シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「平安」や「平穏」のかけがえなさ

 
 

 
 それにしても、「平安」や「平穏」ってのは難しい。
 
 世界を見渡せば、あっちもこっちも不穏な空気が流れている。ある時期・ある時代・ある地域の平和な情勢とは、なんとありがたく、難しいものだったのだろう! 数年程度の“落ち着いた情勢”とは、かりそめの、幾人もの営みの結果として成立した、危うい均衡上に成り立ったものだった。
 
 個人にとっても「平安」や「平穏」を長く続けるのはラクじゃない。
 
 卑近なところでは、生命保険料の支払い。
 
 生命保険料は、三十代のある時点までは実に少ない額だった。ところが最近になって金額がドカンと上がった。
 
 「歳を取ると保険料が上がる」は知識としては知っていたけれども、いざ直面してみると実感がまったく違う。生命保険料があがったということは、健康という名の命の均衡を保つための難易度がそれだけ高くなった、ということだろう。私は、平穏な生活の屋台骨をメンテナンスするためのコストやリスクが高まっていることを、一枚の請求書によって思い知った。
 
 結婚生活にしても、一年や二年程度、平安や平穏を保つのはそれほど難しくないかもしれない。
 
 しかし、三年五年と経ってくると、長く続けなければ見えてこないような、意想外な効果や副作用が現れてきて難しくなっていく。穏やかな結婚生活を三年続ける難易度と、十年続ける難易度はだいぶ違うし、たぶん方法も違っている。二十年三十年と続けるなら尚更だろう。
 
 仕事だってそうだ。同じ職場に勤めているなら同じ職場なりに、転職や転勤が多いなら多いなりに、平穏な仕事環境・平穏なワークライフを維持するのはとても難しい。業務上のハプニング、人間関係の軋轢、いろいろな問題をクリアしてかろうじて、平安や平穏は維持される。いや、どこの業種でもそうだけど、平安や平穏が続くなんてことは珍しくて、せいぜい「なるべく平安に」「なるべく平穏に」ぐらいを目指すのが関の山なんだけど。
 
 趣味の世界ですら、それが言える。いつまでもゲームを同じペースで遊び続けること・いつまでも同人誌活動に参加し続けることは、そんなに簡単ではない。ブログや動画配信だってそうだろう。「のんびりマッタリやるのは簡単だ」と言う意見は、まあ、プロ稼業よりは簡単かもしれないけれども、趣味の二十年選手や三十年選手ともなれば、さまざまなライフイベントや危難を乗り越えてなお、趣味生活を続けているのだから、たいしたものだと思うし、私もあやかりたいと思う。
 
 それに、いくら変わり映えのしない暮らしを目指すと言っても、私達は年を取っていき、状況は少しずつ変わっていくのだから、「何も変えなければ平安が得られる」わけではない。
 
 むしろ逆で、個人生活の平安や平穏を保とうと思ったら、昇進や結婚や子育てといったライフイベントにあわせて自分自身のスタイルを微妙に変化させていかなければならない。もし、自分の社会的立場や周辺環境が変化していくのに、自分自身のライフスタイルを依怙地に保とうとしたら――自分と周りの人達との相対座標はだんだんズレてしまわざるを得ず、それが新たな摩擦や不穏の火種になっていく。だから本当に平安や平穏を保とうと願う人は、自他の変化にきちんと注意を払いながら、大河の流れのような時間的変化に身を任せ、折り合いをつけながら持続させるべきものを持続させなければならない。
 
 陳腐な表現になるが、平安な時間・平穏な時間を長く体感するためには「変えられるものを変える勇気と、変えられないものを受け入れる勇気」、どちらも必要なのだろうと思う。変えられるものを変えていかなければ平安や平穏は失われるし、自分では変更不能なものを受け入れる順応力を欠いていても、やはり平安や平穏は保ちがたいから。
 
 してみれば、いわゆる平凡なサラリーマンであれ、作家や漫画家やタレント稼業であれ、「いつものペースでずっと働き続けているようにみえる人」というのはみんな凄いと思う。もちろん、彼らの個人生活のうちには色々な波風や困難があるのだろう。年だって取っていく。それでも、変えなければならないものを変え、変えることのできないものに順応することによって、彼らはある程度の平安や平穏を維持し、外観上は「いつものペースでずっと働き続けている人」をキープしている。実のところ、彼らは相当に高度なことを達成しているのではないか。
 
 

  • 「平安」「平穏」がもたらしてくれる恩恵

 
 じゃあ、そこまで苦労して平安や平穏を保ってどうするのか。
 
 やりようは沢山ある……というより、保てなければできなくなってしまうことの何と多いことか!
 
 たとえば、個人生活の屋台骨にあたる健康を失えば、あらゆる活動が停滞し、へたをすれば死んでしまうだろう。健康という次元の平安や平穏を放置していれば、早晩、何もできなくなってしまう。
 
 仕事や趣味にしたってそうで、不穏な状況が続いていれば、何かをまとめて研究するだとか、ゆっくりと腰を落ち着けて考えるだとか、そういった精神的・時間的な余裕が失われてしまう。時間や精神力を継続的に費やさなければならないトライアルを成功させるためには生活全般が落ち着いていたほうが良いはずで、内紛やお家騒動のたぐいに気を取られている時には、どうしたって生産力が落ちてしまう。
 
 子育てにしても、親世代が平安や平穏を維持している家庭と不穏きわまりない家庭、どちらのほうが子育てがこじれにくいだろうか? 考えるまでもない。
 
 だから、ごく一部の創作活動を例外として、平安や平穏は、何かを育てる・何かを胚胎する際には絶対あったほうが良いものだ。数時間や数日程度で達成できることなら別に構わないかもしれないが、年単位の歳月を必要とする活動や目標を胸に抱いている人は、平安や平穏を維持するためのメンテナンスコストを無視してはいけない。足元がグラグラしていては、ちょっとした才能など簡単に相殺されてしまうだろう。
 
 平安や平穏はかけがえがない。変わり映えがしないから価値が無いと思ってもいけない。当たり前のように享受できるものだと勘違いしてもいけない。世の中に、あるいは個人生活に、今、平安や平穏があるとしても、努めて維持しなければたやすく失われてしまうだろう。あぐらをかかず、大切にしたほうがいい。
 

エセオタクって言葉、好きになれないなぁ

 
若者の間に「エセオタク」が激増しているワケ | さとり世代は日本を救うか? | 東洋経済オンライン | 新世代リーダーのためのビジネスサイト
 
 エセオタク、ねぇ……。
 
 博報堂の原田曜平さんの耳目を騒がせるぐらいには、エセっぽい自称オタクが増えているのか……と改めて思った。
 
 しかし、なんだか了見の狭い話ではある。
 
 リンク先を読む限り、オタクを自称するからには「詳しくなければならない」「ディープでなければならない」といった暗黙知があるかのようだ。はてなブックマーク上のコメントを眺めても、そのような意見がみられる。じゃああれか、詳しくない人・ディープじゃない人・濃くない人はオタクを名乗るな、そいつはエセオタクかオタクモドキだ、と言いたいわけだろうか。
 
 そういう気持ちもわからなくはない。見知ったアニメ数百本、万巻のライトノベルを積み上げ、ゲーム歴数十年……といったお歴々からみれば、促成栽培のごとき自称オタクなど、いかにも胡散臭い存在に違いない。
 
 けれども、そうやってカジュアルにオタクを名乗るような人々が流入してきたからこそ、オタク方面のサブカルチャーはここまで繁盛してきたのではなかったか。
 
 

  • 溶けてなくなったも同然な“オタク”という語彙

 
 私も、先日、ある集まりで、
 
 「好きなアニメは何ですか?」
 「『ワンピース』と『フェアリーテイル』です。」
 「へぇ、オタクだねぇ」
 「えへへ」
 
 という会話を間近に聞いてビックリ仰天したことがあった。
  
 ちょっとアニメを齧っている人なら、「好きなアニメが『ワンピース』と『フェアリーテイル』」からオタクという言葉を想像するまい。が、こういう会話を目の当りにする程度には、オタクって言葉は薄まったのだな……と改めて驚いた。
  
 少数派のサブカルチャーだったオタクが、ポピュラーなサブカルチャーとして裾野を広げ、と同時に、オタクとしてのスタイルやアイデンティティの輪郭が融解した結果がこれなのだと思う。
 
 90年代の頃、私は頻繁に「濃いオタク」「薄いオタク」という言葉を耳にした。濃いオタクがちゃんとしたオタクで、薄いオタクはダメなオタク、というやつである。そういった意識がある程度までコンセンサスになっていた時代であり、その裏返しとして、「一般人」という言葉がオタク同士の会話に頻繁に登場していたと記憶している。
 
 それが、00年代の中盤~後半にかけて一気にライト化・カジュアル化していった。
 
 [関連]:「今、そこにあるオタクの危機」 第1回
 [関連]:誕生でも発見でもなく、越境が始まったんだと思う - 未来私考
 [関連]:若いライトオタクの流入と、中年オタクの難民化 - シロクマの屑籠
 
 かつて、オタク的な表象やコンテンツとみなされていた文物が、コンビニやショッピングモールに陳列されるようになった――と同時に、オタクという人種、オタクというライフスタイル、オタクというアイデンティティもまた、ライト化・カジュアル化し、サブカルチャーとしてのまとまりも希釈されていった。
 
 リンク先で原田曜平さんは、

 少し前まで「オタク」と言えば、少しマイナスイメージでくくられる存在だった。しかし現在では、自分がオタクであることを主張する芸能人やモデルなどの存在が、社会の「オタク」へのイメージを大きく変えた。今や「オタク」は立派な個性のひとつなのだ。

 と書いているが、後半は違うと思う。
 
 もはや、オタクという言葉に個性やアイデンティティを仮託することは難しい。それこそ、エセオタクなどと揶揄されるようなライト層においてさえそうだ。今はもう、00年代ではないのだから。
 
 だってそうだろう?
 これだけたくさんの人がライトノベル*1を読み、深夜アニメを眺め、通勤電車でゲームをいじっている状況のなかで、「私はオタクです」と言ってみたところで、いったい何程の個性が得られると言うのか? 『ワンピース』や『ドラゴンクエスト』や『ソードアートオンライン』で獲得できる個性とは、コンビニエンスストアに並んでいるような没個性以外の何者でもない。
 

融解するオタク・サブカル・ヤンキー  ファスト風土適応論

融解するオタク・サブカル・ヤンキー ファスト風土適応論

 
 拙著に詳しく書いたが、「オタク的なコンテンツを消費しているから」「オタクを自称しているから」個性やアイデンティティが得られる時代は終わった。もし、まっとうな意味でオタクとしての個性やアイデンティティを獲得したいなら、融解してしまったオタクという言葉にもたれかかるのではなく、求道的に趣味を究めるなり、生涯の趣味として愛好するなり、実践を積み重ねるしかないだろう、と思う。
 
 状況がグルッと一周して、原義の「おたく」や「オタク」に近いライフスタイルでなければオタク-アイデンティティが手に入らない時代になったと言えるかもしれない。
 
 

  • だとしても、エセオタクとか言うのは違うんじゃないか

 
 だとしても、私はエセオタクだとか、オタクモドキだとかいった言葉は、あまり流行って欲しく無いな、と思う。
 
 なぜなら、趣味の道に入っていく人は皆、最初は一年生で、ベテランや求道者からみればエセだったりモドキだったりヒヨッコだったりするからだ。経験豊かなオタク達が、ハシャギ気味にオタクを名乗っているビギナーを難詰するのは、ちょっとまずい気がするし、それが空気を読まないものであれば、それこそ「キモオタの所業」にならざるを得ない。まあ、そうしたほうが選民意識をくすぐるには好都合なのはわかるけれども、カジュアルな入口をバッシングしたり小馬鹿にしたりするジャンルの未来は暗い。
 
 「若いの叱るな、来た道だ。年寄り笑うな、行く道だ。」
 
 私は、なるべくなら、カジュアルなビギナーには暖かい目を向けたいと思う。そしてライトオタクやオタクビギナーといった言葉を使うことはあっても、エセオタク、という表現はできるだけ使わずに済ませたいと思う。なぜなら、かつて「薄いオタ」であり、「ぬるオタ」であった頃の私は、先輩達からそのように扱ってもらいたかったからだ。薄いオタクを嘲笑するような振る舞いを、私はしたくない。
 

*1:や、ライトノベル近縁の読み物