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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

“効率至上主義”という非効率について

執着

 
 効率病にかかっていませんか? - 遥か彼方の彼方から
 
 リンク先のエントリをみて、尤もな事だなぁと思った。効率を重視するあまり、非効率と思われる選択肢を除外し、失敗や損失の可能性を極力回避する。十分以上の成果が得られると分かっている分野にだけ投資を振り向ける。この繰り返しに陥った挙句、いつまでも堂々巡り延々と繰り返す人というのは案外いる。この手の“効率至上主義”の成れの果てを、あなただって一度や二度みかけたことはあるに違いない。
 
 効率至上主義に憑り付かれた人は、基本的に同じところだけを往復し続ける。この手法は、自分が得意な分野、自分にとって既知のノウハウを繰り返して能率性をあげるには向いているし、現在の手持ちのノウハウの延長線上にあるようなスキルは遅かれ早かれ獲得出来るかもしれないが、現状をブレイクスルーするような新発見や新技術を身につけるには至りにくい。なぜなら、新発見や新技術を身につけること・新しいことにチャレンジしてみることは、“効率至上主義”的にみて、成果の期待値が全く分からないからだ。喩えるなら、ゲーム『大航海時代』のプレイヤーが、危険で期待値も分からないからという理由で地中海貿易に終始しているようなもので、新世界を発見することはかなわない*1
 

本当は、効率の追求はとても難しい。人智を超えている。

 
 しかし、本当に真面目に考えると、効率至上主義に基づいて自分の行動を決定する、というのは出鱈目に難しいなことの筈なのだ。特に、それを厳格に追い求めるのは相当に無茶だ。効率至上主義に耽る人の少なからぬ割合は、何故かその難しさ・困難さを素通りしたまま、自分自身の効率非効率について語り、そして「俺は効率の良いことしかやらない」などと無邪気なことを言う。その一方で、同じ路線を繰り返すことのリスクについては案外無頓着だったりするから恐ろしい。無邪気な自称効率至上主義者のなかには、例えば

  • 1.今、自分が繰り返している効率追求を続けることで、将来的に効率が下がるリスクについての計算が欠如。
  • 2.または、極端に短すぎる未来予測。二手三手先はおろか、一手先さえも予測しようとしないで、この瞬間の効率しか考えない事例も。
  • 3.ブレイクスルー開拓の為のトライアンドエラー・失敗・遠回りが、そのブレイクスルーの青写真に繋がる可能性を、効率計算に入れ忘れている。
    • そうでなければ、失敗や遠回りからは教訓を一切学ばない・学べないほど自分は愚かである、という諦念。

 
 1.2.3.のような特徴を持った者も少なくない。いずれに該当する場合も、その人の効率追求モデルはあまりにも単純すぎるというか、ある種、自分の類推能力に対して楽観的に過ぎる。ネットゲームのMob狩りならともかく、自分自身の人生において、そんなに簡単に効率なんてものが計算できるわけがないのに!加えて、
 

  • 4.自分の視界のなかの効率管理がすべて、であるかのような思い込み。

 
 が染み付いている人においては、どんな生活をおくっていようとも「俺は常に最適だ。これ以上の効率は出ないね!」と思い込むことがいよいよ可能になってくる。こうなるともう、殆ど自己欺瞞的思考停止に近い。効率追求を自分の神とすること自体は、そんなに悪いことではのないかもしれないが、あまりにも単純な方程式だけで「俺はいつでも最適効率!」と思い込むのはとても恐ろしいことだ。まして、自分自身の行く末や軸足をトライアンドエラーで固めていく思春期の段階で、この“単純すぎる効率至上主義”に憑り付かれ、トライアンドエラーを放棄して(目先の)確実な効率性だけに終始した生活を続けることが、“長い目でみて本当に効率的”なのかは、甚だ疑問と言わざるを得ない。案外、若い頃の失敗経験が、歳をとって生きてくることだってある筈なのに、それを効率計算に全く組み込んでいないというのは、効率追求的にそれってどうなのよ。または、失敗に至るまでに発見した風景や人物、などを考慮に入れていないというのはどうなのよ。自分の人生のなかで、本当にストイックな効率追求を目指すというのなら、本来、そういった諸ファクターに目配りしないわけにはいかないと思うのだが…。
 
 実際は、自分の身に降りかかる塞翁が馬を全て知り尽くすのは不可能で、効率性を把握し尽くすことは人智を超えているはずなのだ。そのはずなのに、「俺は効率的だ」と言い切ってしまうというのは、絶対に、どこかに盲点がある。そういう人は、実際にはあまり効率的に振舞えないだろうし、その言い切りを詐欺師やライフハッカーの類に狙われる危険性も大きいのではないか。
 
 もちろん、個々の場面や個々の作業のなかで効率を追及することは有益だろうし、見積もるなと言いたいわけではない。ただ、自分の効率追求の算盤勘定は、常に不確かな近似式でしかないという前提はあったほうが良いだろうし、まして絶対のものであるかのように取り扱うのはヤバい、という認識はあって良いような気がする。私達は全能の神ではないのだから、自分の脳味噌が計算できる効率なんてものは、どうせ限定的な、たかが知れたものでしかない。そして自分が効率を計算出来ないところにも、常に、大事な発見や大切な出会いの可能性は埋もれている。だから、自分自身の目に見える効率計算を完全に信じきって、全てを委ねきってはいけない。そんなことをすれば、自分自身の効率計算式の単純さや拙劣さに見合っただけの非効率に見舞われるだろう。あまりにも粗悪な計算式を“信仰”している場合、効率計算などしないほうがマシ、ということだってあるかもしれない。
 
 部屋の掃除の手順ぐらいになら効率計算も簡単だが、自分の人生ぐらいの長期スパンになれば、そうはいかない。それどころか、一年後、二年後のことさえ予測出来ないのが人間なんだから、自分の効率計算も、その程度のものと割り切っておきたい。そうでないと、“残機が幾つあっても”足りそうにない。
 
 

 

*1:ちなみに、実際のゲーム『大航海時代online』には、そんな効率至上主義な人でも安心の、効率wikiが作り出されている。最近のオンラインゲームの多くは、効率重視なプレイに耽る為の情報が大体整備されるようになっているので、効率“厨”な人も安心です。→http://www11.atwiki.jp/dol/