シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「恋愛結婚が当たり前」だった時代の終焉と、これから

 
togetter.com
 
 リンク先には、恋愛を経ないで結婚を望む若者の話がまとめられている。
 
 昔から「結婚と恋愛は別物」とは言われているにもかかわらず、結婚するために必ず恋愛を経由しなければならないのは理不尽なわけで、こういう意見が出てくるのも当然だろう。家族を持つ・子どもを育てるといった家庭的なノウハウと、異性とときめいた時間を過ごすためのノウハウは大きく違っているので、恋愛が下手だから配偶者として不適かといったら、そうとも限らない。むしろ世の中には、恋愛上手だけれども結婚相手としては最悪な人も多い。だから、結婚する前に恋愛しなければならないという固定観念は「恋愛なんてどうでもいいから結婚したい」人には邪魔でしかない。
 


 
 岡田育さんが言っているように、恋愛の延長線上に結婚があるというのは一種の思い込み、あるいは共同幻想でしかない。
 
 

猫も杓子も恋愛だった、あの時代

 
 そういえば、猫も杓子も恋愛を持ち上げていた、あの、恋愛結婚の時代とは何だったのだろう?
 
 ある時期までの恋愛結婚には、伝統的なライフスタイルや価値観から離れ、欧米風のライフスタイルや価値観に憧れるニュアンスが含まれていた。好きな者同士が自由に結婚できる社会は、そうでない社会よりは望ましいものだっただろう。
 
 だが、恋愛結婚のアーリーアダプター達の二代目が思春期を迎え、恋愛結婚のレイトマジョリティが結婚適齢期を迎えた後の時代においては、そうとも限らない。
 
 憧れの対象だった恋愛結婚は、いつしか当然のテンプレートとなり、ある種の強迫性を帯びてきた。「好きな者同士が、自由に伴侶を選びあう」はずの恋愛結婚が、「好きな者同士を探さなければならない」ものへと変貌していった。今にして思えば、四半世紀ほど前の若者は、今の若者よりも必死に恋愛して、結婚しようとしていたと思う。彼氏・彼女がいることが正義で、彼氏・彼女がいないことが悪であるかのような雰囲気が漂っていた。90年代のクリスマスの雰囲気などは、まさにそういうものだった。
 
 そして、そういった雰囲気についていけない者には、「ダサい」という烙印が容赦なく押された。「まじめな」「かたい奴」だとしても、「ダサくて」「恋愛ができなければ」話にならない――そんな風に考えている人が、当事者たる若者だけでなく、少し年上の人達にすら珍しくなかったことを、私はよく憶えている。
 
 今にして思うと、あの、恋愛にみんなが必死になっていた時代に、心の底から恋愛したがっていた人はそれほどいなかったんじゃないかと思う。
 
 「みんなが恋愛しているから」「テレビやドラマで恋愛が恰好良いこととして描かれているから」「恋愛していないとダサいと思われるから」、なんとなく恋愛しよう、とにかく恋愛しなければ、と思っていた人って結構いたんじゃないだろうか。表向きは自由なパートナー選択が浸透したようにみえて、実のところ、恋愛の強制というか、自由選択を無理矢理に押し付けたものではなかったか。恋愛結婚推進派は、見合い結婚やイエの都合による結婚の不自由を批判し、自由な恋愛を良いものとしていたけれど、そういう自由が与えられた結果として、それでみんな恋愛を謳歌し結婚できていれば、世の中はこんなに少子化にはなっていない。
 
 恋愛と結婚がセットとみなされるようになって実際に起こったのは、非婚化と少子化だった。それと、恋愛して結婚しなければならないという、強迫的な固定観念。
 
 

アーリーアダプターにとっての自由はレイトマジョリティにとっての束縛

 
 ところで私は、旧来の束縛から自由にしてくれるような価値観やライフスタイルは、ある時点までは自由の源でも、ある時点からは抑圧の源になってしまうと思っている。
 
 そこには例外は無くて、初期のキリスト教の教えも、昨今の個人主義も、諸々の解放運動のたぐいもたぶん同じ。新しい価値観やライフスタイルがまだ世間に浸透しきっていないうちは、それらはアーリーアダプターを自由にしてくれる。だが、レイトマジョリティにまで浸透し、半ば常識とみなされるようになると、今度はその価値観やライフスタイル自身が旧来の束縛に取ってかわって、人々の心を縛り付けるようになる。
 
 恋愛結婚もそういうものだったのだろう。
 
 加えて、マスメディアと企業家がそこに手を突っ込んで、恋愛と結婚が、さも常識であるかのように吹聴した。若者に恋愛してもらったほうがお金が儲かる、若者がお金を落としてくれる、というわけだ。
 
 言い換えると、トレンディドラマやクリスマスのシティホテルやレジャースキー場は、あの世代の男女関係に値札をつけて換金したってことだ。値札のついていなかったものに値札をつけて金儲けとは、いかにも現代資本主義的なことだが、そのためには、恋愛が固定観念になって、クリスマスを異性と過ごすのが常識になって、カップルでスキー場に出かけるのがトレンディでなければならなかった。バレンタインデーだってそうだ。そうやってメディアをあげて馬鹿騒ぎをして、「恋愛できなければ人にあらず」という雰囲気をつくることが、お金儲けをしたい人達にとって肝心だったのだろう。
 
 おぼこいことに、私も私の周辺の同世代も、そういう換金の構図にはほとんど気付いていなかったが。
 
 

やっと恋愛の呪縛が解消されてきた

 
 でも、バブルがはじけて、就職氷河期があって、恋愛結婚についていけない人が続出して、それからも長い時間が経って。どうやら下の世代は恋愛の呪縛から少しずつ解放されてきたようにみえる。
 
 恋愛したい人はすればいい。けれども、したくない人はしなくて良い。
 結婚したい人はすればいい。けれども、したくない人はしなくて良い。
 
 もちろん現在でも、「孫の顔が観たい」的なプレッシャーは残っている。けれども、「恋愛できなければ人にあらず」という雰囲気が無くなっただけでも好ましいことだ。
 
 他方で、以下のような見解もある。
 



 
 そう、いつしか恋愛と恋愛結婚には「恋愛できるぐらいに社会性を身に付けている」という成長の証、つまり通過儀礼としての性質を帯びていった。自由な個人主義社会ができあがり、社会から通過儀礼らしきものがことごとく消え去った後には、恋愛経験が通過儀礼としての機能を帯びるようになった。通過儀礼としての機能を帯びるようになったということは、つまり、恋愛もまた個人を抑圧する社会的因子の一つになったということに他ならない。
 
 しかし今、恋愛のそうした通過儀礼的で抑圧的な性質までもが希薄になりつつある。おめでとう! 私達は、またひとつ自由になりましたね! まあ、この自由もまた未来の不自由の芽になっていくのだろうが、その負債を支払うのは現世代ではなく未来の世代なので、今は喜んでおけば良いのだろう。
 
 恋愛の呪縛が解消された後の世界は、戦前世界に先祖返りするのではない。イエも血縁も希薄になった現代社会における「恋愛抜きの結婚」とは、旧来の結婚に比べてもっと社会契約的で、もっと経済的で、もっと身も蓋も無いものになるだろうと私は予感する。そういう、身も蓋も無い結婚や社会契約的なパートナーシップが新しい常識となり、新しい抑圧の源となった時、未来の世代は何を思い、何を悩むだろうか。
 

私にとってのダリ展

 
salvador-dali.jp
 
 先日、東京出張の合間に時間ができて、なにか面白いことがないかネットで検索していたら、国立新美術館でダリ展をやっているのを発見して出かけてみた。
 
 有名画家だけあって混雑していたけれども、見に行って本当に良かった。そのあたりについて、思い出話を交えながら書き綴ってみる。
 
 
 
 *    *    *
 
 私がダリという画家を知ったのは、大学二年生の時だった。
 
 田舎育ちで無教養な学生だった私は、シュールレアリスムには全く関心を持っていなかった。一応、大学一年生の時に美術史の授業を取っていたけれども、美術に興味があったわけでもなく、「単位が取りやすい」と評判だったから選択したに過ぎない。
 
 ところがある日、東京に進学した同郷の友人が「面白いものを買った」と言ってダリの画集を熱心に薦めてきた。
 

ダリ NBS-J (タッシェン・ニュー・ベーシックアート・シリーズ)

ダリ NBS-J (タッシェン・ニュー・ベーシックアート・シリーズ)

ダリ全画集 (25周年)

ダリ全画集 (25周年)

  
 その画集には、不可解で偏執的な絵がズラズラと並んでいた。タイトルも怪しく、わけがわからない。
 
 美術もアートもわからない私にも、ダリの絵は面白かった。すごく細かく書き込まれていて、アンバランスで、刺激的で、夢の中みたいだった。なにより、「俺にも楽しめる絵画が存在する!」というのが大きな発見だった。
 
もっと知りたいサルバドール・ダリ (生涯と作品)

もっと知りたいサルバドール・ダリ (生涯と作品)

 
↑こういう絵柄が嫌でなければ、美術に関心の乏しい人でもダリの絵なら楽しめると思う。もし好奇心を抱いたなら、ダリ展の会場に足を運んでみて欲しい。きっと、大学生時代の私と同じようなインパクトを受けて、面白く眺められると思うから。
 
 
 *    *    *
 
 このダリがひとつの突破口になって、その後の私は絵画を少しずつ眺めるようになっていった。
 
 ジョット。
 エル・グレコ。
 フェルメール。
 印象派。
 ピカソ。
 
 それらの絵画を眺めるたびに、大学の美術史の記憶が蘇った。もちろん授業内容はすっかり忘れていたけれども、西洋美術の全体的な流れは覚えていて、これが非常に役に立った。私は、大野左紀子さんの『アート・ヒステリー』で述べられているような、ある種のテンプレートどおりの態度で絵画を見て回った。
 
 
アート・ヒステリー ---なんでもかんでもアートな国・ニッポン

アート・ヒステリー ---なんでもかんでもアートな国・ニッポン

 
 ただ、そうやって色々と見て回っているうちに、あの、アンバランスで、刺激的で、夢の中みたいだったダリの絵画は少しずつ相対化されていった。
 
 私にとって唯一無二の「面白い画家さん」は、たくさんの画家のなかの one of them になってしまった。もともと乏しかったシュールレアリスムへの興味は消えてなくなり、私のお気に入りはルネサンス期の宗教画になった*1。そして印象派よりも後の西洋絵画は、感動するためでも魅了されるためでもなく、理解するもの・解釈するものとみなすようになってしまった。
 
 そのうえ、私は精神科医のはしくれとして病碩学にも興味を抱いてしまった。私にとっての病碩学とは、画家や作家を精神疾患に沿って分類するものではなく、ジャンルのテンプレートに収まりきらず、疾患分類にも入りきらないものを噛みしめるための手がかりだった。
 
 そういう病碩学の目線でムンクやゴッホの絵を眺めると、これが面白くてたまらない。
 
 ところが、この私流病碩学の視点でみると、ダリはそんなに面白くないように見えたのだった。
 
 大学生時代の私を面白がらせてくれたダリの絵は、病碩学的にみると優等生のように見えてしまった。信じられないほどよくできているが、端正過ぎる。偏執的なところも、わざとらしいんじゃないのか? もしかして、天才のふりをした秀才なんじゃないか。いや、天才だとしても、ダリってのは“おさまりの良い”天才なんじゃないか。
 
 他方で、他のシュールレアリスム画家のなかには、ダリよりもアンバランスで奇妙なものを内包した、不可思議な人がいたりもしたのだった。
 
 
Leonora Carrington: Surrealism, Alchemy and Art

Leonora Carrington: Surrealism, Alchemy and Art

 
Remedios Varo: Unexpected Journey

Remedios Varo: Unexpected Journey

 
 ダリと比べて、このあたりの画家さんの絵には得体のしれない気配を感じる。ムンクほど病的ではないし、不穏な気配を押し付けてくるようなものでもない。精神病的なものやオカルト的なものに呑み込まれているわけでもない。ただ、技巧と内面がギリギリのところで均衡しているような、ハラハラするものを私は感じてしまう。
 
 こういう絵画を知るうちに、ますますダリは相対化されていった。
 もっと面白いものがたくさんあるじゃないか。
 
 
 *    *    *
 
 そんなわけで、私はあまり期待しないでダリ展に臨んだ。
 
 ところがどっこい。たいしたものじゃあないですか。
 
 画集ではなく、実物がズラズラと展示されているせいか、それとも展示会という装置がアウラ、またはスピリチュアルな雰囲気を提供しているせいか、ともかくも私は圧倒されて、夢中になって眺めていた。
 
 《降りて来る夜の影》も《奇妙なものたち》も、画集では気付かなかったものが溢れていて、なんだこりゃあ、凄いと思わずにいられなかった。蟻や松葉杖や目玉焼きといった小物のデザインも、その配置や構図も、信じられないほど素晴らしく見えた。
 
 でもって、これも画集の時には気付かなかった、ダリならではの病碩の気配というか、「この人にしかない何か」を感じ取った気もした。草間彌生の古い作品のようなキツイものではないけれども、ああ、ダリも人の子、すなわち偏りを抱えた人なのであって、狙って偏執的というより、やはり偏執があったのだなあと合点がいった。
 
 大学生時代に魅了されて、いったん心が離れていた「ダリおじさん」だったけれども、結局とても良かった。きっと私は、これからもダリの作品を見に行くのだろう。
 
 
 *    *    *
 
 それと、展示会の企画のおかげかもしれないし、私が歳をとったからかもしれないけれども、ダリという人の成長の軌跡を確かめられたのは良かった。
 
 最初のうちはいろんな描き方を試している。好奇心旺盛な子どもや、流行りものを一生懸命に追いかける若者みたいだ。ダリは凄い画家だが最初から完成していたわけではなかった。
 
 そしてダリの成長は晩年になっても続いていく。
 
 かつて私は、ダリの後半の作品はあまり魅力的ではないと思っていた。変に落ち着いていて、ワクワクしてこなかったのだ。
 
 ただ、作品展を順番に回ってみると、歳を取った後の作品もこれはこれで味わい深く、なによりダリという画家が決して立ち止まらなかったことがよくわかった。
 
 もし、ダリが三十代の頃と同じ作品を創り続けていたなら、彼は立ち止っていたと言わざるを得ない。しかし、ダリは立ち止まっていなかった。首尾一貫したものを保持しながらも、新しい表現、新しい境地を求めて変わり続けていた。
 
 そうやって改めて眺めると後半の作品も味わいがあり、新鮮味があって、心を打つものがあった。《テトゥアンの大会戦》なども、こんなに見どころたっぷりな作品とは思わなかった。画集ではなく、作品そのものを見なければきっと気づかなかっただろう。
 
 天才といえども、立ち止まってしまえばそれまでだ。
 だが、ダリは前へ前へと進み続けていた。
 
 いろんな意味で、大学生時代には気づきようのなかった、忘れがたいインパクトを受け取ったと思う。
 

*1:もちろん今でもお気に入りだが

愚者が勧める迷ったときに読みたい5冊

 
www.houdoukyoku.jp
 
 
 リンク先は「賢者が勧める5冊」となっていて、そこに自分の名前が入っているのは汗顔の至りですが、たくさんの人にお勧めできる本として以下の二冊を紹介しました。
 
 
 

運と気まぐれに支配される人たち―ラ・ロシュフコー箴言集 (角川文庫)

運と気まぐれに支配される人たち―ラ・ロシュフコー箴言集 (角川文庫)

 
 こちらはともかく、
 
  
 
私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 
 こちらの、分人主義のお話に私は100%同意しているわけではありません。
 
 「コミュニケーションは場で起こっている。場によって変わる」という発想には親しみを覚えます。でも、根っこのところには自分というものがやっぱりある、自分からは逃げられない、という発想を私は捨てられないのです。
 
 分人主義の話は、柔軟で穏やかなパーソナリティの人にはかなり当てはまると思います。そういう人は、Aさんと喋る時にはAさんと会う時の顔をして、Bさんと喋る時にはBさんと会う時の顔をして……といった使い分けが自然と起こるでしょう。ならず者のCさんに出会った時には、ならず者に遭遇した時の顔をするでしょう。
 
 しかし、世の中には、Aさんに会ってもBさんに会ってもほとんど同じ反応をする人もいます。ならず者のCさんに会った時ですら、あまり反応が変わらない人もいます。精神医療の世界では、そういう人を少なからず見かけます。
 
 「コミュニケーションは場で起こる」という分人主義の考え方は良いものですが、それだけでは、どこの職場でも似たようなコミュニケーションになってしまう人、どんな異性と付き合ってもパートナーを駄目にしてしまう人の、個別性を忘れてしまいます。人によっては、「コミュニケーションがうまくいかないのは全部相手のせい」と勘違いしてしまうかもしれません。

 要するに、個人のメンタリティや精神病理も忘れちゃいけないでしょう、と。
 
 でも、よほど偏っていない限り(=精神病理が特殊でない限り)は、分人主義の考え方でおおむね構わないでしょうし、人間関係で迷っている人が発想転換するためのメソッドとしては優れているので、お勧めした次第です。
 
 

迷える愚者が読み耽っていた本5冊

 
 本題はここから。
 
 不特定多数にお勧めするなら上の2冊ですが、私に近い感性を持った、ごく狭い範囲の人にお勧めしたい本、迷える愚者としての私が読んでいた本を5冊挙げてみます。
 
 以下の本は、私が迷って苦しんで、「死にたいなー、でも、死ぬわけにもいかないから仕方なく生きるかー」と考えていた頃に読み耽っていたものです。
 
 私は、迷っている時にはストレートに迷いを晴らそうとするのでなく、ドン底気分を這い回るのが好みなので、それが反映されています。ストレートに迷いを晴らしたい人はご遠慮ください。心が灼けますよ。
 
 
 

侏儒の言葉

侏儒の言葉

 
 芥川龍之介が晩年に書いた、シニカル全開の箴言集。「人間なんて、こんなものですよ」という醒めきったアングルですが、読んでいると暗い笑いがこみあげてきます。本のボリュームが少ないので、気力を失っていても読めます。
 
 これに限らず、オロオロしていた頃の私は芥川龍之介の作品を読み漁っていました。生きる元気も、明確な指針も得られませんでしたが、ため息をつきながら生きていくしかあるまい、という諦念のようなものは得られたと思います。あと、文章に硬い感じがあって気持ち良いですね。
 
 
 
平家物語 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

平家物語 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

 
 平家物語。ところどころ華やかですが、世の中の儚さと人間の愚かさがいっぱい詰まっていて、悲しい物語です。個人的には、「炎上」が平家物語の素敵なところだと思います。清水寺、善光寺、都、燃えること燃えること。ダークな気持ちになっている時には、この炎上がアポカリプスな感慨を与えてくれるので、ツボにはまると効くと思います。
 
 
 
賭博者 (新潮文庫)

賭博者 (新潮文庫)

 
 『罪と罰』もいいんですが、なにしろ大部なので気力を失っている時には読めません。その点、『賭博者』や『地下室の手記』はボリュームが少ないので助かります。今の私は、ドストエフスキーの作品には暗くても悲しくても人間として生きる・生きるっきゃない、みたいな裏返しの明るさを感じますが、迷っている時に読むと、人間の悪しき情念に引き込まれてしまうかもしれません。というか私はそんな感じだったので、ドン底気分を這い回りたい時にもいいんじゃないでしょうか。
 
 
 
クロイツェル・ソナタ/悪魔 (新潮文庫)

クロイツェル・ソナタ/悪魔 (新潮文庫)

 
 こちらは恋愛で悩んでいる人向けに。男性限定ですが、片思いでも両想いでも効くんじゃないでしょうか。脳天をかち割られてください。
 
 
 
グミ・チョコレート・パイン グミ編 (角川文庫)

グミ・チョコレート・パイン グミ編 (角川文庫)

 
 「古典」ではないので、もう古くなっているかもしれません。鬱屈した思春期を過ごしていた私は、大槻ケンヂさんの音楽や文章のお世話になっていました。グミ・チョコレート・パインは三部作ですが、私は、物語の筋を追うよりも、鬱屈した思春期心性に溺れるのが楽しいかなぁと思っています。駄目っぽい雰囲気ですが、この5冊のなかでは一番明るいような気はします。
 
 
 

迷っている時は迷えばいいと思う

 
 私の場合、迷っている時に「すぐに迷いから覚める正解を求めよう」「他人や本から解答を得よう」とはあまり思いません。
 
 迷っている時って、なんとか迷いから醒めたいと願うのが人間の常だとは思います。でも、そういう時に正解や解答を得ようともがいても、結局、ダメだとも思うんですよ。
 
 もし、本や他人から正解や解答らしきものをいただいたとしても、それは本や他人が与えてくれた以上に、自分自身のなかで既に次の道筋が立ち上がってきて、正解や解答を受け入れる準備が整っていたからじゃないでしょうか。
 
 だから、迷っている時は思いっきり迷えばいいと思うし、ダークな気持ちの時はそれに見合ったものを読んだっていいんじゃないのかなと、私個人は思います。
 
 あとは、メンタルヘルスを悪化させないように、迷っている時こそ規則的な生活を。色彩を失った機械的な生活も、必要な時期ってのはあると思います。迷いが晴れるにも、落胆から立ち直るにも、時間こそが絶対的に必要な状況ってのはあって、そういう時に無理をして立ち直ろうとしても、消耗するばかりで一層迷ったり落ち込んだりすることが往々にしてあります。まあ、迷っている時のほうが、かえって色々やりたくなってしまうのもわかるんですが。
 
 「迷っている時って、案外、じっとしていたほうが上手くいくことも多い」と年を取るにつれて思うようになりました。急いては事をし損じる。そういう、じっとしているべき時期には、読書は悪くない選択肢かもしれません。
 

「本棚をみせてごらんなさい。あなたがどんな人間か言い当ててみましょう」

 
www.houdoukyoku.jp
 
 リンク先で、読書についてのインタビューにお邪魔しました。メインテーマは「アラフォー世代の読書」ですが、私としては、後半の「本棚の話」のほうが好きだったりします。
 
 「本棚」って魔性のアイテムですよね。
 
 本棚に入っている本には、その人の執着や趣味や知性やコンプレックスやフェティシズムがびっしり詰まっています。ネット通販の購入履歴などもそうだと言えますが、ただの購入履歴と違って、本棚には入れ替わりがあって、要らない本は本棚からふるい落とされて、その人が必要としている本や執着し続けている本だけが残る、という特徴があります。
 
 だからこそ、本棚にはその人のさまざまな側面が反映されます。タイトルの、「あなたの本棚をみせてみなさい。あなたがどんな人間か言い当ててみましょう」は、ぜんぜん不可能ではありません。リンク先で喋っているとおり、本棚を他人にみせる行為は、まかり間違えば精神の裸踊りになってしまうでしょう。
 
 もちろん本棚と言っても、リビングには「他人に見せても構わない本棚」があり、寝室や書庫には「他人には見せない本棚」があります。でも、そうやってわけて本が置いてあること自体も、その人の人となりを反映しているし、後者はもちろん、前者を眺めるだけでも面白い情報を読み取ることができます。
 
 たとえば、仕事用の本と趣味の本、雑誌などが雑多に置いてある本棚があります。本に対してあけっぴろげな、それでいて本が動いているのがみてとれる本棚は活気があって好きです。その人の生活実態と、本のチョイスがぴったり一致していると、素直だなーと感じます。
 
 料理のテキストブックや、子どものための絵本の並ぶ本棚も良いものです。でも、そういった本が気持ち悪いほど整然と並んでいて、動きの感じられないケースもあります。子ども向けの絵本などは、使っていればなんとなく騒がしくなるものですから、あまりにも整然としていると、気味が悪いものですね。
 
 リビングに、小難しい本やマニアックな本がたくさん置いてある本棚もあります。それらの本は、持ち主の知識の中枢部でしょうか? それとも、自分を偉くみせるための虚栄心の中枢部だけでしょうか? このあたりは、持ち主とじかに話して、本棚の様子と照らし合わせてみると、本棚の正体がだんだん見えてくるでしょう。虚栄心といっても、他人に対して見栄を張っている場合もあれば、自分自身に対して見栄を張っている場合もあります。
 
 あと、古い家で見かけることのある、リビングの“百科事典全集”。ほこりを被っていて、版も古く、使われていないのは一目瞭然なんだけど、まるで神棚のごとく鎮座しています。「リビングに百科事典があればご利益が得られる」と言わんばかりの雰囲気は、失われた教養主義、いや、教養信仰の名残りのようで、侘しく感じます。今の若い人達は、そんな本をそんな風に本を拝んだりはしないでしょう。ああいう本棚がみられるのも、たぶん、今のうちだけです。
 
 

電子書籍が来て、我が家の本棚はますます“濃く”なった

 
 ところで、最近は電子書籍が使えるようになり、大量の本が端末ひとつに収まるようになりました。我が家の本棚も、漫画やライトノベルが電子書籍に吸収されるようになり、新書の一部も電子書籍で読むようになりました。
 
 反面、電子書籍を使いまくっても本棚は滅ばないんだな、とも思いました。
 
 愛蔵しておきたい漫画、思い出に残ったライトノベルは、電子書籍には切り替えませんでした。紙の本として保存しておく漫画やライトノベルはそれだけ特別なわけで、本棚の“濃さ”が高まる一因になったように思います。
 
 新書のたぐいも、電子書籍で買って良かったものを、紙の本で買い直すことがあります。何度も読みたい本・何度も調べたい本は、紙の本のほうが便利なんですよね。雑に扱っても痛まないし、電源もつけなくて良いし、読みたいページをすぐに引っ張り出せるし。
 
 もちろん、医学書をはじめとする専門書の多くは電子書籍になっていないので、紙の本を本棚にしまっておくしかありません。
 
 電子書籍に要らない本やたいしたことのない本が吸収された結果として、我が家の本棚はますます“濃く”なり、ますます私自身を反映した、うかうか他人に開陳できないようなものになってしまいました。電子書籍があるからといって、本棚の重要性はあまり失われていません。「本棚をみれば人間が読める」って傾向もたぶん変わっていないでしょう。
  
 

信頼している人にしか見せないほうがいい

 
 ともあれ、本棚は本当に親しい人にしか見せたくないし、また、見せるべきでもないんでしょう。 
 
 逆に考えると、本棚を大切にしている人が自分の本棚を見せてくれたとしたら、それはだいぶ信頼してくれている証拠だと思うので、ありがたく拝見して、脳裏にしまっておくのが良いのだと思います。本棚は、その人の精神、その人の執着そのものにほかならないのですから。
 
 

みんなボジョレー飲もうよ!(ヌーヴォーは要らない)

 
togetter.com
 
 リンク先は、「自称ワイン通」についてのエピソードをまとめたものです。微笑ましいお話もありますが、ワインで気取りたい人の失敗を馬鹿にするお話もあって、自分の黒歴史を思い出してしまいました。
 
 「ワインなんて気取って飲むものじゃない」ってのはそのとおりかもしれませんが、「ワインで背伸びをしたい」気持ちが湧くことがあるのも事実だと思うのです。だから、リンク先のような“やらかし”を経験した人は、結構いるんじゃないでしょうか。
 
 なんやかんや言っても、日本人にとってのワインは舶来の品です。品質の高い国産ワインが流通するようになった現在でも、ワインというジャンル自体が、そういう雰囲気を抱えています。だから、“やらかし”を見かけても、そっとしておくのがいいんじゃないかな、と私などは思います。
 
 

そんなことより、ボジョレー飲もうぜ

 
 それより、今年もボジョレー・ヌーボーの解禁日が近づいてきました! 
 
 私はボジョレー・ヌーボーはあまり好きではありませんが、普通のボジョレーは好きです。なぜなら、ボジョレーは値段が手ごろで、しかも大抵の日本食に付き合ってくれるからです。
 
 
ジョセフ・ドルーアン ボジョレーヴィラージュ
 
 ボジョレー・ヌーボーは飛行機で運ぶため、普通のボジョレーより割高です。しかも、ヌーボーというだけあって、葡萄を収穫してワインにするまでの時間が短いときています。
 
 それに比べると、普通のボジョレーはヌーボーよりも長い時間をかけて作られているし、船便で運ぶので、値段も安めです。
 
 
ボジョレー・ヴィラージュ [2014] ロピトー
 
 上のワインなんかは1000円ほどで手に入ります。だったら、わざわざ倍ほどのお金を払ってヌーボーを買う必要なんてないでしょう。
 
 なにより、ボジョレーは日本で食べるいろいろな料理と相性が良いように思います。
 
 たとえば、お盆やお正月に親族一同が集まった時に出てくる「オードブル」。ああいう雑多な料理といただく時には、ボジョレーは無類の強さをみせてくれるように思います。
 
 ボジョレーは、「オードブル」に出てくる特定の料理と抜群に相性が良いわけではありません。でも、どの料理と食べ合わせてもボジョレーは付き合ってくれるんですよ。
 
 味が濃くてクセのあるイタリア料理やフランス料理ならともかく、わりと薄口な料理が万遍なく出てくる日本の食卓では、ボジョレーは「広い範囲の料理と80点のお付き合い」をしてくれると感じます。
 
 高級なカリフォルニアワインやボルドーワイン、濃厚なチリワインは、ともすれば薄口の料理を蹴散らしかねません。でも、ボジョレーなら心配ご無用。魚料理の時ですら、まあまあ付き合ってくれます。ヒラメやカワハギといった白身の刺身が相手の時はちょっと苦しいですが、それでも他の赤ワインよりはマシです。
 
 日本では、ボジョレー・ヌーボーのことを笑う人がたくさんいます。笑われてもしようがないワインなのは事実でしょうし、イベントにかこつけてワインを売っている感じが否めないのも事実です。
 
 ただ、そんなボジョレー・ヌーボーがこれほどまでにしぶとく売られ続け、買われ続けているのは、なにげにボジョレー全般が日本の食卓と相性が良いからではないか、とボジョレー贔屓の私などは思ってしまいます。
 
 ちょっと消極的な褒め方かもしれませんが、これって、“日本人にとってのワイン”という視点で考えると、捨てがたい長所だと思うんですよ。
 
 

日本の食卓にはボジョレー!!

 
 「ワイン選びはややこしい」って人には、ボジョレー、やはり捨てがたいと思います。
 
ルイ・ジャド ボジョレー・ヴィラージュ コンボー・ジャック
 
 これ↑なんて、立派なボジョレーだと思いますよ。
 
 ここで紹介しているボジョレーは、ただのボジョレーじゃなくて、ボジョレー・“ヴィラージュ”。あまりワインを飲まない人でもワインが大好き人でも、こいつなら充分ではないでしょうか。
 
 
モルゴン コート・デュ・ピィ シャトー・ド・ベルヴュー ルイ
 
 ボジョレーの良いところは、「普通のボジョレーじゃ物足りない!」って人のために、その名も“クリュ・ボジョレー”なる格上品があるところです。こいつらは味も香りも一筋縄ではいかないマニア向け、根性のすわったワインですが、有名どころの高級ワインに比べるとびっくりするほど安い値段で売られています。
 
 ちょっと癖があるかもしれませんが、普通のボジョレーと飲み比べてみると、違いがあって面白いかもしれません。もちろん、コッテリとした肉料理との相性は抜群です。
 
 良い意味でも悪い意味でも、ボジョレーには“ヌーボー”のイメージがついてまわっています。が、日本の食卓に登場するような、適当な料理に適当に付き合ってくれるワインの第一候補として、ボジョレーはやっぱり捨てがたいし、高いお金を出してヌーボーなんて買うぐらいなら、半額の普通のボジョレーを買うか、ちょっと格上の“ボジョレー・ヴィラージュ”や“クリュ・ボジョレー”を買って楽しく飲めばいいんじゃないかと私は思います。
 
 「赤ワインに迷ったらボジョレー」。
 それでもいいんじゃないでしょうか。