シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

経済成長への固定観念で、60年代世代は視野が狭くなっているんだろうか??

 
 日本人の精神構造の変化が モノ売れない時代つくったインタビュー「消費崩壊 若者はなぜモノを買わないのか」第2回/精神科医・和田秀樹氏に聞く : J-CASTニュース
 
 勝間 VS ひろゆき 討論会 【ネットの匿名性】 【若者への起業促進】:ニュー速VIPブログ(`・ω・´)
 
 
 「経済成長は絶対善。幸福のための必須目標。
 
 経済成長へのこだわりが強すぎるあまり、世代と時代を読み損ねているんじゃないかとしか思えない記事に、立て続けに遭遇して、ウヘェと呻かずにはいられなかった。
 
 リンク先の1つ目は、和田秀樹Dr.*1による『日本人の精神構造の変化でモノが売れなくなった』という記事、2つ目は、勝間和代さん*2がメインをつとめる『BSジャパン デキビジ』におけるひろゆき*3との対談、である。
 
 2つの記事に共通していると私が感じたのは、和田秀樹Dr.も勝間和代さんも、経済成長への固定観念にとらわれるあまり、現代の若年世代の個人的ニーズを読み損ねている・または想像力が狭隘化してしまっている のではないかということだった。
 
 

消費しない若者を、統合失調症的とみなす和田Dr.

 
 和田Dr.の記事は、「現代の若者が消費しないのは統合失調症寄り (シゾフレ人間) になってきているから。」という主旨になっている。こうした、精神疾患をモデルにして世代のメンタリティを分析することそのものは、適切に用いるなら、ひとつのビジョンを提供できるものだとは思う。
 
 しかし、この記事に書いてあることは、よくわからない。
 
 そもそもメンタリティの分析以前の話として、今の若者には、高度経済成長の経験も、バブル経済の記憶も無い。たいてい節約を迫られ、年金破綻などといった老後不安を刷り込まれながら育った世代に対して「お前らは消費していない、だからおかしい」と言うことのほうがおかしくないだろうか。自分たちの未来を、時代も国も保証してくれるわけではないと肌で感じ取った世代が、金銭的浪費を必要としない節約型の社会適応を身につけていくのは、とても健全な心性ではないだろうか。むしろ、こうした社会不安の強い状況下でも借金してまで外車を乗り回すような心性こそが、「おかしい」のではないのか。現代の若年世代の経済的背景や、蔓延する将来への不安を踏まえるなら、むしろ、経済的身の丈にあわせて暮らしている現代の若者こそ「マトモ」ではないのか。ところが和田Dr.は、「マトモ」だと言ってくれるどころか、「消費は美徳」に教育を切り替えろとまで言うのだ。そのほうが、私には「おかしく」みえてしまう。
 
 それに、現代の若者がカネを使わないのは統合失調症的 (シゾフレ人間) な心性のためだと理由づけをするのは、いかがなものだろうか。記事のなかで和田Dr.は、以下のように書いている。
 

 
シゾフレ人間は、とにかく周りのことが気になります。主体性がなく、ブームに流されやすい。みんなと同じでいたいので、今日のように周囲の人が買い物を手控えると、自分も同じように買わなくなる、というわけです。
 

http://www.j-cast.com/2010/05/02065374.html

 このフレーズも、今ひとつ分からない。
 
 統合失調症圏の人達というのは、どちらかといえばブームや流行などに流されることなく、常にわが道を行くタイプが多い。浪費に耽る場合も殆どマイペースで、周囲の意見や流行など意にも介さない。職業柄、私は統合失調症圏の人達といつも付き合っているが、統合失調症圏の患者さんは、気分障害圏や神経症圏、パーソナリティ障害圏などの患者さん達よりも、ずっと世間体や流行に耐性を持っているようにみえる。雑誌や流行に流されてコロコロと意見を変えるタイプは、統合失調症の患者さんでは珍しい。
 
 知識と経験に照らし合わせる限り、「とにかく周りの人にあわせる」「みんなと同じでいたい」「主体性が無く、ブームに流されやすい」という心性は、むしろ統合失調症圏に属さない人達にこそみられる心性だ。どうしてこんな、アベコベっぽい文章ができあがってしまったのか?*4。消費してくれない若者に苛立つあまり、筆が滑ってしまったのではないか、という勘繰りを招きそうな文章だと思った。*5
 
 
 

「起業や経済発展=幸福」という固定観念と、勝間和代さん

 
 もう一方、勝間和代さんとひろゆきの対談でも、勝間さんは、経済発展という固定観念にこだわりすぎて、本領発揮できていないように見えた。
 
 
 「若者が起業しやすい社会でなければ若者は幸福になれない」
 「経済発展を進めなければ若者は幸福になれない」
 
 という勝間さんに対し、ひろゆきは「いや、やりたい人だけ起業すればいいんじゃないですか」といった風に、それ以外の価値観や考え方があることを示していたが、勝間和代さんは、最後まで気付くことが出来なかった、ようにみえる。それどころか、途中からは議論そのものをうっちゃって「ひろゆきは攻撃的だ」という個人の性質についてトークするに至っていた。
 
 ああいう討論の状況下で、突発的に「あなたは攻撃的だ」などと発言してしまったら、視聴者に「攻撃的なのは勝間さんのほう」「勝間さん自身の攻撃性を、ひろゆきに投影しているのに気付かない構図」と印象付けるリスクがあることぐらいは、勝間さんとて知らなかったわけではないだろう。にも関わらず、敢えてあそこまでアグレッシブな身振りで「あなたは攻撃的だ」とひろゆきに言わずにいられなかったのは、どういうことだろうか?
 
 先の和田Dr.の場合と同様、勝間さんにおいても、「若者の起業や経済発展=若者の幸福」という固定観念の枠外への想像力が足りなかったのではないだろうか。まただからこそ、自分の想像力の枠外の発想を前にして、苛立つほかなかったのではないか。
 
 対談のなかでひろゆきは、“起業は、したい人はやればいい”と言っている。起業の全否定でも全肯定でもなく、様々なライフスタイル選択のひとつとして起業、というスタンスだった。しかし、勝間さんの耳にはこれが入っていかない。勝間さんは、起業は是か非かというスタンスに終始し、もちろん勝間さんとしては、起業の肯定こそが模範解答だったのだろう。この構図は「若者の経済発展と若者の幸福」についての討論でも繰り返されていたが、ひょっとしたら勝間さんには、起業や経済発展を前提としない生き方が想定不可能なのかもしれない。たとえるなら、「起業か、死か」「経済発展か、死か」といったところだろうか。
 
 結果として討論は、そういった勝間さんの視野の狭さというか、ライフスタイル選択の狭さというか、そういったものを炙り出しているように見えた。起業や経済発展を中心教義にするような生き方が必ずしも悪いわけではない。しかし、異なる人間・異なる世代に対しても、そのような生き方しか提示できない・想像できないということは、2010年の個人の社会適応をアドバイスするうえで、ちょっと時代遅れではないかと私には思えてならなかった。
 
 

マクロレベルの経済発展は必要。でもミクロの個人にも想像力を

 
 ちなみに、和田秀樹Dr.は1960年生まれ、勝間和代さんは1968年生まれ。
 40〜50代を迎えた世代がこのような経済的な固定観念を抱き、若い世代の価値観やライフスタイルから乖離した発想を保持できるのは、高度経済成長やバブル経済の頃に身につけた価値観をどこかで引きずっているからなのだろうか?そのあたりは、よく分からない。
 
 いずれにせよ、和田Dr.にしても、勝間さんにしても、経済発展が自明ではなくなった時代の想像力や、消費を愉しむ余裕が無い時代の個人の幸福といったものに対して、どこかピントがズレているんじゃなかろうか。“イケイケ”が若者の採るべき価値観という時代はとっくに終わり、個々人の経済事情にあわせて多様な幸福追求を行う時代に移行した……その変化を、ビョーキだとか、不幸だとか、そういう断定で退けてしまうしかない想像力こそが、ビョーキなり、不幸なりではないのか;そんなことも思った。
 
 もちろん、マクロのレベルで経済成長が大切だというのは分かるし、そのために消費しましょう・頑張って起業しましょう、という掛け声が必要なのも、わかる。けれども、それはあくまでマクロの見地からみての必要性であって、ミクロな個人の適応にとっての最適解とは限らない。マクロのレベルでは、消費と経済成長は今も“神様”かもしれないが、ミクロな個人の大半にとって、消費や経済成長を“神様”として崇拝し続けるのは困難としかいいようがない。
 
 そこらへんの困難さなり、時代錯誤っぷりなりを拾い上げることなく、若い世代をビョーキだの不幸だのと断じてしまうような教唆には、少なくとも私は納得したくないし、納得したくてもできるものではない。もっと、多様な個人の状況を踏まえたうえで、アドバイスしていただければ、と願う。
 
 

*1:精神科医。自己心理学の書籍を多数出版するほか、近年は受験関連の書籍でも有名。

*2:経済評論家。中央大学ビジネススクール客員教授。

*3:西村博之さん:ニワンゴ取締役。2ちゃんねるを創った人。

*4:ちなみに、あの記事をどうにか了解可能な記事として読み取る方法は、記事中のシゾフレ人間のところを、故・小此木啓吾Dr.が過去に使っていた“シゾイド人間”という言葉に置換することかもしれない。これならまだしも、他人の意見に流されやすい心性というのが浮かび上がってくる。しかしその場合の“シゾイド人間”というのは、現代で言うならパーソナリティ障害圏に含まれるような人達、あるいは境界例水準とでも言うべき人達であって、ガチゴチの統合失調症圏とはニュアンスが違っている。また、“シゾイド人間”という古めかしい用語を用いずに、もっと現代風の用語を用いたほうが誤解を招きにくいであろう。

*5:ちなみに、どうしてもシゾフレ/メランコ人間という分類と消費状況とを関連付けたいなら、私なら、こう書くだろう;「現代の消費がままならない一因として、老年世代のメランコ心性が問題である。預貯金を蓄えることへの拘りと、消費に対する世間体のゆえに、老年世代は消費シーンを率先できずにいる。」のような。しかし、これにしたってナンセンスだ。将来の日本になんの保証が持てそうにないという状況下では、若い世代であれ老年世代であれ、消費に消極的になったほうがむしろ「まとも」じゃないのか。