思考を広げてくれる道具には、どうしても思えない。もちろんガラケーもだ。これらはあまりに狭く小さく、そしてアウトプットが億劫過ぎる。それこそ、「いいね!」で済ませてしまいたくなる
 
 これらのモバイル端末は、寒い冬の日に布団にくるまったままでインターネットが遊べるという意味では comfortable なツールには違いない。だから、現代社会にはあったほうがいいと思うし、私だって手放したくはない。けれども本気で思考を錬成したい時や、背筋を伸ばしてインプットやアウトプットをやりたい時には、まったく適していない点は忘れてはならない。「読み専なんだから、関係ない」と言う人も、インターフェースのサイズや仕様がそのまま認知や記憶のバッファの枠組みになっている点には注意しておいたほうがいいと思う。
 
 [関連]:スマートフォンは生産性向上ツールってホント? | ライフハッカー[日本版]