お家で勉強できる子 - 旧・teruyastarはかく語りき
リンク先は、要約すれば「勉強をゲームだと思って攻略しろ」というものだった。こうしたライフハックで勉強をゲーミフィケーションして、それで学業が促進されるなら、それに越したことは無い。
ただ自分の高校時代を思い出すと、受験勉強そのものをゲームと思いこんで攻略するのは難しかったと思う。
私は受験勉強が大嫌いだった。そしてゲームが大好きだった。私だって、「勉強をゲームだと思って攻略しよう」とは考えたものである。しかし実際には、受験勉強はゲームに比べて明らかに面白くなかった。『ドラゴンクエスト3』のような物語性もなければ『ザナック』のような爽快感も無く、テーブルトークRPGのような自由度も無い。ぶっちゃけ、娯楽としてはクソゲーでしかない。確かに“攻略テクニック”に関してはゲームに相通ずる部分があるにしても、ホンモノのゲームを知る者からすれば、「これはゲームだ」という自己欺瞞が成立するようなものではなかった。
学力テストがモンスターハンターになった
受験勉強を嫌がっていた私に転機が訪れたのは、高校一年生の二学期だった。
当時、クラスで仲良くしていた友人のなかに、「化け物みたいに勉強ができる奴」が一人いた。運動が出来、部活動にも熱心で、性格も明るくて気さく、しかもテストの校内順位もだいたい1〜3位という、非の打ちどころのない奴だった。仲間内では、そんな彼を親しみを込めて“魔王”というニックネームで呼んでいた。
そんな圧倒的な“魔王”について、ある日、誰かがこんなことを言い出したのである;「俺達一人一人がいくら頑張っても、あの“魔王”には勝てない。でも、俺達が5人がかりで挑んだら、勝てるんじゃないか」
単独では誰も“魔王”に勝てなくても、各人各教科の点数のなかから一番高いものを選りすぐった選抜得点でなら対抗できるかもしれない。このアイデアを“魔王”本人に伝えてみると、彼はもちろん快諾してくれた。「いいよ、やってみようぜ。勝ったら昼飯おごってくれ」と余裕の様子で。
こうなると、がぜん盛り上がってくる。「あの“魔王”を倒そうとしている奴らがいる」という噂を聞きつけた隣のクラスの人間までもが加わり、討伐軍は総計10人にまで膨らんだ。私はいつもよりモチベーションの高い状態で勉強机に向かい、いつもより勉強が頭にスルスル入ってきた。勉強そのものは依然として面白みを欠いていたが、「強大な“魔王”を皆で倒す」というシチュエーションと、点数比較というシステムはいかにもゲーム的だと感じていた。
そして迎えた、二週間後の学力テスト。
“魔王”討伐に参加していた全メンバーは、成績が大きく上昇した。中間テストや期末テストと違って、学力テストは過去の領域もそれなり分かっていなければ得点が稼げないことを思えば、これは成果だった。きちんと勉強をしたという手ごたえがあった。
とはいえ“魔王”はやっぱり強かった。討伐連合軍は、一部の教科では勝っていたが、それでも20点近く差をつけられて敗退した。「俺、勝っちゃったよ」と涼しく笑う“魔王”は、やはり“魔王”のニックネームに相応しい存在だった。結局、こうした“魔王”対連合討伐軍の戦いは半年ほど繰り広げられ、一時はあと10点差まで詰めながらも一度も“魔王”を倒せないままクラス替えを迎えた。とはいえ、この“魔王”討伐戦は、勉強をするモチベーションを(一時的にとはいえ)大いに盛りあげ、参加者の学力向上にかなり役立ったと思う。
受験勉強が対戦ゲームになった
“魔王”とクラスが別々になった後しばらくは、私の周りでこれぞという受験勉強のゲーミフィケーションは見かけなかった。しかし高校三年生になった頃、新しいアイデアが仲間内で流行しはじめた。
当初、ルールはとてもシンプルだった。
「学力テストや模擬テストごとに、総合得点または単一教科 どちらかで点数を争い、敗者が勝者に昼飯をおごること」;ただし、このルールでは実力が伯仲している者同士でなければ勝負にならないという問題点があり、また、昼飯の贈与では面白みが無かった。
そこで考えられたのが、「ハンディ制」「もっと面白い罰ゲーム」である。
「ハンディ制」とは、対戦者同士の間に10点の得点差が既にあった場合、次のテストでは「10点の得点差が広まったか、狭まったか」で勝敗を判定するというルールである。これなら、学力に差のある者同士でも対戦が成立する。ちょっと考えれば分かることだが、このルールは点数が少ない側のほうがやや勝ちやすく、点数が高い側は高得点を維持するだけでも厳しかった。とはいえ、猛追してくるであろう挑戦者をさらなる高得点で退けるのは名誉なこととされ、勉強のモチベーションはしっかり刺激された。万が一、自己ベストを更新してもなお挑戦者に敗れるとすれば、挑戦者側の学力がよっぽど高まったということなのだから、それはそれで悪い話ではない。
勝者の特権も再検討され、「昼飯をおごる」から「ゲーセンで、敗者に300円分の命令権を与える」に変わった。その300円の内訳は何でも構わず、「俺に300円分ゲームをおごれ」でもいいし、「あの、絶対にクソゲーだと一目瞭然なゲームの内容を確かめるための人柱になれ」でも構わない。あるいは、「他校の女子がたむろしている状況下で脱衣麻雀をやれ」というのも考えられる…。
おりしも高校三年生、絶え間ない学力テストや模擬試験に一喜一憂しがちなシーズンだった筈が、このゲーミフィケーションのおかげで、カレンダーに並んだ大量の模擬試験・学力テストがすべて対戦ゲームとして立ち上がってきた。大学受験という遠すぎる目標に全力疾走するのはピンと来ない話だったが、顔の見える友人を、目先の模擬試験で打ち負かすための全力疾走はとても想像しやすかった。また、偏差値などという何がありがたいのか全く分からない数字に比べれば、このバトルの勝利特典はきわめて具体的で、楽しげだったのである!「この戦いに勝ったら、ククク、あいつにゲーセンでどんな屈辱を与えてやろうか。」そういう想像を巡らせながら、対戦ゲームとしての模擬試験をそれなりに楽しむようになった。もはや模擬試験は模擬ではなく、ある面では真剣勝負になったのである!
この、模擬試験の対戦ゲーム化のおかげか、私にとって、高校3年生時点の受験勉強はさほどストレスフルなものとして記憶されていない。模擬試験のたびに仲間内でバトルを行い、放課後、図書館で勉強*1してからゲーセンに通うという日常は、ストレス対策とモチベーション維持の点で好ましいものだったと思う。この習慣はセンター試験の頃まで行われ、このバトルに参加していた面子全員が第一志望の大学に現役合格する形で幕を閉じた。
自分なりに楽しみを見出せていなければ、ゲーミフィケーションとは言えない
長年、ゲームを遊び続けてきた者の一人としては、こう思う。
「ゲームというのは義務であってはならず、自発的に楽しみが見つかるものであるべき。」。
誰かに押し付けられた瞬間、どれほど優れたゲームでも、それはもうゲームではなくなってしまう。対戦格闘ゲームにしても弾幕シューティングゲームにしても、自発的にスリルや爽快感を見出すぶんには素晴らしいかもしれないが、義務や使命の類になってしまえばとたんに苦痛となり、色褪せてしまうだろう。
この文章では、私が実際に経験した勉強のゲーミフィケーションを紹介したが、こういうのも、仲間内で楽しみを発見できたからこそゲーミフィケーションが成立したのであって、親や教師に強制されていたら興ざめもいいところだっただろう。ゲームと銘打つからには、誰かに押し付けられたものであってはならず、なんというか、救われてなければゲームとは言えない。勉強をどうゲーミフィケーションしても構わないと思うけれども、内から楽しみが感じられるものであって欲しい。
*1:対戦相手の顔が見える状況下のほうが、勉強は一段と捗るうえ、教える・教わるという行為を通してさらに理解が深まるという特典もついてきた