シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

最近、“黒歴史”を鑑賞するのをためらうようになった

 
 かつて、インターネットには黒歴史がたくさん転がっていると言われていた。今でも、そうだといえばそうだ。なにしろ昔よりずっと多くの人がインターネットにアクセスし、文章や写真や動画をアップロードしているのだから。
 
 ブログのトップページに無防備な笑顔の自画像を貼りつけたまま、後で絶対に悔むような文章をアップロードする若者アカウント。実名丸出し、個人情報丸出しのまま、ひんしゅくを買いそうなことをアップロードする中高年のアカウント。そういった存在は探せばまだまだ見つけられる。
 
 だが、SNSやスマホが普及して以来、ずいぶん長い年月が経った。結果、パパもママも、子どももお年寄りも、インターネットにアクセスするほとんどの人がインターネットリテラシーに触れる機会を得ているはずだし、知人同士で意見交換する機会も増えているはずである。2016年にネットで黒歴史を垂れ流している人をまなざす際には、このことを念頭に入れておかなければならない。
 
 今、インターネットで黒歴史を垂れ流しにする人・危ういものを公然と晒している人とは、インターネットに対する用心やリテラシーがひととおり社会に普及したはずなのに、それでもなお“やらかしてしまっている”人なんであって、「誰も彼もがインターネット初心者で」「SNSの使い方がまだまだわかっていなかった」2010年頃とは状況が異なっている。2016年に公然と黒歴史を垂れ流すアカウントの背景には、リテラシーが不足するなんらかの事情や、判断力に問題が生じてしまうなんらかの事情が、かなりの高い確率であるのではないだろうか。
 
 他方で、「黒歴史の演技」とでも言うべきネタアカウントをしばしば見かけるようになった。アカウントの“なかのひと”を丸出しにするのでなく、他人にみられるためのキャラクターを作りこみ、鮮やかすぎる黒歴史のようなものをアップロードする人達。そうした、疑似黒歴史製造装置の内実は、最も用心深いアカウントから最も捨て鉢なアカウントまでさまざまだが、いずれにせよ、“なかのひと”の反映よりもキャラクターとしての外観に拘ったそれらは、わざとらしすぎて、黒歴史としての鑑賞には適さない。
 
 そんなこんなで、黒歴史収集が大好きだった私も、最近はそれらの鑑賞をためらうようになった。今、黒歴史(または、黒歴史らしき演技)を吐き出しているアカウントの多くは、人工甘味料がどぎついアカウントか、さもなくば、未熟なリンゴや干してない渋柿のようなアカウントだ。いくら“活きの良い天然モノ”だからといって、なんでもかんでも丸かじりでエンジョイしてしまうと、精神の歯車がおかしくなってしてしまいそうだ。恐ろしい恐ろしい。
 
 これからのインターネットにおいて、鑑賞するに値する黒歴史とはどのようなものだろうか。ピュアな気持ちに溢れ、それでいて危う過ぎず、演技的過ぎない、宝石箱にしまっておきたくなるような黒歴史を紡げるアカウントとはどういうものだろうか。黒歴史を愛してやまない同志諸君、あなたがたは、どんな風に考えておいでか。
 

特定の属性を「不幸な奴」「人生オワタ」って決めつけるとコミュニケーション能力が下がる

 
 
blog.tinect.jp
 
 リンク先はタイトルどおりの内容ですが、これは、子ども以外にも当てはまります。
 
 「低学歴は人生オワタ」みたいなことを思っている人は、もし、親族や友人の子どもが高卒や専門学校卒だったら、どうなっちゃうんでしょうか。あるいは仕事や趣味の場で学歴が高くない人と知り合ったら、どうなっちゃうんでしょうか。
 
 私が観察する限り、「高学歴でなければ不幸になる」「低学歴は人生オワタ」って本気で思い込んでいる人は、それが態度に現れたり、言葉の端々に滲み出たりするものです。そういうことを面と向かって言っていなくても、意外と本心は見抜かれてしまいます。コミュニケーションを積み重ねるうちに、「この人は低学歴者を軽蔑している」という疑惑を持たれてしまうでしょう。
  
 ということは、「低学歴は人生オワタ」的なことを思い込んでいる人は、ただそれだけで、学歴が高くない人とのコミュニケーション成功確率を下げてしまっているとも言えるでしょう。軽蔑や見下しは、コミュニケーションを失敗させる最悪の要素です。支配者と従僕のコミュニケーションならいざ知らず、対等な人間同士のコミュニケーションに関してはそうだと言えます。
 
 「私のまわりには高学歴者しかいないから、そんなの気にする必要は無い」と反論する人もいるかもしれませんが、はたしてどうでしょうか。
 
 たとえば、もし職場に高学歴者しかいないとしても、その知人縁者のなかには低学歴者が混じっているかもしれないのです。あなたが「低学歴は人生オワタ」と言っているのを聞いている職場同僚の家族や親友が低学歴だったら、その同僚はどんな気持ちになるでしょうか。あまり良い気持ちにはなれませんよね?
 
 ということは、「低学歴は人生オワタ」みたいな考えが言動に滲み出ている人は、実は、いろんな人の心証を悪くしているかもしれないのです。友好的な人間関係を作りにくくもなるし、コミュニケーションも失敗しやすくなるでしょう。「あいつはなんだか嫌な奴だな」と思われてしまう確率も高くなってしまいます。
 
 ここでは「低学歴」という属性を挙げましたが、同じことは、他の属性にも言えます。たとえば「女は馬鹿」みたいな考えが言動に滲み出ている人は、女性ばかりでなく、たくさんの男性の心証をも損ねていることでしょう。
  
 ですからタイトルにも書いたように、特定の属性を「不幸な奴」「人生オワタ」って決めつけて平然としている人は、ただそれだけでコミュニケーション能力を下げてしまっているのです。きっと、気付かぬうちに敵を増やし、味方を減らしていることでしょう。
 
 世の中は広いようで意外と狭いものですから、「○○は不幸な奴に違いない」「○○は人生オワタ」って言動は、どこかの誰かに意外と刺さってしまうものです。私達は人間ですから、ときに、そういう気持ちが沸くこともあるでしょう。ですが、そういう気持ちを言動に反映させたまま、反省するところがなければ、うまくいくはずだったコミュニケーションや人間関係も潰してしまいます。
 
 

他人を見下すより、敬意を払おう

 
 この問題への対策はシンプルです。
 
 むやみに特定の属性を「不幸だ」とか「オワタ」だとか決めつけないこと。属性で人を判断するより、個人それぞれを人として判断することです。
 
 そして、見下しや軽蔑はコミュニケーション能力を下げやすく、いっぱし扱いや敬意はコミュニケーション能力を上げやすいと肝に銘じておくことです。
 
 いろんな人を軽蔑して回る人よりは、いろんな人に敬意を示している人のほうが好かれやすいし、自分自身の精神衛生にも良いと思うんですよ。もちろん、形ばかりのおべっかはじきに見抜かれてしまうので、本心から、いろいろな人に敬意やリスペクトを感じられるのがベストですが、すぐに身に付けるのは難しいかもしれません。
 
 でも、たとえば「低学歴は人生オワタ」と思っている人でも、低学歴でも好意に値する他人・敬意を感じられる他人に巡り合うチャンスはあるはずです。そういう人とコミュニケーションを続けていれば、「低学歴は人生オワタ」などという属性による決めつけも、だんだん解消されていくのではないでしょうか。
 
 なんにせよ、属性で人を決めつけ、ましてや、見下すなんてのは処世術としては下の下だと思います。見下しの気持ちよりも、リスペクトの気持ちを大切にしながら暮らしていきたいものです。
 
 

満員電車で死んだ目をしたサラリーマンは死んでいるのではない。チャージしているのだ。

 
 もうタイトルで言い切った気がするが、オマケとして、本文のような体裁をつけておく。
 
 「満員電車で死んだ目をしたサラリーマン」とはよく使われる言葉だが、ひどい勘違いである。なかには数%程度、本当に死にそうなサラリーマンも混じっているかもしれないがそういうのは例外で、ほとんどのサラリーマンは死んだ目になってチャージを行っているのである。
 
 サラリーマンの境遇は忙しい。忙しいと書いて「充実している」と読み替えても良い。誠心誠意生きているサラリーマン達は、仕事に、遊びに、家庭に、とにかくやることが多いので寸毫のエネルギーも無駄にするわけにいかない。
 
 無駄にするわけにはいかないのはエネルギーばかりではない。時間もサラリーマンにとって欠くことのできないリソースである。だから電車のなかで読書に励むサラリーマンも、特に若い人には珍しくない。
 
 しかし年を取ってくると、時間と同等以上にエネルギーがネックになってくる。そして満員電車のなかの読書はエネルギー効率があまりよろしくない。身入りのある読書をしたいなら、もっとゆとりのある状況を選んだほうがクレバーだろう。
 
 だったら満員電車の中ではできるだけエネルギー消費を抑えておいて、職場や家庭に着いてからエネルギー放電したほうが人生効率が良くなる。二十代の前半あたりまでは、エネルギーが有り余っているので時間のほうがリソースとして貴重に感じるかもしれないが、年を取って体力や気力が衰えてからは、リソースのボトルネックとして時間と同等以上にエネルギーが無視できなくなる。そこで、サラリーマン稼業も長くなってくると、満員電車の劣悪な環境下では時間にがつがつせず、エネルギー消費を抑える“スタイル”が人生効率的に望ましくなってくることがある。
 
 エネルギーが有り余っている若者諸氏は、今後、満員電車で死んだ目をしたサラリーマンの群れを見たら「あいつらはチャージしている」「出撃前のスリープ状態だ」と思っていただきたい。満員電車で死んだ目をしたサラリーマンのエネルギーと本領は、満員電車を降りた後で発揮されるのだ。サラリーマン、出撃!
 

「炎上すればするほど喜んじゃう人」って、“私達”のことですか?

 
mubou.seesaa.net
 
 時間が無いのでザッと打ってみます。
 
 リンク先の主旨は「炎上芸をやってPVを稼ぐ今時の連中は、2ちゃんねる時代で言えば“荒らし”に相当するから、スルーして養分与えないようにしようね」だと思います。
 
 これに対して、はてなブックマークの反応には「詐欺師のたぐいは放置しないほうが良いのではないか」というものがありますし、これも尤もな指摘です。ともあれ総論的には「炎上狙いなアカウントはなるべく拡散しない」で良いのではないかと思います。
 
 ただ、なんていうんですか、「炎上すればするほど喜んじゃう人」ってフレーズを眺めていると、私のようなへそ曲がりはつい思っちゃうんですよ、それって、炎上狙いでブログ記事や動画を公開している人だけじゃなく、炎上アカウントを見つけては大喜びで罵倒し、攻撃し、キャンプファイヤーに興じている、あの炎上愛好家の人達もそうなんじゃないかって。
 
 ネットメディアに限らず、ゴシップ誌なども含めての話ですが、そもそも、なぜ炎上は炎上として注目を集めるのでしょうか。
 
 炎上するようなものをアップロードする人・やらかす人がいるから炎上が起こる、という事実は否定されるべきではありませんが、炎上するようなことを読む人・観る人・喜ぶ人がいるからこそ、炎上が炎上として成り立っているという事実も忘れてはいけないでしょう。
 
 視点を変えて考えるなら、炎上芸アカウントの人達は、人々のなかにあまねく眠っている炎上を眺めたい欲望・何かを罰したい欲望・何かを攻撃したい欲望に応えているんだと、私は思うんですよ。そういった、現代社会の日常生活ではなかなか充たされ難い欲望を充たすためのサンドバックとして、炎上芸アカウントには大きな需要があるのではないでしょうか。いや、これだけ頻繁に炎上が起こっているということは、需要は間違いなくあるのです。仄暗い欲望を充たしてくれる貴重な機会を、炎上芸アカウント達が供給してくれる。
 
 リンク先でしんざきさんは、
 

「人を嫌な気分にさせつつPVを稼ぐこと」が目的のような人達が一切報われない世界に来て欲しい

 と書いておられますが、ある種の炎上芸アカウントって、炎上にたかっている人々を嫌な気分にさせているようにみえて、なにげに良い気分にさせながらPVを稼いでいたりしませんかね? それも、大っぴらにはできないようなタイプの良い気分を。
 
 そうやって仄暗い欲求を充たしていても、なにせ、“炎上するような事をネットにアップロードしている奴が悪い”わけですから、良心の呵責に悩まされることも(あまり)ありません。むしろ、“正義の鉄槌を下している俺は良いことをしている”ぐらいに思っている人もいるでしょう。正義を示すって、気持ち良いですからね~。
 
 もう少し知性派っぽく振る舞うなら、「炎上芸アカウントをtwitterやfacebookで拡散しないようにしよう」になるのでしょうけれど、これもこれで、社会正義のために利口に立ち回る貴重なチャンスです。炎上芸アカウントをスルーすることによって、私達は、インターネット社会にちょっとした貢献が為せるのです。良い事をすると気持ち良いですから、攻撃欲や処罰欲をストレートに充たすより、こっちのほうがスマートです♪
 
 どちらにせよ、こういった欲望をインターネット上で頻繁に充たせるのは、炎上芸アカウントがそこらじゅうにいて、炎上に加担したりスルーしたりする機会を供給してくれるからにほかなりません。
 
 だから、「炎上すればするほど喜んじゃう人」ってフレーズを聞くと、私のような人間は、炎上芸アカウントだけでなく、私自身のうちに潜んでいるいろいろな欲望や、炎上に加担する人やスルーする人が垣間見せる欲望を思い起こさずにいられないのです。
 
 

「炎上すればするほど喜んじゃう人」をどうすべきか

 
 以上を踏まえて、炎上について考え直してみます。
 
 世の中には、然るべき批判を集めて爆発四散すべき案件もあるでしょうから、そういった案件は今までどおり燃え続けて構わないのではないかと、個人的には思っています。
  
 でも、爆発四散すべき案件は少数派で、単に私達の炎上ウォッチ欲や処罰欲や攻撃欲を刺激しているだけの案件のほうが多いのでしょうから、そういう案件はなるべくスルーするのが適当でしょう。
 
 そして私達自身の心の内面としては、ストレートに処罰欲や攻撃欲を充たす頻度をなるべく少なくし、スルーによって社会貢献欲を充たす方向にコンバートするのが望ましいと思います。
 
 本当は、あれこれの仄暗い欲望を無くしてしまえればベストでしょうけど、そんな聖人じみた事が、人間たる私達に本当に可能なのか、私は懐疑的です。ですが自分自身の内面に「炎上すればするほど喜んじゃう人」が潜んでいて、炎上を待ち望んでいる部分があるかもしれない、という自覚ぐらいはしておいたほうがいいんじゃないかと思うんですよ。
 
 そして社会全体に対しては「ああ、娑婆世界はゴシップや炎上が好きな人間だらけだなぁ」という諦念をもって眺めるのが、血圧を無暗に上げない、健康的なライフハックではないでしょうか。
 
 冒頭リンク先のしんざきさん同様、私も、炎上芸アカウントには目立って欲しくないと思っていますし、炎上に油を注ぐようなことはなるべくしたくないなとも思っています。ただ、炎上アカウントだけでなく炎上を取り囲む“俺ら”、すなわちネットユーザー全般との一種の共犯関係によって炎上が成立していることまで踏まえると、立ち向かうべきは、炎上芸アカウントだけでなく、自分自身でもあるなぁと思わずにいられないのです。
 
 このあたり、もっと意見交換したいところですが、疲れてきたので今日はこのへんで。
 

『君の名は。』を観たら『秒速5センチメートル』の呪いが解けた

 

 
 
 『君の名は。』の作中には、「糸を繋げることも結び。人を繋げることも結び。時間が流れることも結び。」というセリフが登場する。作品理解の鍵のようなセリフだが、これは、世間一般にも適用できるものだろう。
 
 で、私自身の場合、である。
 
 私は新海誠監督のファンではない、ないはずだが、過去に『秒速5センチメートル』という作品を観て、自意識がこんがらがってしまった。
 
 アニメを観ることも結び、アニメに影響を受けることも結び、時間が流れることも結びだとしたら、私にとっての『秒速5センチメートル』はめちゃくちゃにこんがらがった、呪わしいけれども愛おしい糸だったと思う。
 
 

私は『秒速5センチメートル』に心酔してしまった“咎人”だ

 
 『秒速5センチメートル』については、ラノベ評論家・前島賢さんが心に響くレビューをされている*1
 
www.ebookjapan.jp
 
 前島さんは、
 

 新海先生以外の誰も口にできなかった、あるいは言葉に、形にできなかった欲望を作品として表現したという意味では文学的で、大勢のこじらせ男子(評者含む)の蒙を啓いたという意味で、革新的。そしてそんなニッチな欲望の受け皿になってくれる唯一無二の存在。それが『秒速5センチメートル』なのだ……と思う。

 
 とおっしゃっている。まったくその通りだと思う。
 
 ところが私は、そんなこじらせ男子の、ニッチな欲望の受け皿たる『秒速5センチメートル』に心酔してしまったのだ!!
 
 映画館で『秒速5センチメートル』を観た時、私は圧倒された。とても美しくて心に残る、忘れられない体験をしたと感じた。だが、やがて私は気づいてしまう。このアニメの美しさとは、こじらせ男子の自己陶酔を徹底的に美化したものだったということに。
 
 
 前掲のレビューで前島さんは、以下のようにも書いている。
 

 しばしば新海誠は「遠距離恋愛」「引き裂かれた恋人たち」をテーマにした作品を撮ってきたと言われる。しかし本作『秒速5センチメートル』に触れれば、実際に彼が描き続けてきたのは、そんな綺麗なものではないことは一目瞭然だ。
 彼の本当のテーマは、少年の日の恋をいつまで経っても引きずり続ける男の未練……というもっとどろどろとしたどうしようもないものである。しかも、新海誠は、本来否定されるべきそれを、何か尊く、綺麗なものとして堂々と描き出す。

 
 『秒速5センチメートル』において、尊く綺麗なものとして描き出されている「本来否定されるべきそれ」とは何か。
 
 私個人は、それはナルシシズムだと思っている。『秒速5センチメートル』で描かれる世界は美しいが、それは少年時代の恋の思い出が美しいだけではない。未練に溺れたこじらせ男子の自己陶酔までもが徹底的に美しく描かれている。新海誠監督は、主人公・遠野貴樹のナルシーな心象風景と、それにシンパシーを感じてしまうこじらせ男子のナルシシズムを、過剰なまでに美しく仕上げてしまった。
 
 これが一種のリトマス試験紙になっていて、ナルシーなこじらせ男子には心地良い感触を、そうでない大多数には気持ちの悪い感触を与える作品になっているのだろう。
 
 で、私は『秒速5センチメートル』に心酔してしまったわけだから、試験反応は陽性である。俺はナルシーなこじらせ男子だったのか! 嫁さんから頂戴した「『秒速5センチメートル』はヘタレ男子アニメ」「自己憐憫はもうたくさん」というコメントも、私の自意識を焼き払った。ギャー!!
 
 しかし自意識の痛みも長く続けば愛らしくなってくるもので*2、私は『秒速5センチメートル』が病みつきになってしまった。世間一般の、とりわけ女性にはキモくてしようがないであろう欲望を自覚しながら、それを後生大切にせずにいられないとは! 本当に呪わしいのは、作品ではなく私自身ではないか?
 
 そんな事を考えながらも、結局、作品と、作品が好きな自分自身に溺れてしまう。この構図も『秒速5センチメートル』の鏡像めいていて、最高にキモ気持ち良い。おええぇー!
 
 

『秒速5センチメートル』がきれいな姿で転生した!

 
 そんな私にとって、『君の名は。』は迫りくる脅威だった。「ぼくのだいすきなキモ気持ち良い作品」が、時流と知名度に押し流されてしまうのではないか。そういう愚にもつかない怯えを抱えながら、私はおずおずと映画館に向かった。ひどい煽り文句のポスターができあがった後のことである。
 
 公開からだいぶ経っているにも関わらず、平日の夜の映画館はほぼ満席だった。客層は、お年寄り夫婦からファミリー層までさまざまで、若いカップルは意外と少なかった。きっと、若いカップルはとっくにこの作品を視てしまっているのだろう。
 
 はたして、不安はほとんど最高のかたちで裏切られた。
 
 難癖のひとつでもつけてやろうと思っていられたのは最初の主題歌の少し後くらいまでで、そういう気持ちは吹き飛んだ。テンポが良いうえ、目に焼き付けなければならないもの、耳に入れておかなければならないものが多すぎて、ものすごく忙しかった。二時間弱の映画が三時間ぐらいに感じられた。とにかく夢中になっていた。
 
 ベタベタな展開と言う人もいるだろうし、タイムテーブルに粗があるように感じられたが、それがどうした! ベタベタな展開でも良いものは良いし、タイムテーブルについての考証は余所の人に任せておけば良いのである。考える前に、まずは楽しまなくては!
 
 『秒速5センチメートル』に相通ずるエッセンスが豊富だったことには痺れた。
 
 電車の乗り継ぎ。
 駅。
 戸口。
 東京と田舎。
 携帯電話。
 幻想的な宇宙。
 雪の降る大都会の夜。
 そして、忘れられない人を探し続けるというテーマ。
 
 『君の名は。』は『秒速5センチメートル』とだいぶ違う作品だし、なにより、キモさが断然違う。まあ、この『君の名は。』にもある程度のキモさが宿っているけれども、『君の名は。』のキモさなど、『秒速5センチメートル』のキモさに比べれば穏当きわまりないのであって、『君の名は。』をキモいキモいと言っている人達は『秒速5センチメートル』を視聴したらあまりのキモさと(主人公の)身勝手さに口から泡を吹いて卒倒するしかない。
 
 にも関わらず、演出やカットや展開には共通する要素がたくさんあって、しかも、そのことごとくが独りよがりなキモさではない方向へ、もっと健全で双方向的で安心して視ていられるような方向へコンバートされていたのだった。
 
 最後まで観た後、私は「おめでとう!」と言いたくてしようがなくなった。
 
 「おめでとう!」と言いたかった相手は、作中の瀧と三葉に対してだったかもしれないし、生き残った街の人々に対してだったかもしれないし、新海誠監督に対してだったかもしれない。いや、『秒速5センチメートル』の呪いに縛られ、そのくせ酔い痴れていた自分自身に対してだったのかもしれない。
 
 いずれにせよ、00年代の、こじらせ男子ナルシシズムのキモくて仕方のなかったエッセンスが、こうやって立派な姿に生まれ変わって、カップルや高齢者にも安心して楽しめる作品として愛好されていることが、私には嬉しくて仕方がない。これもまた、「糸を繋げることも結び。人を繋げることも結び。時間が流れることも結び。」の賜物と言えるのではないだろうか。
  
 私自身は、『秒速5センチメートル』以来の自縄自縛から解放されて清々しい気持ちで映画館を出ることができた。新海誠作品と私をつなぐ結び目もだいぶマトモなものになったと思うし、臆病な気持ちで封印した何本かのDVDを視る勇気も得られたように思う。瀧と三葉がお互いを忘れず探し続けてくれて本当に良かった。おめでとう!そしてありがとう!
 

*1:小説版について、だが

*2:この発想自体も自己耽溺だからどうしようもない