シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

シン・ゴジラを、「子どもに見て欲しい」と思った。

 

 
 週末、シン・ゴジラをやっと見てきた。
 
 「百聞は一見にしかず」とは言うけれども、本当に素晴らしい作品だった。何度も繰り返される会議も、自衛隊や米軍の勇戦も、ビルが崩れ街が燃えるさまも、すごく楽しめた。
 
 私は特撮映画をそんなに見ていないけれども、ゴジラに新幹線や在来線がぶつかる描写をはじめ、良い具合にデフォルメが効きまくっていて、ものすごく気持ち良かった。「怪獣が暴れるということ」「大型建造物が壊れるということ」がこんなに心地良かったなんて! 大量破壊シーンや戦闘シーンだけでも、映画のチケット代の元がとれたように感じた。
 
 それ以上に嬉しかったのは、たくさんの登場人物がことごとく主人公に見えたことだ。物語の目立つところは政治家や科学者や自衛隊員達によって占められていたし、彼らの演技に目を奪われた。でも、お茶を入れるおばさん、ゴミを回収するおじさん、工業プラントを動かしている従業員、避難する人々、そういう人達もみんなゴジラと戦っているように私には見えた。
 
 「ゴジラと戦っている」というより、「ゴジラという災難に対処する」と言い換えたほうが適切なのか。
 
 あのお茶くみのおばさんも、あのプラントで働いている従業員達も、避難する家族やお年寄りも、みんなゴジラという災難に対処していたのだ、それぞれに課せられた仕事や役割のなかで。そうした責務が無数に積み重なって、ゴジラという災難が克服されていった。
  
 超映画批評の前田さんが「日本対ゴジラ」と仰っていたけれども、実際、そうだったと思う。少数の凄い人が活躍する物語ではなく、避難する人々も含め、みんなが主人公の、みんながヒーローの物語。みんながゴジラと戦っていた、いや、対処していた。
 
 人智を越えた災難の前に人間は脆く、会議や承認を必要とする制度は後手に回りやすく、懸命の努力にも関わらず、たくさんの犠牲が出た。それでも、その限られた人間の力が無数に積み重なってゴジラという災難が乗り越えられていった。なんという人間ドラマだろう! 「シン・ゴジラは人間描写が薄口な作品」と言う人もいるかもしれないが、「みんな」に着眼して眺めるぶんには、十分すぎるほど人間描写の利いた作品だったと思う。私には、戦闘ヘリのパイロットの姿も、新しい避難場所を求める消防隊員の叫びも、逃げ遅れた家族も、「みんな」の人間模様を描写する壮大なジグソーパズルの一片とうつった。バラバラの個人がバラバラに頑張っているようで、この作品ではぜんぜんバラバラじゃない。
 
 もちろん、みんなが主人公にみえるということ自体は一種のご都合主義だし、このようなご都合主義が気に障る人もいるだろう。なにより、私のメンタリティを反映した「個人の感想」であることは間違いない。
 
 けれども、このご都合主義によって、少数の有能なヒーローが怪獣を打倒する物語とは一線を画した、私好みのフレーバーが生み出されているのは間違いなかった。個人の才能が活躍する作品も好きだが、こういう作品も痺れる。
 
 

「信頼できる大人の後ろ姿」としてのシン・ゴジラ

 
 なにより私は、シン・ゴジラを子どもに見てもらいたいなぁと思った。子どもの手が届く場所に、こっそりDVDを仕掛けておきたい。
 
 シン・ゴジラには、子どもには楽しみにくい要素が少なからずある。冒頭の会議ラッシュもそうだし、日米の駆け引きや科学サーベイのシーンなどもそうだろう。だから、シン・ゴジラを(たとえば)小学生が見たとして、どこがどこまで記憶に残るのかはわからない。
 
 けれども、この作品に出てくる人々の懸命な姿、無数の主人公達が、粛々と責務を果たして難局を乗り切っていく姿は、子どもの記憶の引き出しのどこかに残って、何かの足しになるのではないだろうか。
 
 私は、この作品に登場する大人達の姿*1を子どもに見てもらいたい。
 
 子どもが現実世界で見知っている大人の姿は、汚かったり、情けなかったり、不信に満ちていたりするかもしれない。いや、それもまた大人の本当の姿だから、子どもが大人をそのように眺めること自体は否定されるものではない。子どもは馬鹿じゃないから、大人社会の矛盾、不備、汚さを、かなり幼いうちから、どんどん読み取っているだろう。
 
 けれども大人社会は、そういう汚くて至らなくって不信なものだけで構成されているわけではない。一見バラバラで利己的な個人も、ある部分では、社会のルールを守り、それぞれに課せられた仕事や責務をまっとうして生きている。そうした個人の営みの集大成として、社会は一定の信頼と弾力性をもって維持されているし、難局に際しては、そういった「みんなが社会のなかで課せられた役割をどのように守っているのか」が問われることになる。
 
 作中、「この国にはまだ優秀な若者がたくさんいる」という台詞が出てきたけれども、その優秀な若者を育てて支えているのも、一部の有能なヒーローやエリートだけではなく、市井の人々だ。親として子どもを育てているか否かに関わらず、それぞれがそれぞれに課せられた役割や責務をまっとうして暮らしていること、それ自体が「次世代を育てる」大前提になっている。もちろんこれは原則論で、実際にはそれだけで上手くいかないし、事実、日本社会では子育ての困難な社会状況が深刻化している。それでも、次世代の若者が育っていけるのは、ありとあらゆる「みんな」が自分自身の役割や責務を守っているおかげだということは、忘れてはいけないのだ。
 
 シン・ゴジラは、そういう「みんな」がそれぞれの役割や責務を背負って頑張っていること、そうやって社会が回っていることを、「良いこと」として描いた作品だった。結局それが、ゴジラのような災難に対処する土台になっていることを、力強く描いていたと思う。どんな仕事にも役割があり、どんな人にも背負った責務があるということ、それを大人が守っていくことは基本的に良いことであることを、シン・ゴジラは思い出させてくれた。
 
 大人のスキャンダルが耳目を騒がせがちな昨今、シン・ゴジラで描かれたような、それぞれが役割や責務をまっとうしていく姿は、理想にもほどがあるし、個人主義の思想に馴染まない部分もあるかもしれない。だが、そういった部分を差し引いたとしても、汚さや不信に流されて見失ってはいけないものをシン・ゴジラはみせてくれたと私は感じたし、大人というものは、大人が役割や責任を引き受ける後ろ姿を子どもに示していかなければならないのだとも思う。次世代の成長は、シン・ゴジラに登場したような、懸命に役割や責務をまっとうする人々によって準備され、守られなければならない。
 

*1:いや、本当は子ども達もだ。避難場所で眠る子ども、疎開するバスに乗り込む子どもも、この作品の立派な主人公だ

「イケメンは話がつまらない」を男性側から考える

 
 
 
なぜイケメンは話がつまらなく、セックスが下手なのかを考えた時の話。
 
 面白く読みました。
 
 リンク先のElly大使さんによれば、“イケメンは話がつまらなく、セックスが下手”なんだそうです。ところが男性には、これがピンと来ません。セックスのことはわかりませんが、話に関しては、喋っていて退屈しないイケメンなんていくらでもいるし、見た目の良し悪しと話の面白い面白くないは関係無いんじゃないの? と思わずにいられなかったのです。
 
 Elly大使さんが使っておられるイケメンの定義は、
 

ここでいう「イケメン」とは、顔やスタイルといった見た目が良い男性はもちろん、背が高くてなんとなくカッコイイという、雰囲気イケメンも含みます。

 というものですが、こういう条件に当てはまり、しかも話も面白い男性に私は何度も会っています。特に、オフ会で初対面の男性が「イケメン」だったからといって、そいつがつまらなかった記憶はありません。イケメンでつまらない男性がいないわけではありませんが、つまらない奴が多いとは感じません。
 
 

どうして「イケメンは話がつまらない/つまらなくない」という差異が生じるのか

 
 ここで「Elly大使さんが間違っている」「いや、私が間違っている」と考えるのは建設的ではないでしょう。「イケメン」に対する捉え方がこんなに違っているのは、きっと理由があるはずです。
 
 男性にとってつまらない男性と、女性にとってつまらない男性って、だいぶ違うのではないかと私は思います。
 
 男性側からみてつまらないのは、話題の豊かさや共通性、ユーモアの面白さ、コミュニケーションへの参加性、ノリの良さ、といったものを欠いている男性です。それらを欠いていれば欠いているほど「つまらない」でしょう。だから、リンク先冒頭の、
 

イケメン男子:「俺、メチャクチャ結婚したいんですよー。でも出来ないんっす」
横の独身男性:「何言ってんの、お前ならすぐに結婚できるでしょー。」
イケメン男子:「いや、そんなことないっすよー。」

 この会話などは、二人ともコミュニケーションに参加していてノリも合わせているので、お互いにそんなにつまらないとは感じていないと思います。私が似たような集まりで似たような会話をしていたとしても「こいつはつまらない男性」という烙印は押さないでしょう。話題やユーモアに難があったとしても、コミュニケーションにしっかりついてきてノリが良ければ、それほど悪い評価にはなりません。本気で「つまらない」と評価せざるを得ない男性は、話題も、ユーモアも、コミュニケーション参加性も、ノリの良さも、なにもかも欠いています。
 
 また私は、イケメンのほうが色々スポイルされてコミュニケーションが下手くそになっている、という印象も受けません。少なくとも男性同士のコミュニケーションではそうです。スポイルされた駄目なイケメンがいるのも事実ですが、ルックスが平凡な男性にも、プライドばかり高く、突っ込まれることにビクビクしていて、話題づくりにも雰囲気づくりにも全く役に立たない人が沢山いますからね。
 
 じゃあ、女性側からみてつまらない男性とは?
 
 どうなんでしょう? 女性が男性を評価するポイントと、男性同士が評価しあうポイントって、ズレがあるような気します。女性にしたって、男性が女性を評価するポイントと、女性同士が評価しあうポイントは違うじゃないですか。「男性にはすごく受けるけれども、女性同士の間では見下されやすい女性」とか、そういうやつです。それと同じ現象が起こっているのではないでしょうか。
 
 異性の壁を超えて「面白い/つまらない」を考える時に割と重要なのは、「異性の関心を惹くための意志と実践の有無」だと私は思います。
 
 男性であれ女性であれ、異性に受けやすい人って、多かれ少なかれ「異性とコミュニケーションするための意志と能力を持っていて、実践もしている」と思うんですよ。男性と女性では、面白さのツボも、望ましい話題も、期待する雰囲気も、関心も、それなり違いますから、そういう男女の違いを乗り越えるための実践ができている人は、異性からみて相対的につまらなくない(=面白い・魅力がある)と見做されやすいはずです。男性同士のコミュニケーションの雰囲気やノリから一歩もはみ出さず、女性とのコミュニケーションに気を遣おうとしない男性などは、女性には非常につまらない存在ではないでしょうか。同様に、女性同士のコミュニケーションの雰囲気やノリから一歩も歩み寄ろうとしない女性も、男性にはつまらない存在とうつるはずです。
 
 もちろんそれだけで「モテ/非モテ」が決まってしまうわけではないので、女性に気を遣おうとしないイケメンが外見だけで女性にモテて、そういう連中が女性に「つまらないイケメン」と見做されることはあるでしょう。同じ理屈で、見栄えは良いけれども男性に気を遣おうとしない女性が男性にモテることもあり、「つまらない美女」という印象を与えることもあります。異性とコミュニケーションするために日夜努力している人達からみれば僻みたくなる人種ですが、そうやってルックスの良さにあぐらをかいたまま年を取っていく美男美女は、あぐらをかいてきたツケを後で支払うわけですから、彼らには彼らなりのリスクがあると言わざるを得ません。
 
 だんだん話が脱線しますが、あまりにもルックスが良すぎて異性に関心を持たれやすい美男美女ってのも、それはそれで生きるのが大変なんでしょうね。どんどん寄って来る異性といちいちコミュニケーションしていたら疲れてしまうでしょうから、できるだけ異性を寄せ付けないように、むしろつっけんどんな態度を取らざるを得ない部分もあるでしょう。そういう処世術を余儀なくされる男女が、いわゆる「高嶺の花」とみなされるのでしょう。
 
 でも、そういう処世術って、学生のうちだけでなく、歳月を味方につけ、魅力を身に付けてきた男女でも同じだと思います。若いうちから魅力に恵まれたのであれ、地道な努力で魅力を獲得したのであれ、意中の異性のハートさえ掴んでいれば、それ以上異性に好かれてもメリットは乏しいわけですから、「ほんとうは魅力的だけど、なるべく魅力を見せびらかさないようにしている男女」ってのも案外いるんじゃないかと私は勘ぐっています。
 
 

「魅力をまき散らしているアラサー・アラフォー男女」について考える

 
 ここまで考えると、じゃあ、「魅力をまき散らしているアラサー・アラフォーの男女」とは一体何なのか、ちょっと考えてしまいます。
 
 それなりの年齢を迎え、魅力を身に付けてきた男女であれば、なんらかパートナーが付き添っていてもおかしくありません。だというのに、わざわざ異性を魅了してやまない魅力をまき散らしているアラサー・アラフォーの男女とは、どういう存在なんでしょうか?
 
 タイプとしては二つに大別されると思います。 
 
 ひとつは、あまりにも魅力を積み重ねすぎて、隠し切れないほど魅力が湧き出てしまうタイプ。あまりにも人間力が高くなってしまい、どうにも異性を引き付けてしまうおじさんやおばさんです。ルックスメインで異性を引き付けてしまう男女も罪作りですが、人間として、あるいは社会人としてクンフーが極まってしまって異性を魅了してしまう男女も、なかなか罪作りな存在です。
 
 もうひとつは、その年齢になっても異性を魅了したい動機や事情がまだ残っているタイプ。一定の年齢になっても異性をアトラクトせずにいられない背景は、未婚主義者だったり、身辺がだらしなかったり、ナルシストだったり色々でしょうが、魅力や人間力の高さだけでなく、異性の関心を惹くための意図が働いている兆候がどこかに見つかるはずなので、そこが識別のポイントになります。
 
 まあ、魅力や人間力が高すぎる人も、何歳になっても色恋沙汰の火種をつくってまわる人も、それはそれで怪物みたいな存在だと私は思いますし、私なら、ちょっと距離を置いてお付き合いするでしょう。ある程度の年齢の魅力的な異性ってのは、少し距離を置いた人間関係でも十分面白いものですし、へたに近づくよりは安全です。
 
 「魅力」とか「おもしろさ」って、あればあるほど良いってわけでもないし、他人に期待すればするほど楽しいってわけでもありません。ところが、少なくない人が「魅力」や「おもしろさ」を自他に求めてしまって、執着の泥沼でぬかるんでいるわけですから、人間関係の執着とは、つくづく難しいものですね。
 

ブログが書けない時は無理して書くな、それでも書きたいなら他人に「絡め」



 
ブログを書けないときの「症状」と「対策」 - ビジョンミッション成長ブログ
 
 リンク先、読みました。「ブログが書けない時の対策」ってやつですね。
 
 私も「ブログが書けない時の対策」については何度も考えました。私は月に6~15回ほどのペースでブログを更新していますが、実際には、ぜんぜんブログが書けない月もあります。定期的に更新しているようにみえるのは、「書ける時に下書きをたくさん完成させてストックしておく」「ストックのなかから、時事のタイミング的に好ましいものを微修正して公開する」をやっているからです。
 
 「ブログが書けない時の対策」を考えるより、「ブログが書ける時に下書きをストックしておく」「下書きの手前ぐらいのアイデアを大量生産しておく」ほうが良い人もいると思うんですよ。
 
 コツコツとブログ記事を書き進めるタイプの、淡々としたブロガーなら、「ブログが書けない時の対策」を正攻法で実行するのはアリだと思います。でも、私のようにテンションに波があって、「頭のてっぺんの魔法のランプが点いている時に怒涛のように文章が沸いてくる」お調子者なブロガーは、「ブログが書けない時は書けないものとして諦める」「書ける時にできる限り書いておく」ほうが、脂の乗った文章がつくりやすいと思うんですよ。
 
 もちろん「ブログが書けない時」にも手は動かしていますよ? 砂を噛むような文章しか書けない時も最低限の練習はしておきたいし、ある種の“原稿”はテンションが上向くのを待ってくれないし。
 
 それでも、ブログが書けない時は書く時間を減らし、本を読んだり、外に遊びに行ったり、誰かに会ったりしたほうが、結果としてブログって面白くなると思うんですよ。よく言われているように、面白いブログを書くための第一の秘訣は、ブロガー自身が面白いコンディションを保つことです。ブログが書けない時は、外で面白さをチャージしましょうよ、絶対そのほうがブログが楽しくなるし、長続きもするんじゃないですかね。
 
 

他人に「絡む」と「文体の制約」から自由になれる

  
 それでも、どうしてもブログ記事を書きたいなら、他人に絡めばいいんです。
 
 どこかのブロガーでもtwitterアカウントでもいいから、とにかく、他人に言及するとブログ記事は書きやすくなります。なにか言ってやるんですよ、どこかに言及しちゃうんですよ、もうそれだけで記事のできあがり。
 
 不特定多数に向けてブログ記事を書くときは、「皆様に、ご意見披露」みたいな文体になっちゃうじゃないですか、あれって、すごくブロガーを束縛していると思うんですよ。意見や感想の語り口が、「不特定多数に読んでいただく」文体によって縛られてしまう。
 
 この「不特定多数に読んでいただく」という、ありがちな束縛をとっぱらう一番簡単な方法が、「特定の誰かに的を絞って文章を書く」「特定のidやアカウントに向かって手紙を送る」なんです。「不特定多数に読んでいただく」意識を取り払うと、今まで書きにくかったことがスラスラ書ける……なんてことが珍しくありません。
 
 だから私は、ブログが書けない時って、一人で悩んで頑張ってもしようがないんじゃないか、と思っています。誰かにお手紙をさしあげるように言及するか、いったんブログを棚上げして外に遊びに行きましょうよ。そのほうが活きの良いブログ記事が書けるし、ブログライフも続けやすくなると思います。ブログライフは長丁場ですからね、無理をして燃え尽きるのは得策ではありません。ブログを十一年ほど続けてきた私からは以上です。
 
 
 

本気で海遊びする人に必要なアイテム

 


 
 私は「海水浴」という言葉から女性の水着姿やビーチパラソルを連想しません。
 
 海といえば生物! せっかく大自然と向き合っているんだから、あれもこれも捕まえてキャッチアンドリリースするっきゃありません。本物の生物を探し、手にとって命の輝きを実感する。こんなに楽しいことがあるでしょうか。
 
 きちんとした海水浴場を選び、きちんとしたアイテムを身に付けて臨めば、素晴らしい体験が待っています。そういう、大人も子どももドーパミンが炸裂するような海水浴にあったほうが良いアイテムを、私なりに紹介してみます。
 
 
 1.マリンシューズ
  
 「海水浴で便利なアイテム」と問われたら、上位に「マリンシューズ」が来ると思います。こいつを履いていれば岩場も楽に歩けるし、ウニやガンガゼ*1を踏んで怪我するリスクも減らせます。「使い古しの靴下」で代用できなくもないけれど、本物のマリンシューズのほうが断然使いやすく、安全です。
 
 砂浜の海水浴場でも、尖ったものを踏む心配をしなくて済むし、砂の熱さも防いでくれるし、悪くないと思います。サンダルより安全。
 
 
 2.軍手
  
 マリンシューズと同じ理由で、軍手もあったほうが良いと思います。軍手があれば岩場で手を怪我しにくくなるし、トゲのある生き物を触る時にも安心です。ちゃんとしたマリングローブがベストですが、市販の軍手は本当によくできているので、ほとんどこれで代用できてしまいます。
 
 
 3.ラッシュガード
  
 海遊びに慣れている人がだいたい着ているアイテム。日焼けを大幅に減らしてくれて、海水で体温が下がるのも防いでくれます。砂浜で寝転がっている人には無用の長物ですが、水中で生き物を追いかけたいなら絶対あったほうが良いです。
 
 しかも、波に揉まれて岩場やテトラポットにぶつかった時のかすり傷も防いでくれるし、クラゲに刺されるリスクもだいぶ減らせます。こういう用途だと、本当はダイバースーツが最強なんですが、
 

 
 ダイバースーツってすごくかさばるし、着るのも脱ぐのも一苦労です。スキューバでは必須アイテムですが、海水浴~シュノーケリングならラッシュガードで充分かと。
 
 
 4.水中メガネ+シュノーケル
 

 
 水中メガネは、お金を払ったら払ったなりのものが得られます。このマンティスの水中メガネ+シュノーケルは本当に素晴らしい性能で、曇りにくく、呼吸しやすく、お勧めです。こいつを使い慣れると、水面にまったく顔を出さず、ずーーっと水中で行動できるようになります。ちなみにメガネの曇り止めは、ツバを(水中メガネの内側に)塗っておくだけでも大体大丈夫です。
 
 そこまでお金をかけたくない人やシュノーケルを初めて使う人は、
  

 
 こちらでも良いかと。とりあえず使えます。
 
 
 5.魚捕り網
  
 「素潜りで魚を捕まえたい!」って人には魚捕り網が必須ですが、ちゃんとしたものを選びましょう。
 
 ・柄の頑丈さ
 
 水中で網を動かす時には強い水圧がかかります。普通の虫取り網はスローがかかったようにしか動かせず、しかも、柄の部分が水圧に負けて壊れてしまいます。柄がアルミ製の、頑丈な品を選ぶべきです。
 
 ・ちょうど良い長さ
 
 海水浴で使う網は、柄が長くてもメリットがあまりありません。遠くのターゲットを捕まえようとしても、柄が長いぶん、網さばきがもたついてしまうからです。柄が短すぎても駄目ですが、長すぎても駄目。
 
 また、柄の長い網はほかの海水浴客にぶつかりやすく、泳ぐ際には重荷になります。1m前後の長さが実用ラインではないでしょうか。
 
 
 6.透明なバケツ
  
 せっかく捕まえた海の生き物、眺めて楽しまないともったいない! 普通の虫カゴでは、体長10cm以上の生き物、例えばワタリガニや大き目のヤドカリを捕まえた時に対処できません。でも、このサイズのバケツなら大抵の生き物がおさまります。
 
 虫カゴは海水浴場への行き来の「お荷物」になりますが、バケツは他の荷物を運ぶ道具として役立ちます。帰りは、濡れた水着や水中メガネを放り込んでおけばいいわけですし。どうせ海の生き物は自宅には持ち帰れないので、とりあえず眺めるのに便利で、移動中のお荷物にならない透明バケツが一番優れていると思います。
 
 7.潮汐なび
 
潮汐なび

潮汐なび

  • hanitaro
  • 天気
  • 無料
 
 満ち潮・引き潮のギャップが小さい日本海側ではあまり問題になりませんが、太平洋側では潮の満ち引きを気にしたほうがいいと思います。大潮の時期の、満潮の時間帯は生き物ウォッチングに向いていません。
 
 ちなみに、現地の天気や水温は下調べしておくのは当然ですが、一般に、午後になると雷雲が発生しやすく波も高くなりやすいので、「天気予報をあてにできるのは午前中だけ」ぐらいの気持ちで臨んだほうが良いように思います。潮位にもよりますが、「朝早くに現地到着、お昼頃にはあがり」がベストかと。
 
 
 8.水分と電解質を補給するアイテム
  
 海水浴を本気でやるなら、脱水対策は必須です。水分や電解質を補給してくれる飲み物を必ず用意しましょう。糖類の入った品がおすすめです。
 
 ビールやチューハイは飲んではいけません。アルコールによる感覚の低下は事故のもとです。海は素晴らしい場所ですが、危険な場所でもあります。お酒が飲みたい人は、宿や家に戻ってからやりましょう。
 
 
 9.真水のペットボトル(自動車を使っているなら、そして田舎の海水浴場なら)
  
 自動車で海水浴に出かけるなら、2lの空のペットボトルに真水を入れたものを積んでおきましょう(リンク先は飲料水ですが、もちろん水道水で構いません)。
 
 生き物の豊富な海水浴場はしばしば田舎で、海の家の設備が乏しい・駐車場しかない場所もあります。そういう海水浴場から帰る際、とりあえずで塩気や砂を洗い流したい時には真水のペットボトルが重宝します。
 
 通い慣れた海水浴場でも、駐車場に戻ってから真水で何かを洗わなければならないことは時々あるので、1~2本ぐらいは積んでおいたほうがいいかも。見知らぬ田舎の海水浴場に挑むなら、(ネットであるていど下調べをしたうえで)充分な数を積んでおきましょう。
 
 

ちゃんと準備して、すばらしい体験を

 
 これらの「普通の海水浴場で、普通に遊ぶ」には要らないものばかりです。けれども、もう少し海を楽しみたい人・海の生き物をウォッチしたい人にはあったほうが良いものばかりです。
 
 海は、生命の息吹きを感じさせてくれる場所であると同時に、人をさらってしまう危険と隣り合わせの場所でもあります。ちゃんとした道具を選んで、怪我や事故のリスクをできるだけ減らして遊びましょう。もちろんマナーはきちんと守って。
 
 ちなみに、個人的な経験則では、長崎の原爆記念日より後に海水浴に行くのはお勧めしません。「お盆過ぎの海は危ない」と言われますが、最近はクラゲが早く湧くようになったので、2016年なら次の週末(8月7日)までが絶対にお勧めです。スケジュール的に間に合いそうにない人は来年チャレンジしましょう。
 
 
 ※追記:日焼け止めも書いておけよ、という声があったので日焼け止めも。あまりにも当たり前に思えるかもですが、たしかに必須アイテムです。首や背中だけじゃなく、耳にも塗ろうね!
 

 

*1:伊豆以南にいる、特別に尖ったウニ。ムラサキウニやバフンウニよりもずっと危ない

「スマホやSNSが生み出した権力」と、その行方

 
 こういう問題は誰かがまとめていそうだけど、それらしい文献を知らないので書く。
  
町山智浩 共和党大会とオルタナ右翼とゴーストバスターズ出演者ヘイトを語る
 
 上記リンク先は、町山智浩さんによるアメリカのレポートだ。
 
 これが、アメリカだけの出来事ならまだいいが、対岸の火事にはみえない。日本もヨーロッパ諸国も、それぞれの“お国事情”に沿って不安定な政情になっている。たぶん、こうした運動に賛成している人も反対している人も、「何かがひっくり返るかもしれない」という気持ちは持っていると思う、それが期待か不安かはさておいて。
 
 どうして世の中はこうなってしまったのか。その背景には、グローバリゼーションの浸透とか、パックスアメリカーナの後退とか、いろいろな要因があるんだろうけれど、インターネットやSNSもまた、今日の風景をつくりあげた重要なもののひとつだと思う。
 
 

インターネット、SNS、権力

 
 まず、権力とは何か。
 
 突き詰めて考えると、「人に何かを語って聞かせられること、人に影響を与えられること、人を集められること、人を束ねられること」が権力だ。この原理は、人類が棍棒を持ってうろついていた頃も、特権階級が記念碑を立てていた頃も、活版印刷が発明された頃も、新聞やテレビやインターネットが普及してからも、全く変わっていない。
 
 政治家だけが権力者なのではない。影響力や伝染力や説得力を獲得するにつれて、テレビタレントや弁護士や宗教家のたぐいも権力者としての性質を強めていく*1。また、逆のことも言えて、影響力も伝染力も説得力も持たなければ権力から遠くなるし、過去に権力を独占していた勢力ですら凋落を免れない。
 
 で、インターネットとSNSの時代がやってきて、誰が権力者になったのか?いや、インターネットとSNSによって、どういう新しい権力が生まれたのか?
 
 政治家を除いて、インターネットやSNSが普及する直前に権力者だったのは、メディアにかかわる仕事をしている人達だった。20世紀後半の、あの肩で風を切って歩くようなメディア業界の栄華は、経済的成功だけでなく、彼らの絶大な影響力にも支えられていた。出版や放送に携わる人達によって、人に何かを語って聞かせる力、人に影響を与える力、人を集める力、人を束ねる力は寡占されていた。
 
 ひとことでメディア業界と言っても、もちろん右派や左派*2といった思想信条の違いはあった。ただし、留意しておかなければならないのは、メディアにかかわる仕事をしている人達とは、少なくとも20世紀後半においては、中産階級的な価値観をよしとするホワイトカラー層によって占められていた、ということだ。当時も低俗なゴシップ誌や怪しい番組はあったにせよ、それでも思想信条のある次元において、おおむね均質な人達によってメディアは営まれていた。言い換えると、メディアは中産階級的な価値観のフィルターに濾過されるものだったとも言い換えられるし、中産階級的な価値観によって権力が寡占状態に置かれていた、とも言える。
 
 ところがインターネットやSNSが普及したことによって、この権力の寡占状態が破壊されてしまった。
 
 人に何かを語って聞かせる力、人に影響を与える力、人を集める力、人を束ねる力は、メディア関係者の寡占物から、ネットユーザーそれぞれに分け与えられることになった。特にスマホとSNSがもたらしたインパクトは大きい。
 
 「スマホやSNSで生み出される権力」の特徴は、「シェア」ボタンや「リツイート」ボタンで誰もが権力の分け前に与れることだ。
 
 SNS以前のインターネットでさえ、そこでなんらかの権力を獲得するためには、言語や文章に親和性が高くなければならなかった。「一定以上の文章を読み」「一定以上の文章を書ける」ような、いわば学校制度のなかで十分以上の成績が取れそうな人達によって権力が寡占されがちだった。当時のインターネットで持ち得る権力など、たかが知れていたが、それでもネットで生起する権力には《読み書き能力という意味の》リテラシーがしっかり結びついていた。
 
 
2chでさえそうだ。2chが権勢を誇示する「祭り」は、読み書き能力のある人間がスレッドに何かを書き込まなければ起こらない。「祭り」を支えていたのは「少なくとも何かを書ける、文章にできる」人間だったことを忘れてはならない。
 
 だが、SNSは違う。「シェア」ボタンや「リツイート」ボタンには「何かを書ける、文章にできる」能力も、手間暇も要らない。ボタンひとつで気に入った発言の拡散に参加できる。気に入った発言の拡散に参加できる=モノが言えるということであり、言葉が飛び交うメディアに権力を投射できる――あるいは“投票できる”と言い直すべきか――ということでもある。これまでメディアの傍観者になるしかなかった人達も、SNS時代には「シェア」や「リツイート」によって、簡単にメディアに参画できる。
 
 もちろん、「シェア」や「リツイート」で最も大きな権力を獲得するのは、相応の文章やメッセージを作成できる人間だが、それだけではなくなったのだ。「シェア」や「リツイート」は、ボタンを押す人間に少なくともボタン一回分の“投票権”を提供する――これは、既存メディアにも00年代前半のインターネットにも無かった機能だ。今までは声をあげようにもあげられなかった人、学校制度のなかで劣等生のレッテルを張られていた人も、メディアに参画し、なにが正当でなにが不当なのか、なにがアリでなにがナシなのかの議論に参加できるようになった。また、忙しすぎてメディア空間からもデモンストレーションからも遠ざけられていた人達も、隙間時間でメディアに参画できるようになった。
 
 だから、スマホとSNSが普及した社会は、「言論の自由」を謳いながらも専ら中産階級的なフィルター越しにメディアが営まれ、読み書き能力や時間に恵まれた人に権力や影響力が寡占されていた社会よりも、ずっと「言論が自由」な社会だとも言えよう。
 
 

本当に「言論が自由」になった顛末

 
 それで何が起こったのか? 
 
 はじめのうちは、好ましい兆候が大きく報道された。
 
 「オバマ大統領がインターネットを活用した」「インターネットがイスラム国家の民主化を促した」――そういったニュースが世界を駆け巡った。これらは、これまでメディアを寡占していた人達にも心地よいものだったろう。
 
 ところが今はそうでもない。
 
 インターネットの権力やSNSの権力は、先進国の秩序*3に挑戦する人達にも、人に何かを語って聞かせる力、人に影響を与える力、人を集める力、人を束ねる力を与えてしまった。危険なテロリストも、過激な主張を繰り返す政治家も、いまではインターネットやSNSを使って人を集めるテクニックに長けている。
 
 そして、彼らを支えているのは、従来なら何も言えなかったであろう人達だ。まともなメディアが決して取り合わなかった意見や、中産階級的なフィルターで濾過されていたであろう意見までもが、「シェア」や「リツイート」によってダイレクトに集合し、集まっただけの権力をつくりあげるようになった。そして東京オリンピックのロゴ問題が象徴していたように、ネットメディア上でできあがった権力のクラウドは、一昔前ならひっくり返るはずがなかったことまでひっくり返してしまう。
 
 [関連]:私は、弾劾のプロセスとネットの性質に戦慄したんですよ - シロクマの屑籠
 
 スマホやSNSが普及し、メディアに参画するためのハードルが徹底的に下がり、ノンフィルターでメディアが駆動するようになったことで、権力は多様化した。その結果として、既存の先進国の秩序からみて不安定な社会ができあがった。繰り返すが、私は「シェア」や「リツイート」が2010年代の混沌の主因であるとは思わない。しかし、スマホやSNSの普及、メディアに参画するためのハードル低下、中産階級によるメディア寡占状態の終焉が、現況の基盤のひとつになっていること自体は見過ごしてはならない。
 
 

じゃあ、どうすれば良いの?

 
 では、20世紀後半のような、平穏な先進国の秩序を取り戻すにはどうすれば良いだろうか。
 
 最もシンプルな方法は、メディアに参画するためのハードルを再びあげることだ。リテラシーのしっかりした、学校制度のなかで優等生になれそうな人達にだけスマホやSNSを与え、そうでない人からは取り上げてしまうのである。たとえば「シェア」や「リツイート」を資格制度にしてしまえば、先進国の秩序に反抗する者・疑問の声をあげる者は、うまく寄り集まれなくなるだろう。いっそ、インターネットを禁止してしまうか検閲制にしてしまうのも手だ。少なくとも国内のメディア空間は、これで既存の秩序をある程度取り戻せる。
 
 だが、これは禁忌の方法だ。自国民のメディア使用をひどく検閲している国のような、悪い例に倣ってはならない。
 


 こういう冗談を本気にしてはいけない*4

 
 いったん隅々にまで行きわたったメディアへの参画と権力を、人々から取り上げることなど不可能である以上、私達は、この、20世紀後半よりもずっと「言論が自由」になったメディア空間に立ち上がってくる新しい意見や権力を見て見ぬふりをするのでなく、条理を尽くして議論や衝突を繰り返し、相応の合意形成を目指していかなければならないのだろう
 
 残念なことに、現実のインターネットでは、合意形成のための議論よりもいがみ合いとセクト化のほうが目立っている。これは人間にありがちな性分にも因るだろうが、「見たいものしか見えない」SNSやインターネットの性質にも因っているのだろう。あるいは皆、社会不安の高まりのせいで、落ち着いた議論よりも感情的な非難によって精神的安定を求めたくなってしまうのかもしれない。これは、褒められた状況ではないと思うし、まして、「言論の自由」がテロや脅迫や拘束などによって妨げられることは絶対にあってはならない。
 
 スマホやSNSを作った人達が、権力を巡るこの状況をどこまで予測していたのかは、私にはわからない。どうあれ、時計の針は戻れない。これまではメディアの相手にもされなかった意見にも「言論の自由」が本当に行き渡った現在の状況は、少なくとも「言論の自由」という観点では喜ばしい事態のはずだ。その喜ばしい事態を、喜ばしい社会の構築に役立てられるのか、それとも社会の破壊に使ってしまうのかが、目下、私達に問われているのだろう。
 

*1:この観点で考えると、タレント政治家とは実に自然な存在だとわかる。彼らは政治家として立候補する前から影響力や伝染力や説得力を、つまり権力をかき集めているのだから。

*2:混沌とした2016年の社会では、もはや死語に等しいカテゴリである

*3:これは、中産階級~上流階級の人達に必要不可欠なものだ

*4:無粋な補足ですが、「では、20世紀後半のような、平穏な先進国の~」っていう上の文章も本気じゃありませんからね。私は禁止や検閲に反対です。