シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

いい加減、「甘え」と「努力」を対立項だと勘違いするのはやめようよ

 ちょっと、以下のグーグル検索の結果を見て欲しい。
 努力 甘える - Google 検索
 
 この検索結果からは、「甘える」と「努力」を対立項のように捉えている文章が沢山見つかる。かなり嘆かわしく、短慮のほかないと思う。しかし実際、多くの人が「甘えること」と「努力すること」を対義語のように用い、対立する概念のように考えているのが現状なのだろう。即ち、甘えることの重要性を説く人は努力を否定し、努力を強調する人は甘えることを非難する、という図式である。しかしこれは道理に合わない考え方ではないだろうか
 
 「甘える」能力を馬鹿にしてはならない。適切に甘えることが出来る人は強い。自分では出来ないことも、省力化したいことも、他人に解決してもらえる。そして甘えるスキルが巧みな人は大抵、相手をむしろ気分良くしながら助けて貰ったりするのだ。「甘え上手」ということは間違いなくコミュニケーション上の大きなアドバンテージであり、娑婆世界においては時に脅威にすらなり得る能力だ。甘え上手を侮ってはならない。しかも甘え上手な人は、他人との会話のなかでストレスを中和するにも長けている。
 
 「努力」の重要性については言うまでもない。努力は殆どのアチーブメントにおける十分条件ではないが必要条件であり、才能や素養を有した人が開花するのであっても避けて通ることの出来ない関門だ。努力を通して研ぎ澄まさなければ出来ないことというのは沢山あるし、努力に慣れることは人をタフにもする。努力することに慣れた人なら、新しい試練に対してもすぐに諦めず、ゆっくり腰を据えて取り組むことが出来る。
 
 世の中には、このどちらか一方だけしか持たない人や、どちらか一方だけを美徳としどちらか一方を悪徳とみなす人が絶えないわけだが、しかし、「甘え」と「努力」は本来、バイクの両輪のようなもの*1ではないだろうか。「甘え一辺倒」の人や「努力一辺倒」の人というのは言ってみれば一輪車のようなもので、バランスを崩すと転倒しやすくなってしまう。世の中には、甘えて他人任せにするわけにいかない事も沢山あるし、自分一人の努力だけでは煮詰まるだけの事も沢山ある。ゆえに「甘え」か「努力」のどちらか一方に特化した社会適応を形成した人は、自分の持ち合わせていないほうの能力を要する局面を切り抜けることが出来ずに、立ち往生すると考えられる。努力だけの人も、甘えだけの人も、適応の幅は広くない。この手の、「甘え一辺倒」「努力一辺倒」の人が、偏った適応の果てに人生のどこかで躓く→精神科の世話になるけれども一旦形成された適応形態の変更に手間暇を要する というケースは全然珍しくない。
 

だったら「甘え」と「努力」を対立させないで揃えてしまえばいい

 じゃあどうすれば良いのか?答えは決まっている。アンバランスな一輪車を目指さず、他力本願の「甘え」と自力本願の「努力」のスイッチタイプになっちゃえばいいのだ。甘えに特化した人・努力に特化した人に比べれば「高レベル甘え」「高レベル努力」に到達できないかもしれないが、「智慧」によって適切なスイッチングが為されるなら汎用性の高い適応を達成出来る、と私は考える。確かに、「甘え」と「努力」はどちらか一辺倒に傾きやすそうな素養だとは思う。だが、「甘え」か「努力」どちらか一方だけの素養で渡っていけるほどに人生行路が単純で平坦なものとは到底思えないわけで。それよりは、両方を状況に分けて適切にスイッチング出来るような意識づけのほうが、一凡人としての私達は転倒せずに歩いていけるのではないか、と考える次第である。
 
 こういう私の考えに則る限りにおいて、「甘え」と「努力」を対立項とし、あまつさえ一極集中するよう一凡人に勧めるのは近視眼的な、相当に愚かなことにしかみえないわけである*2。勿論、ある局面/ある関係において、どちらかの重要性を強調しなければならない場面は少なくない。だが「努力」を美徳とし「甘え」を悪徳として対立項に仕立て上げるような、根底からどちらか一極を否定してかかるような価値観を植え付けられた人はたまったものではない。そのような価値観を植え付ける奴は、ろくでなしか、無知か、無知なろくでなしのどれかではないかと思う。人は、少なくとも凡人は、「甘え」だけでも「努力」だけでも歪な適応しか達成出来ない。いい加減、「甘え」と「努力」は対立項のように勘違いするのはやめよう。そして、そういう勘違いをばら蒔いている人はそろそろdisられていいんじゃないか。もし私が“努力か甘えか?”と年少者に質問されたら、「甘え」と「努力」を相反するものとせず、両方を出来るだけ身につけること・そして適切にスイッチングすることが望ましい、と答える。またそう答えるしかない。
 

*1:バイクに喩えるなら、「智慧」というハンドルや「身体」というエンジンも必要なのは言うまでもない。他にも色々と細々したものが必要だろう

*2:極めて稀な才能を伸ばしたいなら話は別だが、そのような希有な才能を開花させたとしても、やはり当人の適応のバランスは偏ることを避けられない。真に偉大で幸運な人間でない限りは、才能の重みと適応の偏りによっていつか転倒するリスクを抱えることになる。