シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「昔タケちゃん、今ヒカキン」

 
 
 
 
 「昔はドリフ、今はヒカキン」というタイトルのほうが良かったかもしれない。
 
 
 いつの時代にも、PTAや“意識の高い”お父さんお母さんがたを憤慨させてきたコンテンツというのはあって、たとえば先生のボインにタッチするようなアニメだったり、バカっぽい子どもがお茶の間に向かって尻を丸出しにするようなアニメだったりしたわけだ。
 
 アニメ以外の番組にもそれは言える。
 
 私が子どもの頃にも、(当時の水準で)意識の高い父兄から良くない風に言われている番組があった。それは『8時だヨ!全員集合!』であったり『オレたちひょうきん族!』であったりした。くだらない。通俗的。下品。子どもの教育にふさわしくない。そういった評価がこれらの番組には下されていて、それは、子どもだった私達にもしっかり伝わっていた。
 
 教育テレビの番組や科学をテーマにした番組に比べて、それらはあまりにも馬鹿っぽく、子供騙しで、下劣な番組とうつったことだろう。
 
 勉強や生活に役立つことなく、ぬるいソーダの泡のような笑いをもたらし、悪ガキ向けの馬鹿騒にぴったりの番組に夢中になっている我が子の姿を、意識の高い父兄が眉をしかめて眺めていたのは想像に難くないし、子どもが志村けんやタケちゃんマンの物まねをする姿は、彼らには憂鬱に感じられただろう。
 
 実際には、そうした番組のそうした知識も、学校に通う同世代同士でコミュニケーションする時に役に立つ、ちょっとした共有資産だったりしたのだが。
 
 

「くだらないもの」の流通媒体としてのネット動画

 
 そうした芸人を楽しむ媒体も変化して、かつてはテレビの独占だったものが、インターネットにもたくさんの芸人がみられるようになった。テレビで芸をうつ芸人達は、視聴者の加齢にあわせなければならないためか、子どもや若者にフォーカスを絞ったような芸はなりを潜めるようになった。他方、インターネットには、はっきりと子どもに焦点を合わせた芸人の芸が幅を利かせている。
 
 21世紀の意識の高い父兄に嫌われやすい、かつての『ドリフ』や『ひょうきん族』に近いコンテンツとは何だろうか?
 
 『重版出来!』と『トットてれび』から見える作り手の困難(成馬零一) - 個人 - Yahoo!ニュース
 
 上記リンク先を読んでいた時に、「そうだ!ユーチューバーだ!」と自分のなかで結論が出た。
 
 意識の高い父兄から嫌われているという点でも。
 「既存のメディアから下に見られていそう」という点でも。
 年上よりも年下の人達にフォーカスを絞っている点でも。
 
 だから、少子高齢化の今という時代に「ドリフ」や「タケちゃんマン」的なニッチを引き受けているのはユーチューバーとその眷族達なのだ。時代とメディアが変わってしまったから別物のようにみえるけれども、日本のサブカルチャー全体のなかで引き受けているニッチはだいたい同じではないだろうか。
 
 「ああ、キッズがユーチューブに夢中になっている時に感じるこの気持ちを、数十年前の親達も感じていたんだろうなぁ……『ドリフ』や『ひょうきん族』に夢中になって、真似をしてゲラゲラ笑う俺達を眺めながら。」……と最近は思うようになった。
 
 しかし、そこはそれ、ユーチューブの子供向け演し物は昭和時代のテレビに比べればどこか清潔で、かしこまっていて、21世紀のコンテンツ感はある。昭和時代~平成前半にあった途上国っぽさはそこからは感じられない。こういったコンテンツを介して、21世紀の子どもは21世紀を呼吸して、我が物としながら生きていくのだろう。
 

誕生日はおめでたい日だと、最近やっと気づいた

 
 今日は天皇陛下の誕生日だ。
 だからというわけではないが、誕生日についてちょっと書く。
 
 子どもの頃の誕生日にはちょっとしたお祝いがあったので単純に嬉しかったが、思春期を迎える頃には「年を取ってしまう日」として嫌悪していたし、20代後半は「三十路を迎えるまでの地獄のカウントダウン」だった。30代後半? 聞くまでもなかろうよ。
 
 それでも、誕生日はめでたいものだと最近になって気づいた。
 
 「こんな歳になってしまった」「こんな年齢まで人生を使ってしまった」と思うから誕生日が疎ましいのであって、「この歳までたどり着けた」「ここまで人生をやり込んだ」と考えるなら、誕生日はめでたい。とてもおめでたいのだ。
 
 

「おまえ、レベル40歳まで生きたのか?長く生きたな、たいしたもんだ」

 
 最近、生きていくことに辛さを感じる。
 
 もともと娑婆は忍土(にんど)と言って、辛いものと相場が決まっているが、三十代後半あたりからは、身体能力の衰えをひしひしと感じるようになった。表面的には今までどおりの生活をしているけれども、毎日を生きるためのコスト、つまり、健康や世渡りに費やさなければならないコストはジリジリ増えている。
 
 なるほど、人間というのは生物だから、老いるにつれて生きるための難易度が高くなっていくのか。
 
 そして舞い込む訃報。
 
 自分に近い場で活躍していた人が、不意に亡くなった報せに驚く。
 あるいは、まだ教えを請いたかった恩師が急逝した報せに悲しむ。
 
 そういった訃報を受け取るたび、今というこの世界が永遠に続くわけではないこと、人間が生き続けて年を取り続けるのは当たり前ではないことを思い知らされる。
 
 みんな無条件に生きているわけではないのだ。たとえそのようにみえたとしても、毎日好きなことをやったり、毎日義務を果たそうとしたり、毎日苦悩に耐えたり……とにかく、生き続けている人間だけが今を生きているのだ。
 
 レベル0歳からレベル12歳までの子ども時代を生ききった人は、たいしたものだ。
 右も左も知らない、力の乏しい時期を生き抜いたのだ。親の助けがあるとはいえ、よく頑張った。
 
 レベル13歳からレベル24歳までの思春期を生ききった人も、たいしたものだ。
 嵐のような自意識と闘いながら、親の手が届かないところで懸命に立ち回った。激しく生きたことだろう。
 
 レベル25歳を超えて、レベル30歳、レベル40歳と年齢を重ねた人もそうだ。
 社会に巧みに適応できていたか、今一つピリッとしないかはともかく、何十年も自分という名の「人生」のアカウントを操縦し続けてきたのだ。たいしたものじゃないか。
 
 年を経るにつれて実感するようになったのは、身体がボロくなろうが苦境に直面しようが、それでも「人生」の盤面を投げ出さずに生き続けるというのは、ただそれだけでもたいしたものだ、ということだった。
 
 この視点で年上の人達を眺めると、なるほど、お年寄りというのは敬意に値する。
 
 あのおじさんは、六十代になってもあんなに元気にしているんだぞ。
 
 あのおばさんは、ガンの転移と闘いながら、それでも娑婆から振り落とされずに生き続けて、最後まで生きようとしている。次の誕生日を迎えられる保証はまったく無い。が、ともかくも生きているのだ。
 
 生き続けること自体の難易度が高くなっていても、人生を投げ出さず、どうにか生き続けている人々は、荘厳だと思う。
 
 人生の難易度の上昇スピードは人によって異なるが、原理原則としては、年を取るにつれて加齢にともなうペナルティが大きくなり、自分の社会的な立場も変わっていくため、長く生き続けるのは苦難の連続となる。にも関わらず長く生き続けている「人生」のプレイヤーは、それぞれに苦難を乗り越えてきているわけだし、そうやって、ライフログの歴史を積み上げているわけだ。
 
 で、そういうライフログの歴史を持ったひとりひとりの人間同士が繋がりあって、この娑婆世界がかたちづくられているのは確かなのだ。それって、すごいことではないだろうか。
 
 

誕生日は「実績解除」のトロフィーだ

 
 こうやって考えると、誕生日は、一年また一年と生き続けたことを証明する「人生」というゲームのトロフィーのようにみえる。マイクロソフト社のゲームで言えば「実績解除」だし、『ポケモンGO』風に言えば「メダル獲得」みたいなものだろう。誕生日というのは一番基本的なトロフィーだけど、じゃあ、誰もがこのトロフィーを積み上げられるかといったらそんなことはないし、このトロフィーには必ず一年分の時間的な重みが詰まっている。
 

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・みんな、こんな風に「人生」のトロフィーを積み上げている*1

 
 こうやって私達は、一年分の時間的な重みの詰まったトロフィーを不可避的に積み上げて、それらを背負いながら毎日を生きているのだ。
 
 ほら、あの78歳のご老体をごらんなさい! あんなにたくさんの誕生日トロフィーを抱えて、その重みに耐えながら、まだ自分の足で「人生」を歩き続けている。「人生」の大ベテランプレイヤーと言わざるを得ない。彼らは「人生」の“やり込み勢”だ。
 
 誕生日を迎えるのは、当たり前のようで意外と当たり前ではない。だから誕生日を迎えた人には、おめでとうと言いたいし、自分の誕生日にも、これからはおめでとうと言いたい。
 
 生きて誕生日を積み重ねていこう。死がゲームオーバーを告げに来るその日までは。
 

*1:画像は『ポケモンGO』のメダル獲得のコラージュです

みなさん、生涯現役のお知らせです!おめでとうございます!

 
www.nikkei.com
 
 内閣府さん、力強いご提言ですね。
 
 最近は経済事情が苦しくなり、若者のモラトリアム期間も短くなって、「35歳まで思春期」などという言葉は完全に時代遅れになりました。それと同じように、高齢者と呼ばれる期間も先送りされて、現役世代が5年ぶん増えることになります。
 
 モラトリアムな若者も減って、ご隠居生活な高齢者も減って……「生産人口」が増えるってことですね!
 
 おめでとうございます!
 
 六十代や七十代の皆さんががんばって若さを追いかけて、健康を維持して、平均寿命が伸びまくった結果として、「あなた達はまだまだお若い!現役選手としてがんばってください!」という熱いエールが内閣府から届けられたのです。「高齢者」「老人」といった言葉に抵抗感のある、若さを追いかけてやまない人達には、これは福音でしょう。
 
 よかったですね!
 
 

若さを長く保てるようになったら、若さを長く保たなければならなくなった

 
 でも、早く高齢者になりたい人、早くご隠居になりたい人には辛い話です。
 
 昔は、還暦を迎えたらご隠居して、子ども世代に後を任せるものだったといいます。それは寂しいことだったかもしれないけれども、世代交代という意味では健全だったし、責務からの解放と余生の自覚という意味もあったでしょう。そもそも、60歳まで息災に生きられたら御の字で、そこから先も生きられるとしたら、それはボーナスステージだったわけです。
 
 ところが医療や福祉が発展するにつれて、60歳はおろか、70歳、80歳まで生きるのが当たり前になってしまいました。のみならず、当事者の意識も変わり、最近は「還暦を過ぎても現役」「60歳は人生の新しい門出」といった言葉をあちこちで耳にします。
 
 それが嬉しい、ありがたいという高齢者がたくさんいらっしゃるのは心得ています。
 
 他方で、60歳や70歳になっても元気でいなければならないし、現役として働き続けなければならなくなったのも事実です。
 
 いくら外面やライフスタイルを若作りしたって、また、健康調査で良い成績をおさめているからといって、60歳は60歳、70歳は70歳です。生物としての盛りはとっくに過ぎています。いつまでも若作り、いつまでも現役って、生物としては辛いのではないでしょうか。どんなにピンピンしているように見えても、二十代や三十代の頃のようなバイタリティは望むべくもないし、記憶力をはじめとする脳のハードウエアは衰えているわけですから。
 
 [関連]:伸びたのは「余生」であって、「若さ」ではない - シロクマの屑籠
 
 
 しかし世間の意識は、そうした辛さを顧みることなく、元気であれ・若くあれ、とそっちのほうを向いています。余生だなんてとんでもない! のみならず、少子高齢化が進むこの国では、本来なら高齢者と呼ばれる人達にも働いてもらわなければならない・現役でいてもらわなければならないという社会的要請もあるわけです。
 
 若者のモラトリアムを削って「生産人口」に組み入れて、高齢者と呼ばれるはずの人達まで「生産人口」に組み入れるのって、敗戦寸前の国が最前線に少年兵や老兵を送り込むみたいなところがあって、悲壮感をおぼえるのは私だけでしょうか。ああ、この国は苦境に立たされているんだなぁ、“進め一億火の玉だ”ならぬ、“進め一億総活躍社会”なんだなぁ、……と、侘しい気持ちがこみあげてきます。
 
 なんにせよ、この国ではたくさんの人が若さを長く保てるようになりました。が、一人や二人の人が長生きするようになっただけでなく、国をあげて長生きするようになった結果として、みんなが若さを長く保たなければならなくなった、のです。
 
 

死ぬまで現役=死ぬまで働け

 
 というわけで、みなさん生涯現役のお知らせです!
 
 でも、ここでいう生涯現役とは、60歳か65歳で仕事を引退して楽しいご隠居生活……といったものではありません。
 
 
 「死ぬまで働け!」
 「働ける限りは働いて、それから死ね!」
 
 ……という意味の、生涯現役です。
 
 なにせ70歳までは高齢者じゃないらしいですから、69歳までは働いて現場を回せってことなのでしょう。一億総活躍社会ですからね、国全体が老々介護みたいなものですからね、当然ですよね。
 
 もし、64歳ぐらいで働けないとしたら、それは“障碍者”というカテゴリに入るんでしょうか?? 個人的には、それぐらいの年齢で働けないとしても、ぜんぜん不思議じゃないと思うんですけど。
 
 長く生きられるようになったぶん、長く働かなければならない――これって、本当に幸福なことなんでしょうか? もちろん、そういう事に疑問を持つのは現代人として良くない態度だと思うので、私は胸を張って「長く生きて長く働くのは幸福なことに決まっている!」と答えなければならないのでしょう。自分の死=世界の終わり と考えている人にとって、死とは絶対的に否定されるべきものでしょうし。
 
 ただ、たいして努力をしなくても健康でいられる若者と、精一杯の努力をしてどうにか現役選手をやっている高齢者とでは、いろいろと前提が違うと思うんですよ。生物としては余生の時期のはずなのに、社会的には余生を許されず、生涯現役って、すごいハードですよね。いや、それをやってのけている人がいらっしゃるのは知っていますし、それこそが長生きの秘訣だというのもわかる話ではあります。でも、みんながみんなそれを望んでいるわけじゃあないでしょうし、できるわけでもないでしょう。
 
 寿命が伸びれば、そのぶん、楽しいことだけじゃなく、苦しいことも長くなります。
 医療や福祉が充実しても、娑婆というのは辛いところですね。
 
 

「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

 
 

ワインを買っているんじゃない。「奇跡」のガチャを回しているんだ。

 
 ワインに魂を奪われて十年近い歳月が流れた。
 
 この間に千種類以上のワインを飲んでまわり、自分がどんなワインが好きで、どんなワインが苦手なのか、だいたいわかるようになった。私は、酸味がしっかりしていて、あまり重くなくて、華やかな香りがして、果実味のしっかりしたワインが好きだ。
 
 「それって、ぜいたくな注文じゃない?」と言う人もいるかもしれない。それでも、何百もワインを買い続けていれば、いい加減、「我が家の定番」「これさえ買えば間違いなし」みたいな品は浮かび上がってくる。
 
カレラ シャルドネ セントラルコースト
 
ルイジ・リゲッティ アマローネ ヴァルポリチェッラクラシコ
 
 たとえば、この二つのワインは自分的には「85点」をつけられるワインだ。そんなに値段は高くないし、日本でもかなり流通している。お客さんが来た日の夕食に出しても恥ずかしくないワインだ。
 
 

高級ワインに期待するのは「おいしさ」じゃない。「奇跡」だ。

 
 だが、私をワイン狂いにしてしまった真犯人は「おいしい」ワインではない。もっと高価で、もっと気まぐれな連中が私の趣味生活をおかしくしてしまった。
 
 高級ワイン。
 
 一本1万、一本3万、一本10万といった価格帯のワインには、「奇跡」が詰まっていることがある。
 
 “「奇跡」が詰まっていることがあるというのがミソで、高級ワインに「奇跡」が詰まっている保証なんてどこにも無い。少なくとも経験した限り、一本数万円のワインが「85点」を下回ることなんてしょっちゅうだ。だからこそ、「どのワインショップで・どの輸入業者のワインを・どんな価格で買うか」を気にするようになったが、気にしたからといって、ハズレを掴まない保証は無い。
 
レ・マッキオーレ メッソリオ
 
 とあるヴィンテージのこのワインは、痩せて、苦くて、いつになっても香りが立ち昇ってこなくて、それはそれは残念な品だった。このメーカーの別のワインは素晴らしかったこともあるし、このメッソリオの世間的な評価も高いはずなのだが、自分が買ったボトルは最低最悪だった。畜生!
 
 
グロ・フレール・エ・スール リシュブール
 
 「ロマネ・コンティ」のすぐそば、ワイン愛好家では評価の高い“リシュブール”という特級畑のワイン。ところが、飲んでみても「78点」ぐらいの品というか、香りはまずまずだけど、渋みがバサバサしていて打ち解けず、いつまでたってもおいしくならない。そこらの1万円ワインを下回る残念さ! 地団太を踏んで悔しがった。このとき以来、このメーカーさんのワインは買えなくなってしまった*1
 
 
 それでも、高級ワインは、ときどき、「奇跡」を起こす。
 
 
 ワイン雑誌は、よくワインを「91点」「99点」といった100点満点で採点しているけれども、私がワインを採点するなら、『ドラゴンボールの戦闘力』方式が良いと思う。
 
 
ドメーヌ・ルフレーヴ ピュリニー・モンラッシェ
 
 たとえば、初めてこのワインを飲んだ時の私は、「これは100点!いや!300点ぐらいだ!」と感動した。とにかく普通じゃない。もう「おいしい」とか「おいしくない」とか、そういう次元を超越している。酸がキラキラしていて、ふんわりと包容力があって、味も香りもブッ飛んだワインだった。このワインを飲んだ瞬間に、私のワインの評価尺度は100点満点から300点満点に切り替わった。大枚をはたいて高級ワインを買う人の気持ちがちょっとわかったような気がした。そうか、高級ワインは味の評価尺度、採点の枠組みそのものをブチ壊してしまうのか。
 
 
ルイ・ラトゥール シュヴァリエ・モンラッシェ
 
 それからしばらくして、今度はこいつに出会った。キラキラとか包容力とか、もう、そういう語彙では説明のつかない「存在自体が奇跡」のような代物で、一体どうやったらこんな味と香りの白ワインができあがるのか見当もつかなかった。プリズムの光のごとく、味と香りが七色にゆらめいて、どれだけ飲んでも飽きる気配が無い。というより、ワインに魅了されて他のことはどうでもいいというか、いつまでも“鑑賞”し続けたい気持ちになって、酔いがまわらない。
 
 このワインによって、私のワイン評価尺度は300点満点から5000点満点に変更された。残念ながら、この5000点を超える白ワインには未だ出会ったことはない。1800点とか、4800点の白ワインには出会えているのだけれども。
 
 
DRC リシュブール
 
 赤ワインで奇跡を起こしたのは、ロマネ・コンティ社の特級畑“リシュブール”だった。上のほうで紹介したように、この“リシュブール”では別のメーカーで手痛い目に遭っていたので、いっそ、最高級品で勝負しようと思ってこいつを購入してきた。
 
 このワイン、最初の30分間は木樽の匂いがするばかりで、口当たりがベトベトする以外は特徴の乏しい「60点」のワインで、「うわーまたもやハズレだー!死んだー!」と覚悟していたけれども、時間が経つにつれて味も香りも急成長して、数時間後には「神の雫」としか言いようのない、崇め奉りたくなるような神秘が目の前に現れて、部屋じゅうが奇跡の香りに包まれた。めちゃくちゃ高価なワインだったけれども、このとき、私のワイン評価尺度は5000点満点から20000点満点に変更された。ここまでのワインには、もう二度と巡り合えないかもしれない。
 
 

起こらないから「奇跡」っていうんですよ

 
 こんな具合に、高級ワインは評価尺度を根底からひっくり返すような「奇跡」を起こす。高級ワインには当たりはずれがあって、飲み物としてのコストパフォーマンスは最低最悪だ。しかし、たまさか100点満点を限界突破すると、“どうして地上にこんな飲み物が存在するのか?”“このワインの味と香りに、果てがあるのか?”と問いかけたくなるような、「奇跡」が目の前に現れる。
 
 私にとって、高級ワインを買う行為は、この「奇跡」をお招きするためのギャンブルに近い。今風の言い方をするなら、“「奇跡」のガチャ”ってやつである。高級ワインのボトルには、「奇跡」が詰まっているかもしれないし、詰まっていないかもしれない。確かめるには、実際に買ってみて、保存してみて、飲んでみるしかない。でも、やめられない。なぜなら、「奇跡」を目の当たりにしてしまったから。「神の雫」に出会ってしまったから。年に1回でもいい、どうか、ワインの神様、「奇跡」をこの手に!!
 
 残念ながら、「奇跡」は頻繁には起こらない。20000点満点になってしまった今、この点数を超えるワインに出会うのは(経済的にも)不可能に近い。
 
 それでも構わない!
 
 おいしいワインを手堅く選びたいなら、100点満点の内側で鉄板のワインを選んでいればいい。だけど“「奇跡」のガチャ”を回すなら、手を突っ込むしかない! 裏切られても! 痛めつけられても! ギャー! 痛ってええええええ!!
 
 
 
 
 ※おことわり※
 この文章に登場するワインの銘柄・畑名は実体験に基づいていますが、リンク先のワインショップ、およびヴィンテージは実体験と異なっています。私には、リンク先のワインショップの同銘柄の保存状態や「奇跡」の度合いはわかりかねることを、お断りしておきます。

 

*1:たぶんメーカーさんに罪はない。飲むのが早すぎたか、別の要因。

結局、大事な情報は人が持ってくる

 
 今年は、googleの検索結果が「まとめサイト」や「キュレーターサイト」に占められて使い物にならない、みたいな話をたくさん聞いた。そういえば私自身も、google検索が完全には頼りにならない、いや、検索するのが面倒になったと最近感じていた。
 
p-shirokuma.hatenadiary.com
 
 2013年の頃、私は「google検索は、検索する人間の能力に応じて、熟練者には森羅万象を、ビギナーにはありきたりなものをみせる」と書いていた。だが、うまい検索ワードを思いつく能力が落ちてきたのか、ここ一年ほどは役に立たない記事を拾うことが増えて、自分のgoogle検索の腕前の衰えを嘆いていた。
 
 だが、それだけではなかったらしい。google検索が「まとめサイト」や「キュレーターサイト」に“汚染”されていた部分もあったかもしれない。
 
 そうしたなか、私がインターネット上の情報源として本当に頼りにしていたのは、結局「人」だったと思う。
 
 はてなブックマークのお気に入り機能からは、選りすぐりのはてなブックマーカー達が、欲しい情報を持ってきてくれる。長年かけて選んだ人達だけあって、彼らのブックマークがもたらしてくれる記事や情報は、私が必要としているもののことが多い。また、それ以外のブックマーカーも、ときに気の利いたURLを貼り付けてくれたりして、なかなか参考になる。
 
 twitterだってそうだ。何年もかけて選び抜いた約400人の情報源は、自分自身にとって価値ある情報を次々にツイート、またはリツイートしてくれる。フォローしている人達の外側にも、直接フォローはしていないけれども「この人が見つけてきたものには注意すべし」なアカウントがひしめいている。twitter検索も相まって、twitterもありがたい情報源になった。
 
 そしてニュースサイト。今年はniftyのホームページ閉鎖の余波を受けて「まなめはうす」が更新停止となったが、いざ更新が止まってみると、いかに自分が情報源にしていたのかを痛感させられた。私は「かとゆー家断絶」「まなめはうす」「かーずSP」を専ら使っていたが、そのうち二つが止まってしまった。ニュースサイト管理者には、それぞれの“癖”があり、それぞれのサイトならではの偏りがある。そのことも含めて、本当の意味で彼らはキュレーターと呼んで良い活躍をしている(していた)のだと思う。機械がではなく、人が、情報を選りすぐっていたのだ。
 
 

人に頼って、機械に頼って、また人に頼って

 
 google検索に初めて触った時、私はたちまちgoogleの虜になった。リアクションが早く、yahoo検索やgoo検索では引っかからないものも拾い上げてくれるgoogle検索は、夢のような道具だった。インターネットを見渡す視界が一気に広がったように感じた。個人サイトのリンク集を“ネットサーフィン”する習慣は、googleを使い始めた頃から無くなっていった。そして検索ワードを工夫するとgoogle検索がそれに応えてくれるとわかるにつれて、「googleを適切に使えば調べものはだいたいできるし、新しいこともカヴァーしてくれる」と感じるようになった。そういう感覚は、はてなブックマークやtwitterを使い始めてからも、すぐには変わらなかった。
 
 ただ、2010年代のいつ頃からか、私はgoogle検索にもどかしさを感じるようになった。googleでは検索しきれない情報が気になるようになった。それは、私が検索ワードの工夫を怠るようになったからかもしれないし、既に「まとめサイト」や「キュレーターサイト」にgoogle検索が汚染され始めていたせいかもしれない。あるいは、ネットのオープンな領域に記されていないような情報を私が欲しがるようになったせいかもしれない。
 
 なんにせよ、google検索という機械に頼っていたはずの私は、再び情報源として人に頼るようになっていった。はてなブックマーク。twitter。個人のサイトやブログ。自分自身にとって本当に大事な情報は、そういった情報を握っている人を探し出し、彼らをフォローしたほうが手っ取り早い気がしてきた。少なくともインターネット上で期待するような情報は、google検索という機械をとおして探すだけでは足りない――とりわけ、2016年のような状態では。もし、インターネット上で情報面で事欠かないようにしたいなら、自分にとって必要な情報を握っている人を発見し続け、フォローし続けるのが肝心だと思う。
 
 言い換えると、はてなブックマークのお気に入りを自分で整理すること、twitterやSNSのフォロー範囲をきちんと手入れすること、そしてネットサービス単位や企業単位で情報源の価値を判断するのでなく、人単位やアカウント単位で情報源の価値を判断し、そのような人やアカウントをフォローするようなかたちで視界をカスタマイズすることが、これからも必要なんだろう。これまでと同様に。
 
 もちろんgoogle検索はこれからも必要だ。それでも、google検索がもたらすものにも偏りがあって、大企業までもが「まとめサイト」「キュレーターサイト」といったもので検索源を上流から“汚染”している現状では、地道に人を追いかけなければ、インターネットから得られる恵みはごく限られてしまうだろう。
 
 今年は「キュレーター」という言葉が広まり、いつの間にかネガティブワードと化したけれども、はてなブックマークやtwitterでは一人一人がキュレーターみたいなものだし、本来、ネットのキュレーターってのはそういうものではなかっただろうか。そして、その一人一人のキュレーターを評価し、自分自身にとって最適な情報源として編成していく責任――いや、権利と呼ぶべきだろうか――は私達自身にあったはずだ。結局、情報は自分で追いかけなければそれなりのものしか入って来ないし、大事な情報は人が持ってくる。だから来年も、「ありがたい記事」や「自分にとって必要なネットサービス」を追いかけるのでなく、「ありがたい人」「自分にとって必要な人」を追いかけて、フォローしていきたいと思う。
 
 インターネットでは、情報を探すより、人を探したほうが手っ取り早いのかもしれない。