ロードサイドと東京を往復するような物語は、ケータイ小説やライトノベルにもそれなりある。けれども自意識を滴らせるような小説にはそれほど出会ったことがない。もし、出会ってしまったなら、きっとひどく感情移入してしまうんだろうなぁと前から思っていた。で、
- 作者: 山内マリコ
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2012/08/24
- メディア: 単行本
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この短編小説集の存在は、「今度、すごいロードサイド小説が出るらしい」と耳にしていた。古い集落に生まれ、郊外の国道沿いで思春期を過ごした私にとって、この小説が他人事なわけがない。しかしネットで見かけた書評を見るうち、それを手にとるのが億劫になっていった。もちろん億劫というのは言い訳で、この作品を読むのが怖かった。
ところが、この本の作者・山内さんが、文芸誌で拙著に言及しているのを知り、なんとなく勇気付けられたような気がしたので、つい買ってしまった。
はたして、おっかない本だった。どこまでも続く国道沿いの日常に倦み、「ここではないどこか」を夢見る思春期心性が詰まった短編8本。ある者は東京のカルチャーに惹かれて上京し、ある者は東京から“都落ち”した自分自身を抱えながら年を取っている。クラスメートに見下されていてもサブカル趣味で自意識の虚勢を張り続ける男と、その男を軽蔑しながらつるまざるを得ない女。国道沿いの日常生活で自意識のエコサイクルを完結させられない人間のあがきが、女性作家らしい筆致で描かれていた。
・この短編集には、地域の歴史やしがらみを象徴するような社会装置が描かれていない。もちろん、そうした地元の歴史蓄積と表裏一体をなす地域アイデンティティらしきものも登場しない。古い寺社、古い集落、古い祭り……そういった、味方につければ思春期男女のアイデンティティの一翼を担い、敵に回せば強い抑圧の源になるような“地元”らしさが欠落しているのだ。こうした欠落は、ロードサイドの日常生活によく合致していると思う。
かつて、地方/都会といえば、「しがらみだらけの地方」「自由な都会の暮らし」といった風に対比されがちだった。地方には地方の歴史があり、地域のしがらみと、そのしがらみと表裏一体なアイデンティティがあった。地方が「退屈」だから上京を志す人はそれほど多くなく、地方に充満しているしがらみや土着アイデンティティを嫌う人が上京を志す、そういう時代が確かにあった。
ところが、『ここは退屈迎えに来て』は違う。ヤマダ電機やニトリは没個性かもしれないが抑圧・束縛してくることはない。だから短編「東京、二十歳。」のヒロイン・朝子もそこで家具を揃えて東京に持ち込んでいるし、実家をグチャグチャとみなしていても抑圧的とみなしているわけではない。ロードサイドには、歴史もコミュニティもアイデンティティも無いし、思春期の男女の行動選択を抑圧してやまないわけでもない。抑圧やしがらみという点では、ほとんど無重力だ*1。
そのかわり、ロードサイドにはアイデンティティを与えてくれるようなイベントや人間関係が存在しない。全国一律な風景が広がっているから、地域アイデンティティなど望むべくもない。しまむらやユニクロの服にアイデンティティを見いだし、コンビニエンスストアが運んでくる文化コンテンツに満足し、ラブホテルやショッピングモールにちりばめられた記号に埋没できる感性*2を持っている者は幸いだが、そうした感性を持ち合わせず、ロードサイドの虚構に白けてしまった人にとって、ロードサイドはアイデンティティの真空地帯になってしまう。
・そうしたアイデンティティの真空状態を埋め合わせるべく、登場人物達はあがいている。結婚して落ち着こうとする者もいれば、性体験や愛情を求め、それで自分を何者かにしようとあがく者もいる。ロードサイドより上質で虚構性に気づきにくい首都圏のアイテム――“わたしらしさを提供してくれるコンテンツ”や“センスの良さそうなコンテンツ”のたぐい――に埋没することでアイデンティティの空白を埋めようとする者もいる。
思春期は、アイデンティティを確立する季節といわれている。第二次性徴が到来し、コミュニケーションが格段に複雑化すると、子ども時代までのアイデンティティは剥奪され、いったんゼロに近い状態に陥る。だから、思春期男女がコンテンツでアイデンティティを埋め合わせようとすること自体はちっともおかしくない。
じゃあ、コンテンツや非日常な体験でアイデンティティを獲得するしかないか?
そうでもない。むしろ、コンテンツにアイデンティティをアウトソースする処世術は“邪道”なのだろう。自分が所属する地域・学校・会社・交友関係の集団生活のうちに「これってあたし!」の構成要素を見つけ出し、自分の居場所とアイデンティティをかためていくのが正攻法で、実際、ロードサイドに適応している大半の人間はそのようにしている。
ところが地域がアイデンティティを与えてくれなくなり、会社への忠誠や所属感が“社畜”という言葉で片付けられるようになり、そもそも会社や職場に根を下ろすこと自体も難しくもなった。そういう状況下では、アイデンティティを暮らしのなかで拾い上げるのはけっこう難しい。交友関係を介して自分の居場所を見つけられる人間はノープロブレムだが、それが出来ない人間は、やはりアイデンティティをコンテンツにアウトソースしなければならなくなる。ときに、アウトソースに救われもするし、足下を掬われもするが。
『ここは退屈迎えに来て』は、そうした、国道沿いに自分の居場所やアイデンティティを見いだしきれない、“真のリア充”になりきれない人間の物語だと私は感じた。ただし、一人だけ(おそらく意図的に)例外が描かれている。短編集のあちこちに登場する男性・椎名は、ローカルな交友関係のなかでつねに居場所を与えられる、そういう人間だった。“リア充”である。彼は三年ほど大阪でフラフラ遊ぶ時期があったが、その間も伸び伸びとしたもので、自動車学校のインストラクターやゲーセン店長を勤めている時にも「俺はこんなところでこんな事をしている人間じゃない」的な屈託に苦しんでいなかった。その場に馴染み、その場を楽しむ力を持っている。そしてコミュニケーションに長け、女性にモテてる。“リア充”は退屈などしないし、誰の迎えも必要ない、退屈し、迎えを求めるのはリアルが充実していない奴だけだ――そういう対照を体現しているかのようだ。にも関わらず、「退屈」なヒロイン達はその椎名に惹かれていく。椎名は「退屈」な彼女達にとっての救いの象徴なのか、それとも救いの無さの象徴なのか。
誰もが椎名のような“リア充”になれるわけではないので、ロードサイドに退屈する人は後を絶たないだろう。ロードサイドは歴史を欠いた無重力だからこそ、アイデンティティの確立はかぎりなく個人の資質に委ねられていて、つまり、かなりのところまでコミュニケーションの素養によって左右される。そのようなロードサイドの現状を「退屈」と言いたくなる人間を悶絶させるエッセンスが、この短編集には詰まっているし、それはいいものだと思う。突き放すような作風ではなく、どことなく救いがあるというか、国道沿いで悶絶する魂を見守るような雰囲気があるとも感じた。