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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

忙しさのなかで「自分がつくられていく」感覚

 
 ブログを書いている時間が惜しい時ほどブログを書きたくなるのって、なんなんでしょうね。それはさておき。
 

 毎日、やる事がたくさんあって休む暇も無く働き続けていると、「自分って何?」「自分のやっている事の意味」とか悩まなくなってくる。
 
 やらなければならない事は無尽蔵にある。やらなければならない事をこなしているだけで一日が終わり、一か月が終わり、一年が過ぎていく。相応に年を取り、思春期が終わったからアイデンティティに悩まなくなった……という部分もあるだろうけれど、この、忙しさに押し流される感覚、立ち止まって我が身を振り返る余裕の無い感覚によっても、アイデンティティ周辺の問題が薄まっている(か棚上げされている)ように感じる。ともあれ、今は走り続けなければならない。
 
 自分の生きる意味や存在証明については、手を休める暇が得られたらまた考えたい。でも、今は考えている余地は無いし、考えているべきでもない。そもそも、事後的に振り返ってみれば、そうやって毎日毎日行ってきたことの蓄積が、何年か先の自分自身の境遇を決定づけているはずで、その結果によって何年か先の自分のアイデンティティなるものも自ずと形作られているに違いない。ただし、何年か先の私のアイデンティティがすってんてんになっているのか、それとも一定の輪郭を保ち続けているのかはわからない。まあ、生き続けている保証も無いのだから、未来の自分のアイデンティティについて心配してもしようがない。
 
 二十代の頃のアイデンティティの課題は「これから自分がなりたいもの探し」「自分が憧れるもの探し」だったと思う。少なくとも私の場合はそうだった。でも、思春期の向こう岸に渡って数年、今、自分自身のアイデンティティについて考えてみると、思春期の頃とは正反対に「これまで自分が行ってきた結果の蓄積」「忙しさと境遇のなかで身と心に染み込み続けてきた手垢」のように感じられる。で、憧れのイメージとしてのアイデンティティではなく、行いの蓄積としてのアイデンティティは、行いの集積であるがゆえに、子ども時代から連綿と続いてきた、自分自身の性格特性や気質が反映されたものになっているのだろうな、とも思う*1
 
 時間は人間を変えていく。
 
 一見何ひとつ変えないようにみえても、蓄積によって少しずつ人間の軌道を修正し、最終的には凄まじい力を発揮していく。後戻りは効かない。人間は、何を積み重ねていくのかに意識を働かせることで、その時間による変化と折り合いをつけていくしかない。誰も時の流れには逆らえない。時間がもたらすものを拒絶できない。未来を予測できない私達は、ただ、良かれと信じて、自分にできることを自分の裁量のなかで、立場のなかでこなしていくほかない。今日も一日、何とか生き延びよう。
 

*1:最善の場合も、最悪の場合も