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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

『サマーウォーズ』の大家族は、ぜいたくな懐古趣味に過ぎないのか

コミュニケーション

 
 先日、サマーウォーズ見たら死にたくなったという記事をみて、アホらしいと一笑に付していたけど、実際に映画館で『サマーウォーズ』をみているうちに、笑って済ませられなくなってきたので、文章にまとめておこうと思う。
 
 リンク先の文章のように、“能力的に優れている人達の物語”というのも、羨ましがるポイントの一つかもしれない。しかし、それよりも私が羨ましく思ったのは、あの映画のなかで一貫している、血縁共同体内の承認と信頼のシステムとか、一族の理想とか、アイデンティティの牽引役としての年寄りとか、そういう描写のほうだ。
 
 

大家族は希少品、栄ばあちゃんも希少品

 
 『サマーウォーズ』は、大家族の素晴らしさを描いた作品だ。けれどもあの大家族、どうみても希少な贅沢品の類である。ああいう大家族を維持しようと思っても、今日日、そのための基盤があまりにも失われている。[都市郊外への進出] [核家族化] [個人の自由と利便性] の代償として、大家族が存続する基盤が失われ続けてきたのが、戦後の歴史の一面だと私は理解している。
 
 いわゆる核家族化*1が進行して久しい現在、あそこまでの血縁共同体が成立し続けるのは本当に難しい。特に、埼玉や滋賀などのベッドタウンを生まれ故郷にしている世代の人達に、帰るべき屋敷・集うべき一族があるだろうか。受験や就職をきっかけに都市部に流入してきた最初の世代の人達は、帰るべき屋敷・集うべき一族を思い出せるだろう。しかし、ベッドタウンの国道沿いで生まれ育った人達の場合は、思い出すべき“ふるさと”が無い*2。なにせ、既に大家族が無い家庭に生まれたのだから。祖父母に会う機会すら少なかった家庭で育っている場合などは、とりわけそうだろう。
 
 よしんば過去を思い出せるとしても、一族郎党が集って何かをやるような行事って、どれだけ残されているだろうか?十年以上昔に遡らないと、ああいう思い出が残っていないという人も多いんではないだろうか。冠婚葬祭の場合でさえも、現在では葬儀センターや結婚式場のスタッフがかなりのことをやってくれるし、それぞれの家庭の都合もあったりするので、一族が一丸となって何かを準備する・長時間を一族が一緒に過ごすというニュアンスは、昔ほどではない。
 
 そもそも、そういった冠婚葬祭などの行事に際して、一族をまとめあげ、コミュニケーションのハブ機能を果たせるような年寄り----劇中の栄ばあちゃんのような年寄り----が滅多に存在しない。昔は、地縁血縁をまとめあげる役割を年寄りが担っていた筈なのだが、そういう年寄りが全然いない。日本の高齢化は、認知症の年寄りを増やしたり、孤独な年寄りを増やしたりはしているが、地縁や血縁でつくられた共同体のハブの役割を果たすような年寄りを増やしているようにはみえない。里の守り手として独居している年寄り達も、過疎化や限界集落化のなかで、共同体ごと消滅しつつある。地縁や血縁のハブ機能の役割を奪われた年寄りは、一族の承認欲求やアイデンティティの担い手としての役割を果たせないし、また逆に、一族を通して年寄り自身が承認欲求やアイデンティティを充たすことも困難になる。あとは、認知症に怯えながら孤独な老後を生きるほかない。そういう意味では、栄ばあちゃんのような顛末を迎えられる年寄りは、幸せ者というほかないし、現代においてそうあるものでもない。
 
 また、住宅の造りの問題も『サマーウォーズ』的な風景を実現困難にしている。座敷に長いテーブルを並べることも、台所で大量の料理をつくることも、一族が泊まれるスペースを提供することも、昔の農家のような家があってはじめて成立する風景であって、スペースの広い家が残っていなければ出来ることではない。ああいう、【しがらみがあっても美味いメシを一緒に食えばok】的なシチュは、親族の絆を維持するうえで殆ど必須の場だと私は思うが、ああいう宴席には農家や屋敷のような広い空間が必要で、現代風の住宅では非常にやりにくい。
 
 こんな風に、現状を思い出しながら『サマーウォーズ』をみていると、ああいう血縁共同体を現代まで保っている一族というのは、きわめてラッキーというか、滅多にあるものじゃないよなぁという気がして、ちょっとうらやましくなる。年寄り〜若い衆〜子どもがアイデンティティや承認欲求を贈りあって生きていくというのは、子どもの自己愛の成熟やアイデンティティの確立に有利なだけでなく、年寄りが年寄りとしての尊厳を失わないまま死んでいくうえでもきわめて有利な形態だと思うが、これって実現が大変だよねーと嘆息せずにはいられないところがある。
 
 

「脱臭された血縁集団」としての陣内家

 
 それと、実際の血縁共同体(や地縁共同体)は、『サマーウォーズ』の陣内家に比べてドロドロしているのが常で、そこらへん、劇中では相当に脱臭されている点も意識しないわけにはいかない。助け合うのも親族だが、いがみ合うのも親族だし、血縁共同体が強固になりすぎれば排他的な集団に陥ることもある。陣内家の一族は、こうしたしがらみや排他性の問題を割と巧く回避しているようにみえるが、それは簡単なことではないし、栄ばあちゃんの見識や指導力による部分が多いだろう。現実には、ああいう傑出した一族のまとめ役が出てくることは稀だし、暴君や妄想的人物に引っかき回されるリスクは常にある。血縁共同体は巧く回れば最高だが、ドツボにはまると永遠の牢獄に化ける可能性を秘めている。知っている人は、『うみねこのなく頃に』の右代宮一族を想像してみて欲しい。一族郎党、全滅である。
 
 そうでなくても、一族同士の連携を維持するコストは小さくない。陣内家の場合は、長野県内に一族の多くが住んでいるようなのでまだ集まりやすいかもしれないが、首都圏から上京する夏希の両親のように、一族が全国に離散していれば集合のためのコストは無視できないレベルとなる。
 
 コストは移動の問題だけではない。長テーブルを並べての宴席にしても、ああいうのは、(ビールの注ぎ合いに端的に示されるような)気遣いや相互寛容の精神がなければ成立しない、なにげに高度なコミュニケーションの場であり、ローカルルールを熟知していないと疲れやすい場でもある。小さい頃から慣れていれば苦に感じないかもしれないが、嫁入りしてきた人達や(劇中の健二のような)新たに家に入ってくる人間にはラクではない。とりわけ一族意識が強い家の場合は、一歩間違えれば宴席が針の莚になりかねない。
 
 劇中の陣内家には、これらのコストやリスクや面倒臭さがあまり描かれていない。所々、それっぽい描写が無いわけではないにしても、サラッと流されている。「陣内家の描写は、血縁集団の臭みが脱臭されているなぁ」と感じずにはいられなかった。
 
 

じゃあ家族って時代遅れなの?要らないの?

 
 ここまで書くと、あんなのインチキだ、大家族なんて要らねぇ、とでも言いたいように聞こえるかもしれない。しかし私は、そうは思わない。多少美化していても構わないので、こういう形で肯定的に血縁共同体を描く作品が21世紀にあってもいいと思う。
 
 確かに血縁共同体は奢侈品になってしまったし、特有のコストやリスクも含んでいる。けれども、それが要らなくなったわけでも、期待されるべき機能が時代遅れになったわけでもない。人の動きの流動化や核家族化によって、血縁共同体は成立困難になってきてはいるけれど、血縁共同体が要らなくなったから数が減ってきた、と即断することはできない。
 
 何十年か前、地縁共同体や血縁共同体が濃厚すぎることによる弊害が優勢な時代があった。けれども、最近はたぶんその逆で、むしろ血縁共同体が希薄すぎることによる弊害が優勢な時代が続いていて、核家族化や都市化の軋みがあちこちに生じ、年寄りの孤独や子どもの心理的成熟を阻害するような状況が蔓延していると私は感じている。これは、どちらが良いとか悪いとかいう単純な話ではない。しかし、もし天秤の針が一方に傾きすぎているんだとしたら、ある程度の揺り戻しは必然的に起こるだろうし、だとすれば、21世紀に家族や血縁共同体を描くことには相応の意義があるんじゃないだろうか。
 
 はたして、『サマーウォーズ』に描かれたような大家族を、単なるノスタルジーと断じてしまって良いのか?少なくとも私は、家族というシステムが既に用無しになっている、という考えには、どうしても与することができないし、ホモ・サピエンスの奥底深いところに、血縁集団を思い出すような何かが眠っているという考えを捨てることもできない。*3例えば、今がピークのお盆の帰省ラッシュのことを考えてみてほしい。経済的にも体力的にも、帰省ラッシュに飛び込むのは傍目には馬鹿げている。それでもなお、多くの日本人が、渋滞にもラッシュにも負けずに故郷を目指すのである。単なる惰性だけで、家族というものへの特別な思いも無しに、あんな非効率な行動を続けるとは考えられない。
 
 
 もちろん、「農村に帰れ」とか無茶を言いたいわけではないし、血縁共同体や大家族はますます成立しにくくなっている。また、作中に描かれているように、インターネットによる新しいコミュニケーションも重要性を帯び始めている時代ではある。けれども、これ以上家族を解体しようにも解体できないところまで来ている現状のなかで、家族の果たしていた役割や、家族がなければ得られないものについて、思い返してみてもいい時期なんじゃないか。これから生まれてくる世代の為にも、これから老いていく自分達の為にも、家族のことを考え直す機会がもっと必要なんじゃないか。 素直にそういう気持ちになれる作品だったと思う。
 
 ちょうどお盆の帰省ラッシュの季節、ここはひとつ、里に帰って家族と一緒に『サマーウォーズ』というのもアリなんじゃないだろうか。バーチャル世界の描写が年配者にはキツめかもしれないけれども、全体としては家族みんなで娯楽映画として楽しみやすくも出来ていると思う。おすすめだ。
 
 
 [関連]:老人が尊敬される時代は終わった - シロクマの屑籠

*1:より正確には、「一族のもとから遠く離れるような核家族化」

*2:そういえば、あの長野県の描写には、国道が全然出てきていなかったのを思い出した

*3:ちなみに、大人はともかく、小さな子どもの心理的成熟には、核家族よりは血縁集団のほうが絶対に有利だとも思っている。家族の機能には様々なものがあるが、この、小さな子どもの心理的成熟という機能は、両親や血縁者以外の何かに頼ることが極めて困難だと信じてやまない。ひょっとしたら例外かもしれないのはイスラエルのキブツだが、あれも擬似血縁集団に近い。