シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

「議論してる暇があったら佳い女に惚けてりゃいいのに」と思ってしまう。

 
 セックス。女らしさ。エロ。執着。欲望。
 ごく単純に、それらを私は女性に期待し、さかりのついた猫のように追い求める。
 
 煽情的なスカート・くびれたウエスト・シャンプーの匂い・ちょっと突き出た顎…これら、セクシャリティとジェンダーがごった煮になっているであろう“女性らしさ”なる混合物に、私は強く惹かれている。私が追い求める女性は“女性らしい女性”であり“女性的な魅力に溢れた女性”だ。今、私が惹かれている女性の魅力が生物学的要因に依るものなのか文化的要因に依るものなのか*1は、私にとってどうでも良いことだし、女性に目のない欲深な男性諸君の多くにも割とどうでも良いことなのだろう。佳い女は、どうあれ佳い女だ。
 
 私自身の適応や欲求充足にとって重要なのは、ジェンダーがどうとかセクシャリティがどうという峻別ではない。ジェンダー由来かセクシャリティ由来かに関わらず、あるいは拘束か自由かといった命題に関わらず、ただ、目の前の異性が“異性らしく魅力的に映るかどうか”という問題だ。また逆に、意中の異性を射止めようと思った時(や、意中の異性と適切な関係を維持する時)には、自分自身が拘束されているかや自由かなどそっちのけで、男としてどう異性に魅力をディスプレイするのかだけが問われることになる。私にとって、どれがジェンダーでどれが拘束でどれが自由かなんてことは、いかに意中の異性と懇ろな関係でいられるかに比べればミジンコ以下の価値しか無い。私は男性性というジェンダーに拘束されていても構わないから異性にアピールしたいし、私は女性性というジェンダーで異性を縛り付けてでも、魅力的な異性をサーチアンドデストロイしようとする。色欲の芳しさに耐えられずについつい惹かれてしまう、多くの紳士淑女諸君も同様のことだろう。
  
 こんな私にとって、ジェンダーを議論することは日常レベルの私自身の適応には殆どメリットをもたらさない*2。だからミクロな個人としての私は、ジェンダー論議に深く参入しないし、あまり知りたいという欲求に駆られることもない。ところが世の中には、セックスもせず欲情もせず、ジェンダーを熱心に議論している人達がいる。それも結構な数がいるようだ。
 
 なぜ、彼ら彼女らはジェンダーに拘って白熱した議論を続けていられるのだろうか?佳い女だったら何でもいいじゃんと思う私にとって、一見すると彼らの行動選択は不可思議で非生産的なものにみえる。“そんな議論に心血を注いでいる暇があったら、もっと異性の魅力を追いかけ回せばいいのに”とか、“女の魅力からジェンダーを除去して、何が面白いんだろ?素直に欲情してイカれちまえばいいじゃん”とか考えてしまう。ジェンダーを議論したところで印税が入ってくるわけでもないのに、異性への恋慕がよりドラマチックになるわけでもないのに…不思議だ。
 
 でも、どんな不思議なことにも理由なり原因なりがある筈だ。楽しい異性の魅力にぞっこんになるよりも、難しいタームを駆使してジェンダー議論をやってたほうが適応を促進したり快楽を促進したりする、実は身も蓋もない理由が隠れている筈だ。僕にはまだその理由がわからないけれど、彼らには彼らなりの事情があってわざわざジェンダーを云々しているんだろうな、とは類推しておこう。ん?待てよ?この不思議の要因についてこっそり探りを入れて、知的好奇心なり優越感なりを堪能するのも悪くないなぁ。異性の魅力にはまりこむ以上に邪悪な欲望がムラムラしてきた時に、(私のベタベタ異性欲望からみて)不思議にもみえるジェンダー論者達の行動について考えたり探ったりしてみよう。そういう下衆な勘ぐりは、勃起しないかもしれないにしても、ささやかな娯楽や快楽を私に提供してくれるかもしれないと期待して。
 

*1:実際には、これらを明確に峻別することは不可能なのだろう、とは思う。

*2:例外は進化生物学的・行動遺伝学的議論を行う際に文化的バイアスを除去する必要がある時か