先日、twitterのタイムラインで共感したくなる文章を発見した。
生殖や性病等についての知識は必要と思うが、行為としての正しいセックスを「教育」するのか。まずは優しく抱き締めてキスするのが、部屋に入るなり服を脱がせるより優れているのか。そんなのは当事者間の問題だし、私は私のプライベートな事柄を勝手に規定されたくないと考える
— 鴨島の宗教へようこそ (@kamozi) 2017年7月8日
私のセックス観も、これに近い。性行為がどうあるべきかは、カップルそれぞれが決めれば良いことで、自由なカップルの在り方、自由な性行為のありかたがあって良いはずだ、と私も叫びたくなる。
しかしプライベートな関係は、介入を受け続けてきた。
だが、私達の社会の変化や常識の変化を思い出すと、「性行為はプライベートなカップルのもの」という現代の感覚が、いつまで通用するのか怪しく思えてくる。
かつては、家庭の問題の多くがプライベートな問題として、当事者の自由に任されてきた。
子どもをどういうやり方で躾けるのか。子どもをどのように取り扱うのか。体罰はどこまで構わないのか。子どもをどこまで労働に参加させて良くて、どこまで学校に通わせるべきか。
こういったことに対し、表向きとして「今日の子育てはかくあるべき」というお題目があったとしても、行政機構や警察機構が介入する範囲は限られていて(介入できる手段や能力も限られていた)、そのような介入が常識だと考えている庶民は少なかった。
ところが、歳月が流れるにつれて、「子育てかくあるべき」に対する行政機構や警察機構の介入は深まっていった。虐待やネグレクトへの介入がわかりやすいが、行政による、親子の細やかなチェック機構の発展などもそれにあたる。目が行き届くようになった・サービスが行き届くようになったと同時に、そのぶん、子育ては外部からの介入を許し、そこに頼るようにもなった。
世の中の風潮や庶民の常識もそれに即して変わっていった。正しくない子育てを見かけたら行政的な介入をすべきだという感覚は、この数十年の間に、進歩的な感覚から常識的な感覚に変化した。今、子育てに対する諸介入に疑問を感じたり、あまつさえ反発を感じたりすれば、その人は非常識で「正しくない」人とみなされるだろう。
このように、きわめてプライベートな営みだった子育てに対する、「正しくあるべき」という常識感覚がいつの間にか浸透して、「正しくない」子育ては介入や矯正の対象、あるいは懲罰の対象とみなすのが当然になった。こういう数十年来の流れを振り返ると、子育ての例を追いかけるように、「正しい」性行為が浸透していく可能性もけして低くないと、私は想像せざるを得ない。
「ピピーッ!あなたは手順通りにセックスしていません!いきなり異性の服に手をかけてはいけません!いきなりキスをせがんでもいけません!」
「同意書を書く前の“ちょっと休憩していこう!”はパートナーに対するセクハラです!事前に性行為同意書を必ず書きましょう。」
「性行為同意書に連名のサインをして、“当局”に届け出るまで、性に関連した行為はすべきではありません。」
こういった「正しさ」は、2017年の性行為には求められない。手順通りにセックスしなければならないと思っている人はいないし、カップルの関係性いかんによっては、部屋に入るなり異性の服に手をかけるとか、いきなりキスをせがむといったこともあるだろう。なにより、性行為同意書なるものを連名でサインして、“当局”に届け出なければならないと思っている人はいるまい。
だが、私達の常識が変化し、それとともに社会も変われば、プライベートな性行為に「正しさ」が求められる可能性はあり得る。性行為への介入・摘発・管理といったものが進み、そのことに誰も疑問を感じなくなり、子育て同様、「正しくない性行為を防止するために、介入があったほうが良いに決まっている」が常識感覚になってもおかしくはない。そして、
最近の映画やドラマには、煙草を吸ってる人は出てこないし、銀行強盗したあとに車で逃走するときもちゃんと犯人はシートベルト付けてるんだけど、そのうち断りなくキスするシーンとかも消えるのかも知れんね。
— Kazuki Fujisawa (@kazu_fujisawa) 2017年7月7日
ここで藤沢数希さんがtwitterに書いているように、「正しくない性行為」に該当する描写は、映画やドラマから消えていくのだろう。
カップルの権力勾配問題
ところで、「正しくない子育て」に行政機構や警察機構が介入しなければならなかった背景のひとつとして、「親子間の権力勾配」があった。
一般に、家庭において強い立場なのは親で、弱い立場は子どもだ。子どもを虐待したり教育を受けさせずに労働を強制させたりする親がいたとしても、家庭が治外法権では子どもの諸権利は守られない。あらゆる家庭の子どもの諸権利を守るためには、プライベートという名のもとに介入を免れていた家庭に、行政機構や警察機構が介入できるような仕組みや、正しい子育てに関する常識感覚の浸透が必要になる。
同じ論法で性行為について考えるなら、「男女間の権力勾配」は存在するのだろうか?
もし、カップルの間に権力勾配が存在すると想定するなら、「正しい子育て」にいくらか近いかたちで「正しい性行為」への介入や常識感覚の浸透が起こるだろう。「あらゆるカップルの、弱い立場の側の諸権利を守るために」。
男女間というか、個人間では確実に権力勾配はあるよな。一方がもう一方に付け入る形で、或いは依存する形で成立している関係性というのは多いわけで。その手の関係性や駆け引きにグレーな部分がないとは言えず、それが表面化した時に介入と漂白が行われるようになるのじゃないか。
— 5mm (@pycl) 2017年7月8日
カップルとは男女ばかりとは限らないし、必ず男が強くて女が弱いとも限らないから、5mmさんが書いているような捉え方のほうが適切か。
カップル内の権力勾配にはいろいろなかたちがあり、必ず平等というわけではない。カップル双方の権利を守るという一事にこだわるなら、権力勾配にもとづいた依存や搾取を含んだカップルには介入や摘発が行われなければならないし、性行為もまた、そのような懸念を外部に与えない、「正しい」かたちをとらなければならなくなるだろう。そのことがみんなの常識感覚になった時点で、性行為の「正しい」社会ができあがる。
こうした「正しさ」を性行為に追求していくと、ますますもって性行為とは、あるいはカップルのマッチングとは、面倒なものになるだろう。最近の男女は交際しないといわれるが、男も女もむやみにカップルをつくらず、人間の相手をしないほうが気楽という風潮がますます広まるかもしれない。
だが、権力勾配にもとづいた依存や搾取が疑われる性行為を撲滅するという、正しいに決まっていることを推進するためなら、そういった面倒さや億劫さを引き受けるのが、市民として正しいあり方なのだろう。……たぶん。
正しい子育て。正しいセックス。正しい社会。
「あなたのセックスは正しくない」と言われる社会ができあがるまで、あと何年ぐらいだろうか?