シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

コミュニケーションのプロトコルを「茶番」って呼ぶのは、身に付けてからにしましょうね

syakkin-dama.hatenablog.com
 
 世の中には、上記リンク先で「茶番」と言われているような場面が尽きません。
 
 その典型が就活面接ですが、似たような「茶番」は、仕事に就いた後もずっと人生についてまわります。
 
 必要な時に、大きくハッキリした声を出せること。
 嘘ではないが本音どおりでもない「夢」や「目標」を語ること。
 無意味に思える指示にも、「わかりました」と答えること。
 
 こうした「茶番」に対し、はてなブックマークには「未開民族の儀礼や慣習に似ている」って書いている人もいます。ですが、それを否定的にでなく、肯定的に捉えるべきだと私は思いました。
 
 もし部族Aで、会った者同士が頭を下げる慣習があるとわかっているなら、それを身に付けておいたほうが部族Aではコミュニケーションしやすいでしょう。その慣習を突っぱねたら、無用な誤解や無礼を招くかもしれません。
 
 同じことは、相手が部族Bや部族Cの時にも言えます。いや、先進国でも事情は同じでしょうし、宇宙人とコミュニケーションする時も同じでしょう。
 
 どの部族、どの文化圏にも、そこで重視され、通用するコミュニケーションのプロトコル、様式が存在するのですから、上手くコミュニケーションしたい人は、それらを知って身に付けるのが望ましいはず。それらを身に付けずに軽蔑してばかりでは、そのぶん、コミュニケーションに失敗しやすくなるでしょう。
 
 コミュニケーションにまつわる風習やプロトコルは、無意味なものではありません。それが通用する人々の間で円滑にコミュニケーションできるようにするための、共通の決め事なんですよね。
 
 冒頭で借金玉さんが仰っている「茶番」も、これとまったく同じだと思うのです。日本文化圏、特に日本のホワイトカラー文化圏でコミュニケ―ションしていくための、基本的なプロトコルが就活では問われているのだと思います。もちろん、昨今の就活状況は「やりすぎ」の域に突入しているように聞こえますし、プロトコル以外の部分もきちんとチェックされているのだと思いますが。
 
 こういう、コミュニケーションにまつわる風習やプロトコルって、就活になって唐突に姿をみせるわけではありません。学校の入学式、卒業式、運動会、文化祭、参観日、さまざまな場所で、さまざまに姿をみせるわけです。ときには生徒指導のようなかたちで伝授され、ときには先生や親が集まる場でお手本を見ることもあったはずです。
 
 つべこべ言っても、学校ってのはホワイトカラーな人間を再生産する場ですからね。
 
 テレビや新聞で、やたらとキラキラした学生のスピーチを見かけることがありますが、あれだって「茶番」といえば「茶番」ですね。「茶番」というより「盛っている」という表現のほうが妥当かもしれませんが。でも、メディアに向かってああいうことが言えているのは、コミュニケーションのプロトコルをキチンと守れているってことだと思いますし、あれはあれで社会適応のスキルの発露と言えます。

 ああいった「茶番」やプロトコルによって失われてしまうもの・隠蔽されてしまうものがあるのも事実でしょう。青臭い若者なら、「ありのままじゃない」「嘘くさい」とか言い出す人もいるかもしれません。正直に言うと、私にもそういう感覚は残っています。
 
 でも、逆に考えると、「茶番」すなわちコミュニケ―ションのプロトコルを守ることによって、自分自身の内心のゴチャゴチャしたところを丸出しにすることなく、社会的に適切な表現にモディファイできているってことでもあるんです。それって、便利なことではないでしょうか。
 
 

「茶番に慣れていない」=「コミュニケーションに慣れていない」

 
 就活のような、「茶番」をやるべき時にやれない人は、「コミュニケーションする意志と能力が足りていない」とみなされるかもしれません。
 
 だって、日本じゅうで採用されているコミュニケーションのプロトコルなのに、就活という重要場面ですらそれが実行できないってことは、「ははあ、この人は、コミュニケーションする意志が無いか、コミュニケーションする能力が無いか、どちらかなんだろうなぁ」と思われても仕方ないとは思うんです。
  
 さきほど述べたように、こうしたコミュニケーションのプロトコルは、就活の時期に唐突に現れるわけではありません。学生時代から繰り返し学ぶ機会があったはずです。「大きな声で返事をしなさい」などは、学校の先生、特に、生徒指導の先生あたりが耳にタコができるほど言っていたはずじゃないですか。
 
 他方で、体育会系の人達などは、生徒指導の先生には忠実でなくとも、先輩-後輩の関係をとおしてプロトコルを叩き込まれます。彼らは、自分のアタマで考えて「茶番」を身に付けたのではなく、先輩の言うとおりに「茶番」を強制インストールしただけなのかもしれませんが、結局、世渡りがうまいのは後者です。
 
 「下手な考え休むに似たり」といいますか、自分のアタマで考えて「茶番」は要らないと判断した人達は、就活に限らず、コミュニケーションのあらゆる場面で損をし続けるのでしょう。プロトコルの不実行によって負うことになるコミュニケーションの失敗確率が、-3%程度のペナルティだったとしても、何年も、何十年も続けば、計り知れない損失です。人生と社会適応に大きな影を落とすでしょう。このあたりは、オンラインゲームやソーシャルゲームをやり込んでいる人なら実感できるんじゃないでしょうか。
 
 

「茶番」スイッチをon-offにできる人間が最強

 
 ちなみに、芥川龍之介は『侏儒の言葉』のなかでこんな箴言を言っています。
 

侏儒の言葉・文芸的な、余りに文芸的な (岩波文庫)

侏儒の言葉・文芸的な、余りに文芸的な (岩波文庫)

 

 最も賢い処世術は社会的因襲を軽蔑しながら、しかも社会的因襲と矛盾せぬ生活をすることである。
 芥川龍之介『侏儒の言葉』より

 ここまで述べてきた「茶番」=コミュニケーションのプロトコルとは、まさに社会的因襲にほかなりません。
 
 この箴言を私なりに解釈すると、“「茶番」をこなしながらも、それに呑まれず、自分自身は醒めていなさい”って感じになります。
 
 ただ、冒頭リンク先で借金玉さんがおっしゃっているように、「茶番」に対してシニカルになりすぎると、それが態度に出てしまってトラブルの元になるので、実際には、「茶番」モードとシニカルモードを on-off できるのがベストだと思います。
 
 コミュニケーションのプロトコルは便利ですが、しょせん、因襲でしかありません。万有引力の法則などに比べれば、揺らぎやすいものです。本当の本当に必要な場面では、あえて破ったほうが良いこともあるかもしれません。だから「茶番」を絶対視してしまうのも、それはそれで融通のきかない生き方です。
 
 まあしかし、コミュニケーションの決め事やプロトコルを「茶番」と呼んで軽蔑するのは、そのあたりの切り替えがスムーズにできるようになってからであるべきで、ロクにできないまま放置しておくのは、長い目でみて損の多い生き方だと思います。
 
 コミュニケーションは、剥き出しの真実や純粋な心がぶつかり合うのでなく、風習とか因襲にコーティングされた、プロトコルのなかで進んでいくものです。これは、仕事場面だけでなく、恋愛や友人関係についても言えることです。そういったプロトコルによって助かっている部分もあるし、それで捉えにくくなっている部分もありますが、とにかく、そういうものとして、適応していくっきゃないよね、と私は思います。
 

全国書店さまにて、『認められたい』フリーペーパーを配布しております

 
 『認められたい』、本日発売です。Amazonではたちまち売り切れてしまい、現在は、購入できない状態となっております(追記:入荷しました!)。つきましては、他のネット通販系か、お近くの本屋さんにアタックしてみてください。
  
 なお、一部の書店さまで、「あとがきのあとがき」という特典冊子(追記:無料で置いてあるフリーペーパーの扱いだそうです。そのかわり、なくなり次第終了です)を配布しております。『認められたい』の執筆には間に合わなかった、2016年末~2017年の動向を踏まえて、これからの承認欲求と所属欲求のゆくえについて書き足しました。
 
 なんていうんですか、私が想定していた以上のスピードで、承認欲求ベースから所属欲求ベースに振り子の針が傾いているようにみえるんですよ。たぶん、承認欲求が突出していた時代は2010年以前に通り過ぎて、現在は、承認欲求と所属欲求が均衡する方向に向かっていると私は感じています。00年代と比べると、自分の承認欲求しか眼中にない若者って、もうそんなにいないんじゃないでしょうか。
 
 『認められたい=承認欲求と所属欲求』って構成にして本当に良かった! もし、承認欲求のことしか書かなかったら、この本は発売した瞬間に時代遅れになっていたでしょう。
 
 ちなみに、このペーパーの内容は「このはてなの片隅に」というオフ会でペラペラ喋ったことにかなり近いので、オフ会に参加された方には馴染み深いものだと思います。ですが、そうでない方は、『認められたい』本体とあわせてお読みいただくと楽しめるんじゃないかなぁ、と思います。
 
 
 
 取り扱っている書店さまは、以下のとおりです。
 



 
【配布書店さま一覧・敬称略】
 
北海道
ヴィレッジヴァンガード イオンモール札幌発寒店

青森県
紀伊國屋書店 弘前店

宮城県
喜久屋書店 仙台店
紀伊國屋書店 仙台店

茨城県
ACADEMIA イーアスつくば店

埼玉県
ブックエキスプレス ディラ大宮店

東京都
三省堂書店 池袋本店
MARUZEN&ジュンク堂書店 渋谷店
東京旭屋書店 池袋店
ブックファースト 新宿店
真光書店 本店
ジュンク堂書店 立川高島屋店
オリオン書房 アレア店
オリオン書房 ノルテ店
コミック高岡
ブックエキスプレス 渋谷店
紀伊國屋書店 新宿本店
文教堂 浜松町店
ブックエキスプレス エキュート上野店
三省堂書店 有楽町店
中央大学生協 多摩店
くまざわ書店 池袋店
明正堂 アトレ上野店
芳林堂書店 高田馬場店
書泉ブックタワー
書泉グランデ
ヴィレッジヴァンガード 下北沢店
ブックファースト 大井町店
ブックファースト 渋谷文化村通り店
ジュンク堂書店 池袋本店
ヴィレッジヴァンガード 町田店
ヴィレッジヴァンガード 八王子東急スクエア
HINTINDEXBOOKエキュート東京
有隣堂 新宿店

千葉県
喜久屋書店 千葉ニュータウン店
東京理科大学生協 野田店
紀伊國屋書店 流山おおたかの森店
ヴィレッジヴァンガード 津田沼パルコ

神奈川県
有隣堂 横浜駅西口店
くまざわ書店 ランドマーク店
くまざわ書店 大船店
ヴィレッジヴァンガード 横浜ルミネ店

長野県
平安堂 飯田店

新潟県
ジュンク堂書店 新潟店
知遊堂 上越国府店

静岡県
TSUTAYA 佐鳴台店
TSUTAYA 藤枝店
ヴィレッジヴァンガード イオンモール富士宮

愛知県
三省堂書店 名古屋高島屋店
ヴィレッジヴァンガードビックカメラ名古屋

滋賀県
ヴィレッジヴァンガード イオン近江八幡店

京都府
アバンティブックセンター 京都店
ブックファースト 京都店

大阪府
ブックファースト なんばウォーク店
MARUZEN&ジュンク堂書店 梅田店
喜久屋書店 阿倍野店
紀伊國屋書店 高槻店

和歌山県
ヴィレッジヴァンガード イオンモール和歌山

岡山県
丸善 岡山シンフォニービル店
喜久屋書店 倉敷店
ヴィレッジヴァンガード イオンモール倉敷
ヴィレッジヴァンガード イオンモール岡山

広島県
MARUZEN&ジュンク堂書店 広島店
ヴィレッジヴァンガード イオンモール広島祇園店

徳島県
ヴィレッジヴァンガード フジグラン石井

福岡県
フタバ図書 GIGA今宿店

大分県
ヴィレッジヴァンガード 大分わさだタウン
 



 
 街の本屋さんで見かけましたら、ぜひ、手に取ってみてやってください。
 
 
 
認められたい

認められたい

 

ブロガーの道は諸行無常。それでもあなたは、ゆくのですか。

 (※このメッセージはブログやtwitterやYouTube等で何かを発信している人向けです)
 
plagmaticjam.hatenablog.com
 
 
はてな村の権威とは、ネットにおける権威とは、いったい何でしょうか。
 
 権威と言われるとピンと来ませんが、ネットアカウントの存在感威信ってのは確かにあると思います。「このアカウントの言葉なら耳を傾けよう」とか、「このアカウントの動きはまた見よう」とか、そういうのですね。影響力の大きさ、と言い換えてもいいかもしれません。
 
 では、その影響力の大きさは何に由来するのでしょうか。
 
 それは、今までに獲得してきた信用だったり実績だったりします。「この人はデタラメなことを言わない」「この人のつくるものはだいたい面白い」と思ってくれる人がたくさんいて、それが長く続けば、そのアカウントの影響力は大きくなるでしょう。
 
 たぶん、動画配信でも同じではないでしょうか。「どこかの馬の骨」ではなく「この人の新作なら、見てみてもいいかな」と思ってくれる人が増えるってことが、ネットにおいて影響力を得るってことなんだと思います。
 
 でも、ネット上で積み重ねる信用や実績って、本当にはかないですね。
 

はてなブログを叩く声

諸行無常の響きあり

はてなスターの星の色

盛者必衰の理をあらわす

おごれるブロガーも久しからず

ただ春の夜の夢のごとし

アルファブロガーも遂には滅びぬ

ひとえに風の前の塵に同じ

 
 信用や実績によって影響力を蓄積するには長い時間がかかりますが、それを失うのは簡単です。影響力に執着しているブロガーが、影響力が損なわれそうな危機に陥って焦ったあげく、下手を打つこともあります。ネット炎上のたぐいを眺めていて思うのですが、一発で信用を丸ごと失うことは少なくても、二発、三発と続くと連続技ボーナスが入ってしまうように見受けられます。こうなると、個人ブロガーのちっぽけな影響力など、たちまち無くなってしまいます。
 
 じゃあ、影響力が大きくなったら炎上しないかといったら、そんなことはありません。むしろ逆で、影響力があればあるほど人目に触れる機会も増え、言動が絶え間なくチェックされるぶん、危ないのではないでしょうか。国会議員などが典型的ですよね、影響力が大きいからこそ、あらゆる立場の人々から言動をチェックされ、そのいずれかに引っかかれば「失言」とみなされます。芸能人のネット炎上なども同様でしょう。
 
 ネット上では、いや、メディア上では、影響力を稼げば稼ぐほど、言動が厳しくチェックされて燃えやすくなるってことです。先に進むほど細くなるロープの上を綱渡りしているような状態ですよ。少なくとも私は、そうだろうと想定しているので、身に余る影響力を手に入れたいとは思いません。だって、影響力が高くなればなるほど、綱渡りが辛く厳しくなるのが目に見えているんですから。
 
 だから、冒頭リンク先の
 

つまりはてな村では「権威」がないのだろう。誰の言うことだから聞くとか誰の言うことだから気の迷いだと判断する。そういう信頼の積み重ねがない。信頼がないからそこで失言するような自由もまたない。

 
 これは間違いで、信頼を積み重ねるほど失言に気を遣わなければならないのだと私は思います。もちろん、信頼も影響力も要らないなら自由に発言すれば良いのですが。言い換えると、その手の自由を失いたくないなら信頼や影響力に執着してはいけないということです*1
 
 ここでばブログの話をしていますが、SNSやtwitterやYouTubeにも同じことが言えることではないでしょうか。
 
 ネット上で、いや、メディア上で信用や実績や影響力を積み上げるってのは、かように過酷で儚いものです。だから、野心を剥き出しにして突き進む年下のアカウントを見かけると、私は、応援したくなるような、満開の桜を愛でたくなるような、なんとも言えない気持ちになります。そこには嫉妬も混じっているんでしょうね。私には、そこまで果敢に攻める勇気はもうありませんから。
 
 
 冒頭リンク先には、
 

針の穴を通し続けるほどの神経を僕はとてもじゃないが持ち合わせていない。ブログにクソ文を投稿しても許されるだけの権威が欲しい。権威などというと傲慢のように見える。許しだ。許しがほしい。

 
 とも書かれています。
 
 それなら、影響力より許しを優先させるようなブログ運営しかないでしょう。できるだけ影響力を持たないよう、地を這う節足動物のようなスタイルでブログを書きましょう。プロフィール欄に、「私は地を這う節足動物です。有害です。私の影響を受けてはいけません。」と明言しておくのも良いかもしれません。いっそ、はてな匿名ダイアリーや匿名掲示板に溶けていくのも良いかもしれません。個人アカウントとしての影響力はゼロになりますが、許しは得られると思いますよ、法に触れない範囲では。
 
 私自身、やたらとボウボウ燃える昨今のインターネットには色々と思うことがあります。そして、中途半端に綱渡りを続けても得られるものは少なく、その苦しみを理解してくれるのは一部の人間だけで、大半の人は「おまえが望んでやっているんだろ、さあ、綱渡りを続けるんだ」以上の感想を持ってくれません。辛いですね。寂しいですね。でも、そういうものなんです。結局、その手のブロガーの道とは、暗夜行路の孤独な綱渡りなのです。
 
 あなたは、それでもブログを続けますか? 影響力なる虚栄の王冠を求めて、綱渡りのようなブログ運営をこれから何年も続けるおつもりですか? もし、そういった酔狂をやりたい動機や衝動があるなら、是非挑戦してみてください。大丈夫、あなたのブログが消えても、私はきっとあなたのことを忘れないでしょう。ブログのお墓にお線香をあげて菩提を弔うぐらいのことならできます。後顧の憂い無く、ブログ道を進んでください。
 
 他のブロガーさん、他の発信者さんについても同様です。お互い、長く生き残った側が消えていった側を記憶して、語り継いで、弔っていきましょう。先に逝くのは、あなたかもしれないし、私かもしれない。どうあれ、ネットという修羅の国で生きようとした者同士、頑張ってまいりましょう。
 
 きっと、あなたが燃えても私はあなたを助けられないし、私が燃えてもあなたは私を助けられない――ブロガーの仲とはそういうものだと思いますが、執着の灯火を燃やしながら、お互い、良い思い出を作っていけたらいいなぁと願います。
 
 
 [関連]:「実は貧乏」じゃなくて、「実は金持ち」が悪口になる世界 - いつか電池がきれるまで
 [関連]:『はてな村オンライン』の遊び方
 

*1:げんに、信頼や影響力を度外視して好き勝手なブログ運営をしているアカウントはごまんといます。

『認められたい』を出版します

 
 このたび私は、承認欲求などをメインテーマとした『認められたい』という本を出版します。
 

認められたい

認められたい

 
定価:1575円
単行本(ソフトカバー): 191ページ
出版社: ヴィレッジブックス  ※表表紙はこんな感じ
 
 
 人間は、「認められたい」という気持ちと無縁ではいられません。
 
 とりわけ現代社会では、他人に誉めてもらいたい・注目されたいといった承認欲求が取り沙汰され、オンラインでもオフラインでも、この欲求をめぐってさまざまな悲喜劇が繰り返されています。
 
 今の日本社会では、衣・食・住や安全といった生活に必要なモノが充実しているので、それらに飢えている人はあまりいません。しかしだからこそ、モノへの欲求以上に、「認められたい」という人間関係にまつわる欲求に飢えている人は多いのではないでしょうか。
 
 「認められたい」に飢えている人が多いということは、それだけ、モチベーションの源としても重要だということです。モチベーションの源として重要だということは、この気持ちの取り扱い次第でスキルアップの程度や社会適応の幅も大きく変わってしまう、ということです。
 
 そうした見地にもとづき、この本は「認められたい」気持ちのメカニズムや付き合い方について、「認められたい」に飢えている人を想定読者として書き綴ったものです。「認められたい」のに認めてもらえない、承認欲求に飢えて困っている人に、ひとつのソリューションをご提供しているつもりです。
 
 以下に、第六章までの一覧と、章ごとのサブタイトルを紹介します。
 

 
【はじめに】
 
【第1章】承認欲求
・みんな大好き承認欲求
・のび太、ジャイアン、出木杉くんに差がつく理由
・承認欲求の時代がやってきた
・認められたいからネットを使う
・承認欲求の暴走 ― 低レベルではうまくいかない
・承認欲求は貯められない!
・承認欲求が低レベルなのはこんな人
 
 
【第2章】承認欲求を充たす条件
・「見た目」良ければそれで良し?
・承認欲求を充たしやすい人
・承認は一日にしてならず
・手っ取り早い承認と、その副作用
・長所には消費期限がある
・コミュニケーション強者も弱者になる
・承認欲求の達人とは?
・褒められまくる超人はほんの一握り
 
 
【第3章】所属欲求
・幸せの鍵は承認欲求だけではない
・昔の日本は所属欲求で回っていた
・個人主義と承認欲求、その行き着いた果てに
・「普通に暮らしている人達」をお手本にする
・承認欲求と所属欲求が噛み合って世の中は回っている
・所属欲求もスキルアップのモチベーションにできる
・所属欲求が低レベルなのはこんな人
・目指すべきは「身近な人を大切にすること」
 
 
【第4章】承認欲求/所属欲求のレベルアップ
・「認められたい」はレベルアップする
・子ども、若者のレベルが低いのは当たり前
・レベルの差は何をもたらすのか
・自己実現欲求なんて芽生えない
・レベルアップは幼い頃に始まっている
・必要なのは「適度な欲求不満」
・ネットでもレベルアップはできるけれど……
・子どものレベルアップのために親ができること
・恋愛で「認められたい」は充たせない!?
・人生は「認められたい」のレベルで決まる
 
 
【第5章】コミュニケーション能力を育てるための七つの基礎
1. 挨拶と礼儀作法
2.「ありがとう」
3.「ごめんなさい」
4.「できません」
5.コピペ
6.外に出よう
7.体調を管理しよう
・時間をかける
・モテなくてもいいんです
 
 
【第6章】人間関係の距離感
・ほどほどの距離感を見失った「認められたい」は難しい
・人間関係の急接近は要注意!
・自分がしんどい関係は相手もしんどい
・「毒親」と「ヤマアラシのジレンマ」
・しんどい「ヤマアラシのジレンマ」を回避するには
・「ひとつの絆」よりも「複数の絆」を
・距離が遠ければそれで良し?
・間合いに「幅」を持たせよう
 
 ※続きは書店にてご覧ください
 

 
 ごらんのとおり、この本では「認められたい=承認欲求」とはなっていません。
 
 「認められたい=承認欲求&所属欲求」、つまりマズローの欲求段階説でいえば真ん中二つが「認められたい」に相当するという前提でまとめています。なぜなら、「認められたい」という欲求には、個人として褒められたい気持ちだけでなく、誇れるメンバーシップの一員でありたい・無視されたくない・好きなものを共有する人がいて欲しい といった、もっと集合的な気持ちも含まれてるように見受けられるからです。
 
 

 
 
 個人主義を絶対視している人は、「認められたい=承認欲求」と考えたがるかもしれません。ですが、それでは片手落ちです。たとえば、仲間同士で集まってウェイウェイしている人々の充実感には、承認欲求と所属欲求の両方が混在しているのではないでしょうか。
 
 現代社会にたくさんいる、承認欲求に飢えている人々の問題にしても、承認欲求の充たし方だけが問題なのではなく、所属欲求の充たし方の拙劣さ、あるいは欠落にも多くを因っていると思うのです。
 
 こうした「認められたい」のマネジメントやソリューションについて、マズローの著書だけを参考にしては不十分だったので、この本では、H.コフートの自己愛理論を屋台骨として採用しています。ですが、コフートの用語は難しくて読みにくいので、承認欲求という言葉を聞きかじったことがあれば十分読めるよう、アレンジしました。
 
 「読んだとたんに承認欲求に飢えなくなる本」ではありませんが、「いつか、承認欲求に飢えない自分になりたい人のための参考書」「認められたい気持ちをプラスの力に変えて、スキルアップや精神的成長をしていきたい人のためのテキストブック」としてはマトモで現実的な内容だと思います。もし、タイムマシンがあったら、学生時代の私自身に届けたいですね。
 
 「認められたい」に一喜一憂している人に、この本をオススメします。
 
 

 

 

「自己愛性パーソナリティ障害」という診断の意味を考える

 
www3.nhk.or.jp
 
 相模原市で起こった障害者殺傷事件の精神鑑定が終わり、診断名は「自己愛性パーソナリティ障害など」であると報道された。
 
 リンク先にもあるように、自己愛性パーソナリティ障害とは、「他者の都合を度外視し、周囲からの称賛を求めたり、みずからを特別な存在だと過度に考えたりすることを特徴とする」。それに関連して、自尊心が脆く、自分が軽視されたと感じると激怒や抑うつに陥りやすい。
 
 では、自己愛性パーソナリティ障害と診断することに、どのような意味があるだろうか。
 
 精神鑑定に関して言えば、責任能力を見極めるうえで、自己愛性パーソナリティ障害という診断名は大きな意味を持つ。すなわち、急性期の統合失調症や双極性障害*1のような重度の精神病性障害ではなく、また重度の発達障害にも該当しないのだから、責任能力に問題は無いことになる。
 
 この診断名には、私も疑問を感じない。報道されている情報と矛盾するものではないし、そもそも、専門家が時間をかけて鑑定した結果だからだ。これを踏まえて、裁判は粛々と進んでいくだろう。
 
 

「自己愛性パーソナリティ障害と診断すること」の曖昧さ

 
 その一方で、私は、自己愛性パーソナリティ障害という診断名の存在意義とはなんだろうか? と改めて疑問を感じた。
 
 ひとことでパーソナリティ障害といっても色々なものがあり、妄想性パーソナリティ障害や境界性パーソナリティ障害などは、精神医療の現場との関わりが大きい。なかでも、境界性パーソナリティ障害は患者さんの数も多く、社会的な影響も甚だしく、それでいて自殺や事故を防げれば存外に予後が良い疾患であるためか、積極的に研究が行われ、あれこれの心理療法的アプローチが考案されている*2
 
 かつて、境界性パーソナリティ障害という病名は、家族や医療関係者を振り回し、衝動的で、こらえ性が無く、自殺未遂やかんしゃくを繰り返す患者さんにレッテルのごとく付けられていた。しかし、21世紀に入って双極性障害や発達障害の割合が高くなったためか、最近は「まさに教科書どおりの、境界性パーソナリティ障害としか言いようのない」患者さんだけに診断されるようになった。それだけに、わざわざ境界性パーソナリティ障害と診断し、相応の治療的対処を試みる意味がくっきりしたと言えよう。
 
 では、自己愛性パーソナリティ障害はどうか。
 
 自己愛性パーソナリティ障害と診断される患者さんは、それほど多くはない。控えめに言っても、この診断名を積極的につけたがる精神科医は少ない。私が見知っている限り、境界性パーソナリティ障害と診断された患者さんを現在進行形で診ていない精神科医はそれほどいないだろうが、自己愛性パーソナリティ障害と診断された患者さんを現在進行形で診ていない精神科医なら、ごまんといるだろう。
 
 その一方で、自己愛性パーソナリティ障害は全人口の1~6%が該当するという統計も存在する。だとしたら、なぜ、精神科医は自己愛性パーソナリティ障害という診断名で患者さんを診ようとしないのか?
 
1.理由のひとつは、そういう患者さんには他に治すべき(そして治療的な対処が可能な)精神疾患が存在するからである。
 
 自己愛性パーソナリティ障害に該当する患者さんが、自分の性格を治したいと望んで医療機関を受診することはまず無い。ほとんどの場合、うつ病や適応障害といったほかの精神疾患に陥った時に受診し、早急な治療的対処を求めている。そのような患者さんに関して、カンファレンスの場で性格傾向が議論されることは珍しくないが、“第一の診断名として”自己愛性パーソナリティ障害が選ばれることは珍しい。
  
2.理由のもうひとつは、自己愛性パーソナリティ障害への治療的対処が確立していない点である。
 
 さきに挙げた境界性パーソナリティ障害に関しては、治療的対処について多くのことが語られ、研究もされている。精神医学のスタンダードな教科書『カプラン臨床精神医学テキスト DSM-5診断基準の臨床への展開 第3版』でも、境界性パーソナリティ障害の治療についてほぼ丸々1ページが費やされている。
 
 ところが、自己愛性パーソナリティ障害の治療的対処については、ほんの少ししか書かれていない。短いので抜粋すると、
 

 治療
 
 精神療法 患者が前進するためには彼らの自己愛を捨てなければならないので、自己愛性パーソナリティ障害の治療は難しい。カーンバーグ(Kernberg)とコフート(Heinz Kohut)のような精神科医は精神分析的アプローチによって変化をもたらすと唱道した。しかし、診断を確認し最良の治療を決定するにはこれからの多くの研究が必要である。理想的な環境において分かち合いを学ぶ集団療法により、他者への共感的反応を促すことができると論ずる臨床医もいる。
 
 薬物療法 リチウム(リーマス)が、臨床像の一部に気分変動を含む患者に使われている。自己愛性パーソナリティ障害の患者は拒絶にはほとんど耐性がなく、抑うつ的になりやすいので、抗うつ薬(特に、セロトニン作動薬)が有用な場合もある。

 たったこれだけである。内容的にも、あまり研究が進んでいないことがうかがえる。
 
 しかも悪いことに、この記載はひとつ前のバージョンの第二版と同じである。境界性パーソナリティ障害をはじめとする多くの精神疾患は、第三版になって内容がかなり書き換わっていた――つまり、それだけ診断や治療に進展があったわけだ――が、自己愛性パーソナリティ障害については、それほどの進展があったわけではない、ということである。
 
3.三つ目の理由は、これは私の推測混じりになるが、現代人は多かれ少なかれ自己愛性パーソナリティ障害に近い心性をもっていて、病的な自己愛と正常な自己愛の境目を議論するのが難しい、ということもあるだろう。
 
 この疾患の第一人者の一人、カーンバーグは、自己愛性パーソナリティ障害の人は、正常な自己愛とは区別される異常な自己愛を持っていると論じた。他方、もう一人の第一人者、コフートは、自己愛性パーソナリティ障害を未熟な自己愛とみなし、成熟した自己愛と連続的なものとして論じた。
 
 自己愛性パーソナリティ障害に該当する人のなかには、その心性に急き立てられて富や名声を求め、(一時的に、または永続的に)社会的成功をおさめる人も少なくない。病碩学の世界では、世界的指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンが自己愛性パーソナリティ障害の傾向を持つと論じられている*3が、私のみる限り、インターネットも含めたメディア上で名を成した人のなかには同じような心性を持った人が少なくないようにみえる。
 
 もっと卑近な例として、自己顕示的なtwitterアカウントのたぐいなどは、多かれ少なかれ自己愛性パーソナリティ障害寄りだと言えるし、「意識高い系」と呼ばれるような人達、「自撮り棒」で写真を撮ることを好む人達、鮮やかな体験をInstagramにアップロードすることを生き甲斐にしている人達についても、近い心性を持っていると想定される。そういった、現代人の典型ともいえる人々にパーソナリティ障害というレッテルを貼ってまわることに意味はない。
 
 
 こうした1.2.3.を振り返るにつけても、精神医療の現場で自己愛性パーソナリティ障害という診断名があまり選ばれないのは当然のことだと私は思う。他に治すべき精神疾患が併存し、研究がそれほど進んでおらず、正常と異常の境目の曖昧な疾患概念を、第一の診断名として選ぶのはなかなかできることではない。
 
 ちなみに私自身はコフートの自己愛理論を愛好しているので(→関連)、患者さんの自己愛の状態は意識するようにしているけれども、それですら、第一の診断名として自己愛性パーソナリティ障害と付けたことはほとんど無い。医療というコンテキストで考えるなら、他につけるべき診断病名があり、他に優先すべき対処があることがほとんどである。
 
 

鑑定上の「自己愛性パーソナリティ障害」とは「重篤な精神病ではありません」ではないか

 
 こうした実情を踏まえて、くだんの精神鑑定について考えると、鑑定を担当した先生が積極的に「自己愛性パーソナリティ障害」と診断したとは、私には思えないのだ。
 
 統合失調症や双極性障害に該当せず、種々の発達障害にも該当せず、境界性パーソナリティ障害のようなクッキリとした人格障害にも該当しないがために、消去法的に自己愛性パーソナリティ障害という診断名が“残った”のではないか、と想像したくなる。
 
 繰り返すが、報道されている範囲では、容疑者の振る舞いは自己愛性パーソナリティ障害の診断基準と矛盾しないようにみえる。しかし、これは精神科医が積極的に診断したくなるものとは考えにくい。鑑定を担当した先生は、いろいろな精神疾患をさんざん検討したうえで、ひねり出すような気持ちでこの診断名に至ったのではないだろうか。
 
 重大事件の容疑者には、ときとして自己愛性パーソナリティ障害という鑑定結果が付けられる。さしあたって、責任能力について判断する際には十分な診断名だろう。しかし、ここまで述べてきたように、自己愛性パーソナリティ障害とは曖昧な疾患概念なので、この鑑定結果から容疑者の内実を深読みするのは難しいように私は思う。記事詳細で“複合的な人格障害”という表現を伴っていることを踏まえるにつけても、「重篤な精神病ではありません」以上の読みは、しないほうが良いのではないだろうか。
 
 

どうか、「自己愛」が嫌悪されませんように。

 
 ところで、自己愛性パーソナリティ障害という言葉は、かなり悪いイメージを伴って巷に流通している。匿名掲示板やtwitterなどでも、この言葉が一種の罵倒文句のように用いられているのを何度も目にしてきた。尊大な態度や他者への無神経さが嫌われやすいことを思えば、それ自体は仕方のないことかもしれない。
 
 ただ、こういった重大事件の鑑定結果として(積極的か、消極的かに関わらず)自己愛性パーソナリティ障害という病名が登場するたび、私は、この診断名のイメージがますます悪くなるのではないか、ひいては、自己愛そのものを否定する人が増えるのではないかと心配になる。
 
 これが他の精神疾患、たとえば種々の精神病や発達障害なら、病名に対するスティグマが広がらないよう注意を促す人々が現れるものだが、自己愛性パーソナリティ障害についてはどうだろうか?
 
 自己愛の暴走がトラブルを生むこと自体は否定できないし、自己愛性パーソナリティ障害に該当し、現に苦しんでいる人がいるのも事実だ。だがそれだけでなく、自己愛は、自分自身のために切磋琢磨し、富や名声やスキルを掴むための原動力にもなり得るものだ。また、世間ではあまり知られていないが、自己愛の概念の範疇には、誰かに憧れたり応援したりする心性も含まれている。そういった部分も含めて、自己愛には健全な側面も多分にあるのだから、やたら否定せず、適切に付き合っていくべきだと思う。そして、例示したカラヤンをはじめ、自己愛性パーソナリティ障害に相当する心性を持っているけれども、否、ひょっとしたらそのおかげで社会的成功に至る人だっているのだから、ネットの巷で悪しざまに言われているほど、否定しないで欲しい、と願う。
 
 

*1:いわゆる躁うつ病のカテゴリ

*2:注:境界性パーソナリティ障害の心理療法的アプローチのなかには「急いで治そうと治療者が頑張り過ぎない」ことも含まれているので、やたらと一生懸命に治そうとするようなイメージを過度に持ち過ぎないようにご注意を。

*3:参考:中広全延『カラヤンはなぜ目を閉じるのか―精神科医から診た“自己愛”』、新潮社、2008