シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「枠内の個性」とその行方

 
cybozushiki.cybozu.co.jp
 リンク先のサイボウズ式さんで、就活についてインタビューを受けました!
 
 

「個性」「自分らしさ」は生き残っていた!

 
 今回、若い就活生のなかに「個性」というワードがまだ残っているらしい、ということに改めて感動を覚えた。
 
 自分の個性を売り込みたい・個性にあった仕事を選びたいといった願望は、90年代~00年代の若者には頻繁にみかけたし、私達の世代もそういう事を口にしていた。精神科/心療内科の外来診察でも、社会適応に行き詰まった人達から「自分らしい仕事ができていない」「自分がわからない」的な悩みを聴く機会は非常に多かった。
 
 ところが十余年が経って、私はそういう「個性」や「自分らしさ」の話をあまり耳にしなくなった。その背景には、私が地方郊外で働いていること、私自身が年を取ってしまったこともあるだろう。それを差し引いても、外来診察中などで「個性」や「自分」やアイデンティティについて悩みを耳にする機会も大幅に減った。さいきんの思春期青年期の症例で目につくのは、もっと抜き差しならない根本的な精神疾患や、いわゆる発達障害圏についての悩みばかりである。
 
 だから地方の国道沿いで生活しているぶんには、「モラトリアム人間の時代は終わり、ポストモラトリアム人間の時代が到来した」という見立てはだいたい合っているようにみえる。
 

モラトリアム人間の時代 (中公文庫)

モラトリアム人間の時代 (中公文庫)

ポストモラトリアム時代の若者たち (社会的排除を超えて)

ポストモラトリアム時代の若者たち (社会的排除を超えて)

 
 ところが今回、少なくとも首都圏の学生さん達が「個性」や「自分らしさ」の意識を持っていらっしゃる話を耳にして、正直、ホッとした。ああ、ここにはまだモラトリアムが残っている、自分が知っている思春期心性に近い性質が生き残っている、そういう感慨を禁じ得なかった。
 
 ただし冒頭リンク先でも書いたように、そういう「個性」や「自分らしさ」を模索する自意識は、もはや首都圏の選ばれた子弟だけが持てるものかもしれない。自己選択するための意志・能力・時間を兼ね備えた若者が、今の世の中に、一体どれぐらいいるだろう? 大学生の5割以上が奨学金制度を利用している社会状況のなかで、「個性」や「自分らしさ」を取捨選択する“ゆとり”を持っている若者は、ただそれだけで強者であり、選ばれた者ではないか。そして私が地方の国道沿いで出会う若者達の大半は、そのような“ゆとり”に恵まれない(相対的に)弱者ではないか。
 
 もちろん【首都圏=恵まれている=強者】【地方=恵まれない=弱者】という二分法で説明できるものではなく、地方の若者にも「個性」や「自分探し」の片鱗は残っているのだろう……というかそう信じたい。しかし、こういう「個性」や「自分探し」の領域にも、いわゆる格差の問題がへばりついているようには感じられ、多数の青少年がモラトリアムに耽っていられた一時代が、とても豊かで、“一億総中流”の名に恥じないものだったと回想せずにはいられない。
 
 

「枠内の個性」

 
 さらに興味深かったのは、そんな「個性」や「自分らしさ」を模索している彼らが、「普通でありたい」という欲求を持ち合わせていることだった。一見、これらは相反しているようにみえるが、インタビュアーの伊藤さんの口から、両者を結び付ける鍵が飛び出してきた。
 

就活に限らず、基本的に「普通でありたい」と願っているような気がします。「枠内の個性」しか認められていない、という思いが土台にあって。周りのみんなもそうなんじゃないでしょうか。
たとえば、わたしは漫画が好きなんですが、わざわざ大学の友達に明かさなくてもいいかな、とか。就活においても、理想とされる就活生像と異なる部分を持っていても、わざわざ口にしなくていいや、とか。


「枠内の個性」。
 
 「個性」や「自分らしさ」を求めると言っても、野放図にやって良いわけではない。枠からはみ出した個性は自分自身も周囲も望まないし、尖り過ぎた個性がどのような命運を辿るのかは、学校生活が嫌というほど教えてくれている。
 
 すなわち、学校という空間ではコミュニケーション能力を駆使しながら、学校空間・教室空間という枠組み、あるいは秩序に則ったかたちでサバイブしなければならない*1。枠組みや秩序を破ることも不可能ではないが、そのような個人はコミュニケーション困難な存在とみなされ、孤独な境遇に耐えなければならず、教師もあまり肩を持ってはくれない。
 
 本当の意味で「個性」や「自分らしさ」に尖れば尖るほど、枠組みや秩序に適応しにくくなり、少なからぬ割合が不適応や不登校の憂き目に遭うことになる。
 
 だから学校空間・教室空間を順当にサバイブして、順当に進学し就職していく人達は、良くも悪くも枠組みや秩序を内面化し、枠組みや秩序に紐付けられた精神を育んでいく。枠組みや秩序になじみやすい「個性」や「自分らしさ」だった、と言い換えてもいいかもしれない。いずれにせよ、そういう粒揃いの人間が中学高校大学にうまく適応し、うまく進学していく以上、就活状況に適応する人達の大半が「枠内の個性」を内面化していることに不思議はない。
 
 しかし、伊藤さんのようにそういう「枠内の個性」を意識し言語化できることは望ましく、それを無意識の領域にのさばらせておくよりは安全で融通が利くと思う――「枠内の個性」を内面化しまくっているのに自覚が無いのが一番厄介で、そういう人は、枠組みをはみ出す可能性も枠外の人間を許容する可能性も非常に乏しくなる。
 
 

「枠内の個性」は出発点でしかない

 
 だから、「枠内の個性」の内側にいる人は、本当は「個性」や「自分らしさ」の振れ幅が小さいのだと思う。少なくとも思春期の時点ではそうだろう。思春期に「個性」や「自分らしさ」を体現しているのは、ドロップアウト組や退学組のほうではないだろうか。
 
 ところが、思春期の尖り具合は摩耗しやすく輝きを失いやすい。大芸術家級の例外をのぞいて、思春期の「個性」や「自分らしさ」は年を取るにつれて価値を失っていく。
 
 かわりに台頭してくるのは、思春期以来の「個性」や「自分らしさ」を小さな核として、雪だるま式に育っていく社会人以降の個性だ。核となる「個性」や「自分らしさ」は「枠内の個性」をはみ出していないかもしれないが、そこにキャリアや人間関係や家庭といった要素が堆積することで、社会人の「個性」や「自分らしさ」はかけがえのないものとなる。そして歳月を経て、雪だるまはどんどん成長していく*2
 
 かけがえのないものとは逃げようのないものでもある。が、とにかくも、その人だけの代替困難で修正困難な何かが出来上がってくる。「そのひとの歴史」も「そのひとの文脈」も、そこに現れてくる。人生は、一度きりだから。
 
 ただ、社会人になってからどのような「個性」や「自分らしさ」が立ち上がってくるのかは、やはり日々の積み重ねとコミュニケーションに左右されるので、よく品定めをしながら、できるかぎりクンフーを積んだほうが望ましいと思う。いや、品定めをし過ぎても良くないか? 塩梅が難しいですね。
 
 とにかく、なるようになるし、なるようにしかならないけれども、ただクンフーを積む意識――自分自身に最善を尽くす意識――だけは捨てちゃいけないと思う。クンフーを積む意識を捨てた社会人の「個性」や「自分らしさ」は、いじけたものになりやすい。かけがえのないものは意外とどこにでもあるけれど、クンフーを積むのをやめてしまう人のところには、良いものが堆積されにくいように思う。
 
 飽きてきたのでこのへんで。
 就活生のみなさん、頑張ってください。
 

*1:この枠組みや秩序には、もちろんスクールカーストも含まれる

*2:だんだん汚れた雪だるまになっていくかもしれないが、それは仕方のないことではある。もし完璧に身ぎれいな雪だるまができあがったら、それはそれは驚くべき雪だるまだが、無理にそうならなくても良いと私は思う。

「長生き」=「豊かさ」なんですよ、わかっているんですか

 
takasuka-toki.hatenablog.com
 リンク先は、ツッコミどころが多いけれども総論としては的を射ているなぁと思った。すごくブログ的な文章だと思う。
 
 さておき、リンク先への反論として「だけど貧乏な高齢者のほうが多いんですよ」というのは定番である。実際、高齢者同士の貧富の格差は著しく、老老介護を余儀なくされている家庭や無資格施設に“収容されている”高齢者の経済事情は厳しい。
 
 だからミクロな個人の問題としてみるなら、リンク先の「高齢者は列強諸国」「若者は植民地」という表現は誤りと言わざるを得ない。
 
 しかしマクロな世代の問題としてみるなら、「高齢者は列強諸国」「若者は植民地」的な要素は否定しきれないと思う。
 
 

みんな「長生き」=「豊かさ」を忘れてしまっている

 
 貧しい生活をしている高齢者もたくさんいるのに、なぜ、私は「高齢者は豊か」と書くのか。
 
 理由のひとつは、高齢者同士の格差は将来もっと悲惨になると推測されるからだが、のみならず、現在の高齢者がきわめて長寿かつ健康で、認知症やそのほかのハンディを医療技術や介護技術によってカヴァーしているからでもある。
 
 現代の高齢者は、とにかく長生きである。80~90代は当たり前で、100歳超えも珍しくない。昔の精神医学の教科書には「アルツハイマー型認知症は予後不良、五年以内に亡くなる人が多い」と書いてあったが、最近のアルツハイマー型認知症の患者さんは、レーガン大統領のごとく、十余年の歳月を生き延びる人もザラにいる。高齢者の多くは、病院に通って診察や投薬を受けながら、あるいは種々の健康診断などを利用しながら、とにかくも健康を維持して老後生活をおくっている。
 
 私は、このこと自体が現代の高齢者の「豊かさ」だと指摘したいのだ。
 
 命、とりわけ高齢者の命は無料で手に入るものではない*1
 
 高齢者の命は、医療や介護によって守られている。バリアフリーや宅配サービスといったアメニティも、部分的には高齢者の命を支えている。昭和時代には60代70代で死ぬ人が多かったが、平成時代に入って80代90代で死ぬ人が多くなった背景には、そうした諸々の進歩と普及があったことを忘れてはならない。
 
 医療・福祉分野の出費が増えているあれは、そのまま命の値段である。
 
 “お金を使って寿命を伸ばすのは、いい事に決まっている”と、みんながそう思い込んだ結果として、みんなが命にお金をかけるようになったから、医療費や介護費は天井知らずに増えていった。「命をお金で買う」ことを社会正義だと信奉している人にとって、今日の医療費の伸びは誇るべき成果である。たくさんの人の命がお金で買えるようになり、消えるはずの命もお金で延ばせるようになった、ということなのだから。
 
 しかし逆に考えると、平成時代の高齢者は、昭和時代の高齢者よりもずっと命をお金で買っている、命のためにお金を擲っている、ということでもある。これを「豊かさ」と言わずに、何と言うのか
 
 30代の9割が健康でいるために必要な医療費は、それほど高い金額ではない。しかし70代の9割が健康でいるために必要な医療費は、それよりずっと高い。つまり、70代の命の値段は、30代の命の値段よりも“割高”である。
 
 70代を迎えるお年寄りが少数派だった頃は、それでも大したことはなかったが、皆が70代を迎える社会では、その“割高”さが問題になり得るし、現に、大変な問題になっている。それどころか、80~90代のお年寄りもザラにいるのだから、「国民一人当たり医療費」という名の“相場”は高くならざるを得ない。その高い命の値段をみんなで負担して、とにかくも“命を買いまくっている”現状を、私は「豊かさ」だと言いたいわけである。
 
 私達は、高齢者それぞれを顧みて「でも貧しい高齢者もたくさんいる」と言うし、それはミクロな個人としては事実に違いない。けれどもマクロな全体の話としては、「超高齢者がこんなに沢山いて、医療費や介護費を血のにじむような努力をして支払って、とにかく命を延ばしている」という現況全体、やはり「豊かさ」である。ところが医療を施す側も受ける側も、それが「豊かさ」で、ときには「贅沢」ですらあるという事実を忘れてしまっている
 
 なぜ、「長生き」=「豊かさ」が忘れられているのか。
 
 理由の一端は、「個人の命はなにより尊い」「個人の命はカネより重い」という固定観念が社会を覆い尽くしているからだろう。事実としては医療技術や介護技術で命を買っているとしても、命の重みに対しては思考を停止させてしまう――そういう思考停止の作法と観念が社会に浸透し、しかも、浸透したということ自体をみんなが忘れてしまっているのだから仕方がない。
 
 また、命を延ばすための医療技術や介護技術を売る側も、商人のような顔つきで命を売るのでなく、もう少し真面目な面持ちで、神妙な手つきで命を取り扱ってみせるから、命を売買しているという自覚は売る側にも買う側にも乏しい。むしろ双方の共犯関係は「命は救わなければならない」「命のための支払いは惜しんではならない」といった義務感を醸成することに成功している
 
 ために、現代の日本社会において「自分達は命を買っている」という醒めた自覚を持っている人はそれほど多くない*2命を金で買っているという自覚が乏しく、命に金を払わなければならないという義務感のほうが強いから、「長生き」=「豊かさ」に喜びむせぶ人は少なく、命を買い続けることの困難さに悩む人のほうが多い
 
 

いつまで「豊かさ」は続くのか

 
 長寿社会の「豊かさ」は一体いつまで続くのか。
 
 財力で押し切れる富裕層は、これからも安泰だろう。医療技術の進歩による恩恵で、もっと長寿で健康になるかもしれない。しかし、国民皆保険制度に助けられている一般庶民においては、この限りではない。
 
 もちろん、これまでも制度は高齢化社会にあわせて変化してきたし、破綻を避けるために変化し続けるだろう。ただし、国も個人も貧しくなっていく近未来においては、長寿のために支払える金額は公私ともに目減りせざるを得ない。たとえば高齢者の医療費自己負担が5割になり、いわゆる「就職氷河期世代」が70代を迎えた未来を想像してみて欲しい。どう考えても、現代の高齢者ほどには命を金で買えない社会ができあがる。
 
 そして「長生き」=「豊かさ」を買い支えきれない社会ができあがるにつれて、それを追認するための作法と観念が流布されていくのだろう。いや、胃瘻に関する議論などを眺めていると、もう変化は始まっているのでは、と思わなくもない。いつの世も“思想”ってやつはえげつない。
 
 時代や制度や政治の事情によって、命を金で買える世代と、命を金で買えない世代の「格差」が生じることは、ほとんど不可避である。“たかが命の長さ”とはいえ、やはり、その長短は「豊かさ」と「貧しさ」に違いない。もし、ある世代が誰でも長寿を購えて、別の世代が富裕層しか長寿を購えないとしたら、それは、世代間格差といって構わないものではないだろうか。そのあたりの未来について、みんなはどのように考えて、どのように折り合っているのだろうか。
 

*1:稀に、聖路加病院の日野原重明さんのように異様に健康で長寿な高齢者もいなくもないが、ああいうのは一種の例外で、一般の高齢者は放っておけばもっと早くに病気で死んでしまう

*2:しかし、健康関連の商品に高齢者が飛びつく姿が示しているとおり、商人のような顔つきで命を売ったとしても、買う人は買うのである。

「面白さ」の国境線

 
 最近、「インターネットで面白いコンテンツとは何か?」についてずっと考えていた。
 
 この問いに「私にとって」という接頭語をつけるなら、もう答えは出ている。四十年を生き、二十年もインターネットをやっていれば、自分の好きなもの・自分が面白いと思うものなんて大体わかる。
 
 けれども「私にとって」面白いインターネットのコンテンツが、他の人にも面白いとは限らない。逆もまた然りで、たくさんの人が面白がっているコンテンツが私にはちっとも面白くなかったり、興醒めだったりすることも多い。
 
 だから、「インターネットで面白いコンテンツ」にはかなりの個人差があって、もっと言うと「面白さ」の国境線みたいなものがあるのだと思う。
 
 さっき、これを言語化してくれたブログを発見したので引用する。
  
tio-jobtzp.hatenablog.com
 

プロブロガーのブログ記事は、正直言って僕のような考え方の人間が読んでも面白くはないです。そして、プロブロガーには僕の思う「面白い記事」はかけないと思います。
同様に、僕は彼らの思う「面白い」記事はかけません。
しかし、宮森さんのブログの面白さのベクトルが違うだけで、「まったく面白くない」わけではありませんでした。やぎろぐの記事も面白くはないかもしれないが、わかりやすさや、愛されないが奇特であるライフスタイルに寄ってみれば、「面白い」です。

 そうそう、これこれ。
 
 ここではプロブロガーなるものが挙げられているけれども、twitterや動画配信でも同じ。
 
 ある人々には「こんなつまらない代物のどこが面白いんだ?」と思えるコンテンツが、別の人々には「このコンテンツ最高!」であることは意外に多い。コンテンツの題材も、コンテンツの語り口も、コンテンツの情報量も、ある人々にとって最良のものが別の人々にとっては最悪のものとして感じられる。そういう相違が複数のディメンジョンで確認されると、人は――いや私はと言い直すべきか――「あれは面白くないネットコンテンツだ」「つまらないインターネットですね」と言いたくなる。
 
 けれども、それは反対側からも言えるはずで、私にとって「つまらないインターネット」をやっている人達からみれば、私の愛好しているネットコンテンツこそが「つまらないインターネット」とうつっているに違いないのだ。
 
 リンク先の蒼眼龍介さんは、

「意識の低い人間が意識の低いままネットという社会で優勝」するのが昔のインターネット
で、今のインターネットはキラキラした思想や、収入や意識の高い集団を作る事プロブロガー問題を筆頭に「意識の高い人間が、意識の高いまま素直に優勝している」と感じます。

 と書いておられる。
 
 こういう「面白さ」の国境線は、意外に深刻だと思う。少なくともキノコタケノコ戦争などよりは人を苛立たせるだろう。政治や宗教の話に比べたら「面白さ」の話なんて大したことがないと言う人もいるかもしれないが、私はそうは思わない。昔の「新人類vsおたく」という「格好良さ」を巡る文化主導権争いが気楽でもクリーンでもなかったのと同じように、「面白さ」を巡る対立や文化主導権争いはしんどくてダーティーなものになり得る。
 
 いや、「なり得る」などと書くのは間違いで、「既にそういう気配が漂っている」し、私もその当事者なんだろう。
 
 「棲み分ければ良い」というのは素敵なソリューションのようにみえるし、twitterなどは一定の棲み分けが進んでいるけれども、インターネットという大陸自体はひとつで、お互い、面白いものしかみたくない・面白くないものには引っ込んでもらいたいという願望は拭いきれないから、「面白さ」を棲み分けた国境線上では「面白さ」を巡るバトルが起こっていて、ある意味、インターネット洗脳合戦が日夜繰り広げられている。
 
 「俺達が面白くて」「あいつらは面白くないよね」の応酬によって、「面白さ」のプレゼンスが試されているわけで、これは、インターネットのトラフィック上における、一種の陣取り合戦でもある。
 
 もちろんインターネットは多様で、そのインターネットに現れる個人はもっと多様なので、くっきりとした二つの陣営が「面白さ」を巡って戦っているわけではない。それでも「昔のインターネットvs最近のインターネット」「オタクサブカルvsウェイウェイ」「日陰者vs日向者」といった大まかな区切りは、それぞれ一定の説得力は持ち合わせているように思う。まあ、それらは本格的な党派性を持ったものではなく、社会心理学的な潮目のようなものが可視化されているに過ぎないものではあるのだけど。
 
 

儚い「面白さ」を巡って争う愚かな人々

 
 ……と、ここまで書いて、とふと思った。
 
 「面白さの文化主導権争い」「面白さのプレゼンス」について書き連ねたこの文章は、私自身にとって「面白いコンテンツ」だろうか?
 
 現在の私が書いている以上、もちろん私自身には「面白い」コンテンツではある。
 
 だが十年前の、そうそう、もっと「昔のインターネット」を酸素のように呼吸していた頃の私は、こういう文章をあまり面白がっていなかったのではないか。
 
 この文章を書いていて気付いたが、私自身の「面白さ」が歳月によって変化してしまった。ということは、十年前に私のブログを愛好していた人達からは、現在の私の「面白さ」は「面白くなくなってしまった」と観測されている可能性が高い。
 
 なんと「面白さ」とは儚いのだろう!
 いや、私自身の「面白さ」のいかに流されやすいことか!
 
 「面白さ」に対して身持ちの堅い人は、私のことを「面白さの変節者」と呼んで蔑むのかもしれない。しかし、良くも悪くも大半の人達は、私同様、そうやって「面白さ」の国境近くのある座標から別の座標に向かって流されながら、あれは面白い・あれは面白くないとブツブツつぶやきながら年を取っていくのだろう。
  
 そういう、儚くて流されやすい「面白さ」を賭け金として、私達が陣取り合戦や文化主導権争いに(たいてい無意識のうちに)のめり込んでいる姿を顧みると、人間の度し難さ・救いがたさを思わずにいられない。「こりゃあ全人類がニュータイプにでもならない限り、争いは絶えることはなかろうな」という諦念にたどり着く。
 
 しかし、この諦念も「ブログを公開する」ボタンを押せば霧消してしまい、再び私は「面白さ」の国境線上で、「面白さ」に言及することで、この蒙昧な百年戦争の一参加者となるのだろう。
 
 それでも、私にとってつまらないコンテンツこそが面白くてたまらない人々が「面白さ」の国境線の向こう側に存在している可能性を、どうか私が忘れませんように。それでいて、私自身が現今の「面白さ」に対して忠実なネットユーザーであり続けますように。
 
 合掌。
 

今からプロブロガーなんて目指したら不自由になりませんか?

 
www.airdays.net
 
 自由を手に入れるためにプロブロガーを目指す、ですって?
 
 またまたご冗談を、プロブロガーが自由だなんて、一体どこでどういう風にインターネットを眺めていたらそういう発想が出てくるんでしょうか?
 
 ここ最近、プロブロガーなる、よくわからない肩書きを名乗っているインターネットアカウントを見かけますが、彼らは、本当に自由なんでしょうかね?
 
 “プロ”ブロガーと言うからには、ブログを本職とし、それで生計を立てて生きていくわけですよね。つまり金銭収入のための労働手段としてブログの執筆(や周辺活動)に勤めるのがプロブロガーということになります。
 
 プロに自由なんてあるんですかぁ?
 
 リンク先の大学生さんは、

 僕自身文章を書いたり、こうやって世に発信する事は嫌いではなく、もしもそれだけで生計を立てられるのであれば、これ程自由な生活は無いなと考えるようになりました。

 
 と書いておられます。
 
 私はそう思いません。
 
 「生計を立てる」などというスケールの小さい意識のもと、カネに汲々としながら活動するすべては不自由ですよ。それは、プロブロガーもサラリーマンも小説家もアイドルタレントもたぶん同じ。
 
 カネを稼ぐ・生計を立てる、そういう意識を持ちながら活動している限り、あなたは必ずカネの顔色をうかがいながら生きていくことになるでしょう。
 
 ちょっとわかりにくいかもしれませんが、
 

そこで、一年間で「月50万円稼ぐブログ」を育てあげたいと思います。

 
 こういう事を堂々と書いて憚らない程度には、あなたは既に“プロ”ブロガーとしての宿痾に囚われているんですよ。これじゃあ、サラリーマンとどこが違うというのですか。
 
 まさか、「自由業だから」「既存のワークスタイルに比べて新しい響きがあるから」プロブロガーが自由だなんて、思っちゃあいないでしょうね?
 
 それともあなたの目には、プロブロガーを名乗っている人達の活動っぷりが、たとえばサラリーマンなどに比べて自由にみえる、というのでしょうか。
 
 私には、プロブロガーを名乗っている人達や、プロブロガーを目指して活動している人達が、あんまり自由にみえません。もし、あれで自由だというのなら、テレビタレントも、サラリーマンも、自衛隊員も、やはり自由ではないかと思いますよ。少なくともプロブロガーたるために必死な人達の、必死なあがきをみていると、およそ、自由にブログを書いている・生きているという風にはみえません。
 
 あるいは、リンク先の大学生さんは、ごく単純に「他人に指図されない生き方=自由」とお考えなのかもしれません。しかしプロブロガーとして本当に生計を立てていくためには、他人に気を遣い、カネに気を遣い、読者に気を遣うわけですから、人の間で生きていく不自由さは小さくはならないはずです。
 
 もちろん、そういう人の間で生きていく不自由さってのは、要領の良さやコミュニケーション能力や才能によって減らせなくもありません。でも、これは職業選択とはあまり関係の無い話で、その不自由さに悩まされないサラリーマンもいれば、その不自由さに苦しみぬいている自営業者だっているわけです。
 
 本末転倒を承知のうえで申し上げると、もし自由なプロブロガーになりたいっていうなら、本当に必要なのは、カネや生計のことを気にしないで済むような“境遇”ではないでしょうか。そういう“境遇”があるならカネの顔色を窺わなくて済みますし、他人に気を遣う必要性も軽くできます。
 
 でも、カネの話を繰り返しているプロブロガー志望の人達は、明らかにカネに対する執着がどぎついわけですから、きっとカネや生計を意識しなくて済む“境遇”からは遠いのでしょう。
 
 カネに繰り返し言及して、カネに対する執着を丸出しにしている人ってのは、その時点で、間違いなく不自由なんです。カネに心を奪われているということは、あなたのご主人様はカネです。カネに縛られ、カネの顔色を窺って生きていかなければならない可能性が高いと言えるでしょう。そして、そういう人は見る人が見ればすぐに見抜いてしまいますから、足元を見られて、やりたい事をやるよりもやらなければならない事をやらされてしまいます。
 
 だから、へたなサラリーマンよりもハードで覚悟の要る生き方ですよ、プロブロガーとやらは。そのようなライフスタイルの上に「自由」などという耳触りの良い言葉を据え置くのは、なかなか呑気なことだと私は思います。それと、いささか時機を逸しているのではないかと*1
 
 ここはひとつ、プロブロガーなんて目指さず名乗らず、副業ブロガー的な意識でブログに取り組まれてはいかがでしょうか。そうやって、副業的にブログを書きながら腕を磨いている人は少なくありませんし、むしろそういうブロガーのほうが、カネに束縛されず伸び伸びと才能を伸ばしているように私にはみえます。
 
 カネを欲しがり、収入の一環としてブログを運営すること自体は悪いことではありません。だからといって、カネのみに囚われて他にやりたい事も無いままプロブロガーを目指すのは危険です。ほかにすることはないのでしょうか。
 

*1:かりにプロブロガーを目指すなら、せめて二年前に旗上げすべきだった

モノが管理できない人にとっての「ミニマリスト」を考える

 
 ミニマリストという処世術について、原理的にはともかく、実際上、どんな人がどんなメリットを享受できるライフスタイルなのか考えあぐねていたけれども、それらしいものが空から降ってきたので書き殴ってみる。
 
 ミニマリストという処世術は、当初、「余計なものを捨てて何かに注力するための処世術」として誕生したのかもしれない。だが実際上は、モノが管理できない人のための処世術として浸透しているのではないか。
 
 モノが管理できない――あれこれモノを買おうとしてもただ散らかってしまったり、要らないものまで買ってしまったりするような人にとって、ミニマリストという処世術は、モノを買って散らかすリスクや要らないモノで金銭的に消耗するリスクを減らしてくれる。ミニマリストは「要らないものを捨て」「必要なもの」を突き詰めていて、しかも、メソッドがある程度マニュアル化されているため、モノが管理できない人でも、とりあえずミニマリストになってしまえばモノの管理に困らなくなる。苦手なモノの管理もお金の管理も、ミニマリストになってしまえば解決だ。
 
 現代のライフスタイルとの相性も良い。いつ引っ越すかわからない生活をしている人がたくさんモノを溜め込めば、引っ越すたびに苦労を余儀なくされるだろう。そういう人にとって、ミニマリスト的な暮らし方は有効だろう。しかも、音楽や書籍の電子データ化・クラウド化が進んでいる昨今は、そうしたとしても趣味生活の大部分は失われずに済む。
 
 「ミニマリストになったら楽になった」という物言いも、このロジックでなら了解できる。モノを抱える負担に苦しんでいた人が、負担を免れるようになれば、楽になったという感想を持つだろう。
 
 しかも、ミニマリストという行き方には自己効力感がつきまとう。ダイエットなどもそうだが、「自分自身を思い通りに変えられる!」という体験も、精神的報酬としてミニマリストをさらにミニマリストに駆り立てるモチベーションになる。ダイエット同様、このような自己効力感に溺れると、処世術としての効能よりもやり過ぎに伴う悪影響が上回ってしまうが。
 
 ミニマリストという処世術の効能や有効性に首をかしげる人は少なくないと思う。とりわけ、モノをきちんと管理できる人・買い物やモノの取捨選択に長けている人がわざわざミニマリストになる必要性は無い。そのような“きちんとした人々”が手厳しいことを言いたくなるのも、わかるはわかる。
 
 だが、モノを管理できない人にとって、ミニマリストという処世術はそれなり効果的で魅力的だろう。モノを買っていつも失敗している人が、いっそ、モノにかかずらう度合いを最小化してしまうのは理にかなっている。引っ越しの可能性が高いなら尚更だ。
 
 ミニマリストというライフスタイルは、NHKの番組でとりあげられる程度には世間で認知されるようになった。だから、モノが管理できない人・モノ選びが苦手な人にとって、これが救いになるのは理解できることだし、自己効力感の気持ち良さに惹かれる人がいるのもわかる。モノが溢れている世の中だからこそ、そのモノとの付き合いに苦労している人にはミニマリスト的なライフスタイルが良いのかもしれない。