シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

ただ、蜻蛉の羽

 
 数年前の僕もまた、自分の背中に白い羽が生えているんだと思いたがる思春期男性のひとりだった。自分はよいこでいたい。皆と常に生産的でありたい。悪を退け道徳的な自分でいたい。他人に迷惑をかけず、知人と慈しみあい、(人間的に)高く気高い未踏の地へと飛翔したい。そんな風に考えていた時期が俺にもありました。
 
 そんな数年前の僕に、冷や水を浴びせるいけすかない中年男性がいた。その、仕事関係のなかでは先輩に該当するおっさんは、僕のこうした考えがあまり好みではないらしく、しばしば以下のような主旨の事を言っていたと記憶している。
 

 白を求めるということは、黒から逃げるということじゃないのか。お前が白いなら、黒から逃げる必要は無いし、さらに目指すべき白もない。白がいつまでも白っていうなら、それは混じりけの無い白なんだろうから。お前が白を目指しているということは、お前は既に灰色という事だろ?お前のなかの黒は、捨てるものでも隠すものでもなく、お前自身じゃないのか?白い自分を目指すというのは、どうあれ、そういう事なんじゃないのか?
 
 やがて、わしの言っていることがお前にも分かる日が来るだろう。痛みを伴ってな。

 あれから数年。
 
 僕は自分が黒だと思い知った…じゃなくて、白も黒も無く自分の背中には蜻蛉の羽*1が生えているという事を知るに至った。文字通り痛感することとなった。蜻蛉の羽を白黒デジカメで撮影すれば、きっと白と黒の混じり合った画像が生まれてくるだろうが、それはもはや大した問題ではない*2。ただ、この事を知るにあたって、数年の年月とそれなりの対価を必要としたことには幾らかの後悔の念がある。あの時、あのおっさんの言う事を理解するのが早ければ…自分の中に潜む汚穢に蓋をしたがっていただけだと早く気付いていたなら…。覆水盆に返らず。しかし、盆がひっくり返らなければ僕は今も蜃気楼を追いかけていたのかもしれない。気づき得ただけでも、幸いだと思わなければならないし、あの時あの(臨床を知り尽くしてはいるけれども幾分嫌味な)おっさんと出会った僥倖を感謝しなければならない。
 
 蜻蛉の羽は、どこにでも私を連れて行ってくれる。田圃にも、渓谷にも、教会にも、市場にも、蜻蛉の羽は飛んでいく。そこに蜻蛉の餌がある限り、羽は娑婆のありとあらゆる場所に僕を運んでいく。
 

*1:と、おぼしき何か。ともかく節足動物の羽だと思う

*2:白、黒、の評価尺度を持っている人にとっては重要な適応的意義を孕んだテーマに違いないが