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上記リンク先を読んでいるうちに、「道徳にしても科学知識にしても、盲信するようになれば破滅が待っている」としみじみ思った。技術者たるもの、「絶対の安全」とか「完璧に大丈夫」なんて言葉をむやみに信じ込んでいてはいけないのだろう。
悪役が技術を自慢すると“死亡フラグ”になる
アニメや映画を見ていると、時々、「絶対に壊れない」とか「完璧な防御」とか口にする悪役を見かける。でも、あの手の台詞は、いわゆる“死亡フラグ”で、口にした人は必ずといっていいほど弱点や盲点を突かれてボコボコにされる。あれは、物語の展開として面白いのはもちろん、寓話としても納得できるものがあると思う。
なぜなら、人間が作ったモノには完璧とか絶対なんてものはあり得ず、どこかに制作者が見過ごしていた弱点や盲点があるに決まっているからだ。そんな不確かさを必ず含んでいる筈のアイテムやシステムの弱点を勘ぐろうともせず、「絶対」「完璧」といった言葉にあぐらをかいているような人間は、遅かれ早かれ酷い目に遭うのが定めだ。
同じことが、現代の科学技術と、その産物についても当てはまる。
世の中には科学技術が溢れていて、私達はその恩恵を受けて暮らしている。インターネットも、抗生物質も、エアコンも、科学技術のおかげだし、それらは日々進歩している。けれどもそうした科学技術に「絶対」とか「完璧」という言葉を期待しすぎるのはいかにも危ない。どれほど優れた科学技術でも、それが人の手によってつくられたものである限り、どこか欠点や盲点はあるだろうし、将来改善されるような部分をどこかしら含んでいる。少なくともその可能性は常にあり、とりわけ先端的な技術ほど欠点や見落としは(まだ)点検されきっていない。
そもそも、技術進歩というプロセス自体が、間違いを繰り返しながらも、より間違いの少ないほうへと発展していく性質を持っているのだから。今日、これほど科学技術が繁栄しているのも、技術が絶対に間違えないからではなく、技術が間違いに気付きながらも、その間違いを乗り越えて刷新され続けてきたからだという事を、案外多くの人が忘れているように見える。
安全が、安全神話になると、安全ではなくなる
そんなこんなで、科学技術、とりわけその先端技術の産物に「絶対」とか「完璧」という言葉を託し、全身でもたれかかるようなことをやっていれば、技術やモデルに復讐されるのは当然だろう。まだ十分に解明されているわけでも枯れているわけでもない技術は、疑いながら、クエスチョンマークを留保しながら、おっかなびっくり運用するぐらいがたぶんいい。
幸い、大半のまともな技術者なら、技術が「絶対」「完璧」というわけではないことを知悉している筈で、一部のマッドサイエンティスト以外は、多少、醒めた目で自分の技術を眺めているのだろう。だから、技術者自身の“暴走”は、ゼロではないにせよ、意外と少ないのではないかと思う。
ところがいくら技術者自身が醒めていても、「絶対」や「完璧」を技術に求めてやまない人達が大多数を占めているような場合、そうもいかない。技術上、「絶対」も「完璧」も本当はありえなくても、政治的に「絶対」や「完璧」しか認めない状況下では、技術をそのように騙るしかなくなってしまう。
国会中継やマスコミ中継で、「絶対に大丈夫なんですね?」という問いかけに対し、技術者が、官僚言葉めいた、遠まわしな表現で答弁するという風景を見かける。あれは、技術者自身のゴマカシや責任逃れというニュアンスだけでなく、「絶対」も「完璧」も無い技術上の現実と、技術に対し「絶対」や「完璧」を求めてやまない政治的な現実との、板ばさみのなかで言葉を選ぼうとすると、自然とああいうレトリックにならざるを得ないのではないか、とも私は思う。いくら技術者の側が技術の誤謬や弱点を認知していても、その技術者を使役する側の人間が「絶対」や「完璧」しか認めないという状況では、リスクや誤謬の可能性についてまともな説明を通すのは、ものすごく困難といわざるを得ない。
これが、医療の現場におけるインフォームドコンセントのように、対象人数もせいぜい数人程度で、リスクとベネフィットの説明もそこそこクッキリさせやすい分野なら、「絶対」や「完璧」を期することが不可能な旨を説明できなくもない*1。けれども遥かに沢山の人達――それも技術を技術として弁えているというより、技術に「絶対」や「完璧」を期待しまくっている人達――を前にして技術者が“答弁”を求められるような状況下では、そうそう上手くいくとは思えない。そんなところで技術者が「空気を読まずに」滔々とリスクを列挙しはじめたら、予算もプロジェクトも全部台無しになってしまうのは眼に見えている。
このような「絶対」「完璧」といった言葉が独り歩きをしてしまうような政治状況下では、安全は技術上の課題である以前に、安全神話となってしまう。科学技術に「絶対」「完璧」を期待する行為は、科学的な態度というよりは、どちらかといえば宗教崇拝者の態度に近く、そのような意味で、安全神話はまさに神話に過ぎないのだが、そのような安全神話を騙ることが政治的に求められるような状況下では、安全神話は広く蔓延し、最初は素面だったはずの科学者達までもが、やがて神話を信じ始めることになる。
こうなると歯止めがきかない。
安全が安全神話になってしまったら、もはや安全ではない。
技術のブラックボックスへの不安を、どう始末つけるのか
「技術を拝むと“罰”が当たる。」
技術者として振舞うときも、技術者のカスタマーとして振舞うときも、これはしっかり意識しておくべきなのだろう、と私は思う。
ただし、実際にはとても難しいことだ。現代社会に生きる私達は、たくさんの技術産物に囲まれて暮らしているが、その暮らしを支えているテクノロジーは、一部の専門家以外にとってブラックボックスであり、私達はそのようなブラックボックスにいわば包囲されている。食品・医療・電気・交通etc…そういった四方八方のブラックボックスに対して、「絶対」でも「完璧」でもない可能性が含まれていることを凝視すればするほど、私達はそのぶん不安な気分になってしまう*2。しかし、そんなにたくさんの不安の源を凝視していられるものだろうか?
もちろん世の中には、心も頭も強くて、芯から科学的に考え科学的に行動できる人もいるかもしれない。だが、世の中の大多数の人は、自分達にとってブラックボックスと化したテクノロジーとその産物と向かい合うとき、「絶対」や「完璧」といった神話に身を委ねてしまうのではないか。
ブラックボックスに包囲された暮らしのなかで、詳しく知らない先端技術に「絶対」や「完璧」を求めてしまう気持ち・不安を抱えるよりは神話を信じて不安を解消してしまいたくなる気持ちは、よくわかるし、たぶん、私もそういう人間の一人だろう。それだけに、安全神話のようなものを期待する「空気」なり「世論」なりが出来上がってしまうのを回避するのは、簡単ではないだろうと想像せずにいられない。