弱いことは悪なのか : web-g.org
リンク先では、父親による子殺しのケースを提示しつつ、「弱さ」は悪か否かを読者に問いかけている。「自分ならどう答えるだろう?」としばらく考えるうちに、「弱さ」は悪ではないけれど、「弱さ」を抱えながら生きていくのは苦しいなぁ、と思い至った。
人間の強弱は、一つ二つの評価軸で決められるものでもない。多軸パラメータ化すればそれでOK……というほど単純でもない。
例えば、風邪にもインフルエンザにもかからない体力に恵まれた人は、虚弱体質の人より専ら強い。そのかわり、病気慣れしていないから身体のサインを軽視し、病気にかかった時の対処が甘くなってしまうことある。自己イメージが壮健ゆえに、いざ衰弱した時、衰弱した自分自身を受け入れがたく、初老期うつ病や若作りうつ病といったメンタルヘルスの問題に脆かったりもする。
同じように、要領が良く世渡りが上手な人間は、いつもベストに近い社会適応を選べるかもしれない反面、いったん不適応に回ると脆かったり、ストレスに耐える力が弱かったりすることがある。もちろん、我慢強ければ要領が悪くても構わないわけでもない。なまじ我慢強く耐えられるからこそ、先行きの不味さに気づくのが遅れてしまうような人も珍しくない。
だから、ある人間の強弱を表現するのは簡単ではないし、ある状況・ある時代において最も強い人間が、別の状況・別の時代において最弱……というのは往々にして起こることだ。また、人間の強弱には時代性が深く関わっている。おおざっぱに推測するなら、コミュニケーション能力に長け、情報の取捨選択能力に長けた人物が現代社会では比較的強くなりやすいと言えそうだけど、それだけが全てというわけでもないのが娑婆世界の面白さでもあり難しさでもある。
そのうえ、幾つもの困難に同時に襲われれば、人間の健康や社会生活のホメオスタシスは簡単に崩れてしまう。冒頭リンク先のような破滅も、とうてい他人事とは思えない。「強くあれ」と言うのは簡単だけど、個人の強さにも限界があるし、その強さの大半は、歳月によって変性していく。全方向にずっと強いままの人間なんて、存在しないのだ。
「平和とは、弱さが悪徳とされないような幸福な時代」
そういえば、田中芳樹『銀河英雄伝説』の主人公・ラインハルトの台詞に、こんなものがあった。
「平和か。平和というのはな、キルヒアイス。 無能が最大の悪徳とされないような幸福な時代を指して言うのだ。」
「無能」を「弱さ」に置き換えるなら、「平和とは、弱さが悪徳とされないような幸福な時代」となるだろうか。若い頃の私は、この台詞に疑問を感じることもなく、とにかく作品と登場人物に夢中になっていた。
けれども自分自身が年を取り、誰しもそれぞれに強さ弱さを抱えながら生きていると知るにつれて、この台詞を素通りしにくくなってきた。人間の無能さ、弱さを悪徳とみなす視点の持ち主は、そのぶん強くなければならない。もちろん、このラインハルトという主人公は、まさにそのように生きようとし、そのように死んでいったから構わない*1のだが、誰もが強さにのみ生き、強さにのみ朽ちていけるわけではないし、そのように強いる社会は定めしディストピアだろう。
だから私は、ただひたすらに強くあれ、とは思いたくない。強さ弱さは勿論として、人間は相矛盾する性質を幾つもあわせもった多面体なのだから、ある種の極端な生き方――「栄光か死か」のような――人生哲学のたぐいは、人間を不自然に歪めてしまうものだと思う。さきに挙げたラインハルトという主人公もまた、強さに生き、生き過ぎたがゆえの短い生涯だった。そうした歪みは物語の世界だけにみられるものではなく、創作の世界でも、純粋すぎる知性、直線的過ぎる精神が早逝に至るような逸話はあちこちに転がっている*2。
とはいえ、「弱さ」一辺倒ではにっちもさっちもいかないというのもまた事実で、一つか二つぐらいは「強さ」に相当するものがなければ生きることはおろか、死ぬことすら難しい現状はいかんともしようがない。「弱さ」は悪では無いが、いかにも苦しい。結局、強くなれる部分を強くしながら、「弱さ」を引きずって生きていくしかないのかな、と今は思う。
飽きてきたので、このへんで。
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