シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

身のほどを弁えてしまったワイン飲みの良さと悪さ

 

 
私が「ワインをはじめて」十年以上の歳月が流れ、一応、ひととおりのことはわかるようになったと思う。自分の身の丈に合い、自分の嗅覚や味覚にもフィットし、家庭料理やテイクアウト料理に合わせてもうまく付き合ってくれるワインたちが、「私のワイン趣味」とか「私のワインの選び方」として浮かび上がってきた。それって良いことでもあると思うし、悪いことでもあると思う。
 
 

「しみったれたワインを選ぶようになっった」自分自身を省みる

 
ところで誰もが知っているとおり、ワインはお金をかけはじめたら本当に天井が知れないほどお金がかかってしまう趣味ジャンルだ。本当の本当にワイン沼にのめり込んでしまった人のなかには、ワインを寝かすための地下洞窟を購入したりワイナリーやワイン店舗を経営しはじめたりする強者もいるかもしれない。そのもう少し手前には、「地下室を掘る」「蔵を立てる」ぐらいの強者もあろう。
 
「ワインを呑む」、という行為じたいにも色々ある。とにかく高価なワインを、とにかくゴージャスに呑む人々がいる。そうしたゴージャス呑みの人たちも仔細に観察すれば色々だ。いかにも飲み頃のボルドーやブルゴーニュに的を絞っている人もいれば、びっくりするほど高価なシャンパンを若いうちから飲んでいく人もいる。今をときめく新しい作り手を貪欲に探し求める人もいれば、相対的にマイナーな産地のワインを次々に発掘し、買い抜ける人もいる。
 
嗜好はさまざまだし、その是非善悪については色々な意見もあろう。
今日の私は、「みんなちがってみんないい」という言葉を選んでおきたい。
 
じゃあ、私自身は?
 
SNSで気炎をあげるワイン愛好家たちを眩しく眺めながら、しみったれたワインの飲み方をしている。もちろん、各産地のちょっと良いワインを申し訳程度には寝かせている。けれどもそんなのはごく一部、ワインセラーの船首像みたいなものでしかない。
 
気が付けば私は怠惰で臆病なワイン飲みになっていた。値段も世評も急上昇の、流行のワインたちを買ってみる甲斐性がほとんどなくなってしまった。「定番」と言っていいような古臭いワインを毎年決まった数だけ買い、古いほうから順番に飲んで交代させていく。
 
そうした私の「定番」ワインたちは、ワインをやっていない人からすれば高価にみえるかもしれないが、事情のわかっている人からすれば安価にみえるような、そういう品々だ。たとえば一本10万円を超えるようなワインたちに伍する品ではない。私には、もっと安くてクラシックなワインで十分なのだとわかってしまった。そういうほどほどのワインを、2015年、2016年、2017年とヴィンテージごとに購入して「今年は当たりだったね」とか「今年は水っぽいかわりに繊細なあやが伝わってきたね」とかブツブツしゃべっているのが私が落着したワイン趣味、ひいてはワインとの付き合いだとわかってしまった。
 
こうした保守的で地味なワインとの付き合い方の背景には、円安やインフレの影響などもある。先立つものがなければワインは購入できない。生活費がじりじりと値上がっていく情勢のなかで、これまた値上がっていくワインたちを豪気に買ってまわるだけの無分別さを私は持ち合わせていなかった。そうした無分別さは、趣味を趣味たらしめるうえで大切なものだと思う。でも、なんだろうなあ、中年期たけなわになってホルモンが弱くなっているためもあってか、エイヤの一押しでたっかいワインが買えなくなってしまったんですよ。世の中には、もっと新しくて、もっと面白くて、もっと新機軸なワインがどっさり存在しているのに、なんでこんな風になっちまったんだろうなあ。
 
 

これからのこと

 
これからどうしたものだろう? 別に、今までどおりワインを飲めばいいじゃん、と思う部分はある。それなりの歳月をかけて自分の好きなワインを知ってしまった後だから、自分の舌に合うワインを選ぶだけなら困らない。既知の、200種類ぐらいのワインたちでローテーションを組めば飽きるって心配もあるまい。
 
同じメーカーのワインの年ごとのヴィンテージを古い順から飲んでいくのも、それはそれで面白い。ときどき、同じヴィンテージ・同じメーカーで畑の名前が違うものを飲み比べれば趣向はいっそう高まる。同じメーカーのワインを買い続ける習慣は、ワインが天候に左右される農産物であること、天の恵みの結晶であることを理解するには向いている。自分と一緒に年を取っていくワイン、ひいてはワイナリーを見つけられたのは、そんなに悪いことではあるまい。
 
でも、既知のワインだけ飲んでまわるって、趣味としては怠惰きわまりないようにも思う。
 
200種類ぐらいのワインをぐるぐる回転させているだけでは、たぶん、趣味としてのワインはだんだん閉じていくことになる。「それならもっと開拓すればいいじゃないか」となるのだが、なんだろう、さっき書いたエイヤの力が足りないせいで、ちょっと目に留まったワインやレストランで遭遇して良かったワインを買う段になったら踏ん切りがつかなくなってしまったのだ。
 
なんでこんなことになっちまったんだ、などと思いながら、すっかり飲み慣れ、どこか飲み飽きてすらいるルイ・ラトゥールのお買い得なシャルドネを飲んでいる。やっぱり北のシャルドネはうめえなあ。だけど瞳孔が開くようなアメージングはここには無い。あるのは……安堵感か。
 
安堵感?
 
ああ、私はワインというジャンルのなかで冒険をやめてしまったんだなと書いている最中に気付いた。リスクを冒してでも、ワインガチャを回して超絶大当たりを引くために頑張る気持ちが萎えていることに気付いた。もう、そんなものはなくてもいいから「いつものあれ」が欲しいってわけだ。暮らしにワインが溶け込んだ、とは言えるかもしれないが、こんなのは趣味というには停滞しすぎだ。こんな状態が続いているあいだは、「ワインに興味があります」とは他人に向かって言えないな、とも思った。これではただの飲兵衛でしかない。仕切り直しをしなければと思った。