シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

誰もあなたの適応の面倒をみてくれませんからねぇ。

 (2007/10/15午後にかなり書き換えました)
 
 http://d.hatena.ne.jp/i04/20071012/p1
 
 別に、リンク先の文章が「お前ら全員自分の内側で革命しろよ」という指示形をとっているわけではないにも関わらず、ブックマークの反応をみていると面白い身のよじり方をしている人もあるようだ。まぁそれは置いといて。
 
 脱オタは、娑婆に対して俺に合わせろと言うものではなく、いかに娑婆に自分を適合させるか・または娑婆の状況を上手く生かすか、という所に焦点づけられる個人的行為、だと思う。マクロの社会ではなくミクロの個人がどうであるか、またどうでありたいのか、について脱オタ者は考えているし、またマクロのことを幾ら考えたところで個人の適応がどうこうできるわけもない。どうせ、革命やら社会変革やらに自分の適応状況を面倒みてもらうというのは、ステップ気候に住んでいて熱帯雨林気候に変わって欲しいと期待するほどではないにしても、かなり望みの薄いことでしかないのだから。ついでながら、「革命の英雄」に投げ与えられたパンやらベーコンやらで人は幸せになれるのか、ということにも僕は甚だ疑問を感じてもいるわけだが。
 
 脱オタにおける汎用性、異文化間コミュニケーション可能性の拡大、というものは、必要に応じてだが異文化間コミュニケーションを通して新しい技術・知識・文化・人脈というものを得ることを大きな手段としている(注:目的とはしていない)。だからただ異文化の風に吹かれていればいいというものでもなく、異文化コミュニケーションから得るものなり快適さなりが全然得られないような、そんな異文化越境はあんまりよろしくないと思っている。それぐらいだったら自分の文化圏やコミュニティの内側で過ごしたほうが良いだろう、とは僕も思う。異文化間コミュニケーションは、単一のニッチの内側で生き続けることに比べると、様々な獲得物を得られるチャンスに富んでいるし、だからこそ必要な人は頑張ってみるのもいいと僕は思う。その代わり、異文化間コミュニケーションのしんどさ、やりにくさ、そして「他者というものとはいかに理解しあえないのものなのか」という大前提を引き受けること、などなどが求められることは覚悟しなければならない。それらの難しさを克服することは容易ではないかもしれないが、その難しさをどうにかできれば、単一の文化圏の井戸のなかで暮らすよりも、遥かに広い視野と多様性に富んだ技術や文化、「わかりあえない人とどうやってやっていくのか」という融通、といったものに接続できるチャンスが生まれてくると思う。ただしあくまでチャンスだ。頑張れば必ず上手くいくとは私は思わないし、やりたくない人はやらなくてもいいと思う。僕は、自分の適応の可能性をもうちょっと広げたいと思ったから、脱オタしたわけだけれども、それが唯一の生き筋だとは思っていないわけで。
 
 細分化されまくった今日日の世界で、異文化コミュニケーションを放棄して生きていくというのは、その瞬間においては楽には違いない。けれどもニッチの井戸の底で視力を失っていくことも、覚悟しなければならない。そうやって視力を失っていった帰結として、人生における適応の幅というものは狭くならざるを得ないだろう。例えば異性との交際も、所属ニッチが狭くて男女比が極端なら、諦めるしかあるまい。自分の生きるニッチやコミュニケート可能なレンジを狭く絞ること・異文化から得られる視座や技術や人脈に期待しないこと、というのがどの程度生き易いものなのかには、予断を許さないものがある。臆病な僕などには、それがとっても怖い生き方のようにみえたわけなので、適応の幅を広げ、色々な人から色々なことを教わって生き筋や人脈を増やさずにはいられなかった。真に豪胆な人ならば、そういうのは気にしないものかもしれないけど。
 
 ただ、現在の自分の適応の幅に不満を持っている人が、メシアが社会改革してくれると思って空を見上げて毎日待つのは極めて愚かな人生の無駄遣いだろう、とはやはり思う。そんな事をしたってメシアはやってこないし、この、差異化と細分化極まりない現代社会が昔のムラ社会に戻ることもありえない。脱オタのような、社会適応の手札を増やす活動に打って出るのでなければ、むしろ文化ニッチや現在の生存環境に特化するべく埋没したほうがまだしもマシというものだろう。中途半端に不満を抱きながら他力本願、自分では何をするわけでもなく、自己嫌悪と同族嫌悪に耽溺するというのが、多分一番生きるのが辛く、惨めな状況だろうと僕は思う。北斗の拳じゃないんだから、メシアなんて決してやって来ない。恨めしい顔をして他所のニッチを覗きながら不満を訴えるぐらいなら、目を閉じて自分のニッチだけに集中するか、異文化コミュニケーション大航海時代に乗り出すか、どっちかしかないと思う。
 

本物の蜘蛛の糸は一億ぺリカから

 
 
 天から金色の蜘蛛の糸が垂れている。ようにみえる。
 金色の蜘蛛の糸の周りで、亡者達が奪い合う光景は、阿鼻叫喚の地獄絵図だ。糸を垂らす、ふりをしている人達はほくそえむ。金色の蜘蛛の糸はもちろん釣りの餌で、彼らは亡者達のなけなしのエネルギーを吸い取っているのだから。必死に糸に伸ばした亡者の手は、ただ空を掴むのみ。そして段々衰弱していく。
 
 本物の蜘蛛の糸は一億ぺリカから。目に見えない所でひっそりと売られている地味な糸、目に見えない所でひっそりと埋もれている透明な糸のことを、亡者達は知ることがない。
 

極端な平等主義者の怖さ

 
 平等な状況、というものは自然状態では持続しない。任意の瞬間、平等と呼ぶに十分な状態が形成された時、その平等状態を構成する各人なり各個体なりに僅かでも差異が含まれる限り、一般に平等は時間経過とともに崩壊し、差異化は推進される。
 
 そりゃまあ、各個人・各個体のスペックや性別や位置関係が全く平等であれば、理論上、平等は永遠に平等を保ち続けると思うし、むしろその平等状態から差異を誘導することは不可能っぽいわけだが、娑婆の人間は腕力・知力・胆力も、生まれた年も、生きている場所も様々なわけで、各個人・各個体の所有する能力や座標軸はあまりにもバラバラで、みせかけの平等なり、平等に類似した状態なりを人為的につくりだしたとしても、それが時間とともに崩壊することは明らかだ。
 
 となると、各個人・各個体間にこれほどのばらつきがある娑婆世界で平等/平等類似状態を一定の枠内であっても維持しようとする場合、平等の枠からはみ出そうとする個体を平等の枠のなかに無理矢理引き戻す何らかのシステムが要求される。このシステムがもし十分機能する場合には、落ちこぼれそうな者を高きにすくいあげ、頭一つ飛びぬけた能力を持っている者を押さえつけることになるのだろう。また、平等のみを至上命題とする人にとっては、頭一つ飛びぬけた能力を持った人間を正規分布の中央へと押しやることに躊躇など感じることなどないのだろう。しかし、この状況下では正規分布の真ん中にいる以外の総ての個人は「平等という枠組み」によって抑圧されることを免れない。世の中には、皆の平等と個人の自由という相反する命題を実施しようとする理想屋さんもいるけれども、完全なる平等を目指せば目指すほど、平等の枠組みによって(二項分布の真ん中にいない人は)大きな制約を蒙ってしまうことは覚えておきたい。二項分布の左側の人間は平等を実現する為に背伸びをさせられ、二項分布の右側の人間は平等を実現するために頭を切り取られてしまう。
 
 いや、少々の背伸びや押さえつけで何とかなるぐらいならいいのだが。(任意の次元において)もはや背伸びのしようもないほど「できない」人や、(任意の次元において)押さえつけようもないほど「できてしまう」人というのは、平等の実現にとってきわめて有害な、平等至上主義者にとって悪夢のような存在だ。平等を執行するにあたり、口で言っても手で押さえつけてもコントロールできない平等阻害要因がいるとするならば、そういった個体は平等至上主義者にとって粛清の対象になりかねない。むしろ平等を至上命題にする理想主義者ならば、コントロール不能の逸脱者をすべて粛清の対象という感覚に痛痒を感じてはいけないのかもしれない。
 
 人間は、生物は、すべての個体間に差異を内包している。程度問題としての極端な不平等の均整化は良いとしても、平等への強迫的固執は、どう考えても生物が内包する差異、個人が含まずにはいられない個人差、というものを無視したやばい方向にしかいきそうにない。だが、極端な平等主義者というのはいないようで意外とみかけるような気がする。ああいう人達に独裁スイッチを渡したとしたら、どこまで粛清すれば満足していただけるんだろうか。生物の滅亡までスイッチを押し続けるのだろうか。程度問題や現実問題を無視して平等平等と言っている人達の無邪気な声を聞いていると、ああ、この人達の平等はびっくりするほどディストピアなんだろうなという気がして寒気がする。恐ろしい恐ろしい。