シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

優越感ゲームに胸膨らませる新大学生へ

 
差異化ゲームと笑いたきゃ笑え。
 
 (シロクマ)
 大学一年生の皆さんも、そろそろサークル活動や授業が決まってくる頃ではないかと思います。これまでは自分のことで手一杯だった人も、周りにどんな人がいてどんな特徴を持っているのかに目が行き始める時期なのではないでしょうか。クラスやサークルの皆と仲良く、明るく楽しいキャンパスライフを送りましょう。因果は回ってくるものです。善行を積み、カルマを清く保ち、充実した四年間をお過ごしください。
 
 (クロクマ)
 ヒッヒッヒ、ぬるい奴らを踏み台にして優越感に自惚れろ。ライバル達に差をつけて、かわいいあの娘をゲットしろ!サークルは椅子取りゲームだ、クラスも椅子取りゲームだ、就職活動も研究室選びも椅子取りゲームだ。お人好しな連中を踏み台にして、強い先輩を引きずり下ろし、小さなお山でふんぞりかえれば、お前はたちまち優越感という名の麻薬の虜になれるだろう。もしもちょいモテなサークルだったりするなら、ククク、優越感以上の“実質的なベネフィット”にもありつけるってモンだ。さぁ新入生諸君、優越感ゲームに出遅れるな。もうライバル達は走り始めている。グズグズするな!情けを捨てて這い上がれ!狭いニッチをお前のモノにしろ!
 
 そうだ、分かっているとは思うが狡く賢く慎重に振る舞うんだぞ。鼻につくほど露骨に優越感を示しすぎれば、お前は政治的に追いつめられるだろうし、(お前が勃起したくなるような)女の子もそういうナルシストは望んでいない。「よく訓練された優越感ゲーム」として善行を積むことをお勧めしよう。可視化された善行は、椅子取りゲームをやるうえで大いなる助けとなる。もちろん不可視の善行は椅子取りゲームの役には立たないからそのつもりでな。今日日、我が侭なナルシストなんて流行らないんだ。お前みたいな、善良な顔をした、それでいてこっそりとナルシスティックなろくでなしのほうが、小さなお山で機嫌良くやっていくには向いている。善良な面構えで誰に対しても分け隔てなく優しく振る舞ってみせる事自体が、既に優越感ゲームだ。ライバル達にはっきりと差をつけておけば、お前の大学生活は“安泰”ってもんだ。

 
 (シロクマ)
 馬鹿クロクマの言うことを真に受けないでください。
 
 (クロクマ)
 もし、使えそうな成分があったら、勝手に取り出して適当にどうぞ

 

しかし神風は吹かないし、デカルト神は降臨しないのである。

 
 かつてこの国では、建前の水準でだか本音の水準でだか分からないけれども、気合いと思い入れで戦争が勝てると思いたがる人が沢山いたんだそうな。思いたがる、というのは語弊があるかもしれない。「気合いと思い入れのある我々は戦争に勝つべきだ、勝たなきゃおかしい。よってこの戦争に全精神力を没入している一億火の玉な我々は、勝つべきなのだ。留保の無い戦果の肯定を!」といった具合に、精神性を理由とした“かくあるべき論”が大手を振ってのし歩いていた、と表現すべきか。勝てるか否かと勝つべきか否かを上手く混同し、勝つための物資を勝ちたいという渇望で補えると信じるならば、神風はきっと吹く。――しかし、連合軍は三流SFの敵役でもなかったし、デカルト神も降臨しなかった。留保の無い戦果の肯定など、三文芝居のご都合主義と何も変わらない。にも関わらず、昭和二十年頃まで「留保の無い戦果の肯定を!」という思いこみから脱することが出来なかった人は(中枢にいた人も含めて)少なくなかったんじゃないかと思う。
 
 あれから六十余年。
 太平洋戦争当時の日本軍に横行した“いわゆる精神論”では現実に対処出来ないことを誰もが知り、ご先祖さまの行いを嘲笑する人も多い。しかし…本当に僕らは学んだんだろうか。物量とか戦略とかを“かくあるべき論”によって混同する性質を治癒せしめただろうか。さぁ、巷に耳を傾けてみよう。
 
「協調性と愛社精神があるならアルコールは呑める筈だ、肝臓なんて関係ない。よってこの宴会でお前は飲酒すべきなのだ。留保の無い宴会の肯定を!」
「気合いと思い入れがあるなら後遺症は残らない筈だ、治らなきゃおかしい。よってこの治療で彼は完治すべきなのだ。留保の無い完治の肯定を!」
「こんなに異性に渇望している以上、俺にも恋愛はあって然るべきだ、俺には恋愛の権利がある。よって日常のなかで俺は美人と交際すべきなのだ。留保の無い恋愛の肯定を!」

 
 “べき論”“思い入れ”に基づいて留保の無い○○の肯定を叫ぶ習慣を引きずっている子孫が多いみたいですね。
 
 
 “べきかどうか”“思い入れの強弱”は、事物の可否を決定づけるせいぜい一要素に過ぎないのだが、自分達の願望が絡むと盲目になってしまうのだろうか。まぁ、戦争とは異なり、一人の利害に関してはグズれば通るところも娑婆には結構あるので、ミクロの個人が我が侭を通す戦術としての“留保の無い○○の肯定を!”はわからなくもない。だけどもっとマクロで集団なレベルの“べき論”“思い入れ”は無意味で、無力で、視野狭窄を促進するという意味では有害ですらあるだろう。戦闘機は気合いだけじゃあ飛んでくれない。アルコール分解酵素*1は思い入れだけで生成されるものじゃない。かわいいあの娘を念じるだけで振り向かせるのは不可能だ。だけど、「留保の無い○○の肯定を!」と叫ぶ人には、それが分からないか、分かりたくないんだろうな、と思う。出来るかどうかよりも、出来るべきかどうかだけを考える人達。しかし神風は吹かないし、デカルト神が娑婆に降臨することも無いのである。
 

*1:実際はADHのほうがアレだけど