シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

現在の常識は未来の非常識

 
 2030年、老人も自治体も"尊厳死"しかない | 真のリベラルを探して | 東洋経済オンライン | 新世代リーダーのためのビジネスサイト
 
 リンク先の文章を読んで、「ああ、やまもといちろう さんも近未来にディストピアを想定していらっしゃるのか」と、納得した。ともあれ、人々の懸命の努力にも関わらず、近未来は暗いだろう。できるだけマシな明るさに保つためには、ミクロな個人とマクロな社会はどう選択すれば良いのか、ますます問われるに違いない。
 
 「明るい未来を展望しろ!」と言う人もいるかもしれないが、私には難しい。社会、とりわけ庶民社会に提供されるサービスやモノの質が、十五年後も現在の水準に保たれる根拠を挙げるよりも、何らかの質的・量的低下をもたらす根拠を挙げるほうが、ずっと容易いからだ。少子高齢化は言うにおよばず、エネルギー問題、外交事情、異常気象、北極/南極の氷床崩落、大地震のリスク――どれも、生活の質を劣化させるには十分すぎる。
 
 下り坂の兆候は、地方の生活風景にもみられる。なにもかも燻った街の風景のなかで、老健施設だけがピカピカの威容を誇っている。あの施設が老朽化した頃、老人保健福祉のシステムはどうなっているか?団塊ジュニア世代は、ああいうピカピカの老健施設に入所可能だろうか?
 
 そもそも、二十年後に街が残っているかどうかも怪しい。
 
 ネオンサインに彩られた郊外の風景(いわゆるファスト風土)にしても例外ではない。過疎地域では、ファスト風土は端から少しずつ寂れている。首都圏発信の“明るいショッピングモール論”とは気色の異なった、撤退戦のフロントラインとしての郊外。90年代前半に山野を切り拓いてつくられたニュータウンのなかには、「新たに住みつく人もいないまま、土地も建物もゼロバリューに還っていく」と言うほかない場所もある。そして大都市圏のニュータウンとは異なり、モータリゼーションに依存したニュータウンでは、自動車を運転できなくなった住人は“詰んで”しまう。
 
 高齢化の進んだ2014年においては、自動車運転を前提にしたニュータウン物件をはリスキーだと多くの人が気付き、手を出すのを躊躇うに違いない。けれども80年代〜90年代には、そうした躊躇いを抱く人はそれほど多くはなかった。自分達が、永遠に自動車を運転できるとでも思っていたのだろうか?山奥でもいいから、一生モノのローンを組んでマイホームを建てる――それが時代の空気であり、常識だった。
 
 

「特別だった時代」にさよならを

 
 そういった社会変化を踏まえながら、若者文化や思春期モラトリアムについて考えると、これらも特別な豊かさを前提とした、儚いものだったんだなぁと痛感せざるを得ない。
 
 ここでいう「特別に豊かさ」とは、バブル景気に限った話ではない。バブル崩壊後のオタクやサブカルだって、十分すぎるほど豊かだった。もし豊かでなかったとしたら、浪費的だった、と言い直すべきか。一人暮らし。生活より趣味を優先させた部屋。流行のアイテムに惜しげも無く費やされる金銭……。アイデンティティと慰安を与えてくれる趣味領域に、己のリソースの大半を擲って顧みないライフスタイルは、バブル崩壊後も延々と続いていた。いや、タフな好事家は今も続けている。
 
 その手の趣味道楽は、2014年の私達には珍しくないものとうつる。しかし2030年の若者からみたらどうだろう?現代よりも過酷で、衣食住や生存に真面目に構えなければならない未来庶民にとって、趣味道楽にリソースを蕩尽し、いつ終わるともつかないモラトリアム心性を抱え続けるのは、とてつもない贅沢とうつるのではないか。少なくとも、「一般家庭の子息が、ひたすらに趣味生活なモラトリアムを延長させて不思議ではない時代の空気」が理解できないのではないか。
 
 若者が、個人の趣味やアイデンティティに法外なリソースを費やし、モラトリアムを延長しまくって「終わらない夏休み」などと嘯いていられたのは、それだけ社会が豊かで、若者を経済的に支える諸制度が充実していたからだった。ぶっちゃけ、子息を遊学させても親が首を括らなくて済む余裕があったからこその思春期モラトリアムだったとも言える。
 
 だが、そのような余裕は今後ごく限られた範囲になっていくのだろう。
 
 である以上、これまでの若者心理周辺の常識もまた通用しなくなり、未来の非常識になっていくと推定される。街も、常識も、人の心も、変わっていく。「特別だった時代」にさよならを。