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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

みんなちがってみんないい――「集団」になれても「団体」になれない私達

 

消費社会の神話と構造 普及版

消費社会の神話と構造 普及版

  • 作者: ジャンボードリヤール,Jean Baudrillard,今村仁司,塚原史
  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 1995/02
  • メディア: 単行本
  • 購入: 12人 クリック: 108回
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 立場の弱い人間、苦しい境遇の人間が力を合わせて社会を変える――そんな夢が大手を振って流通している時代があった。今は、そういう夢を本気で信じている人は少ない。ハルマゲドンとか、世界革命とか、そういう事を言う人はちょっとカルトじゃないかと思われるのがオチだ。
 
 そうなった理由については、いろんな事が言われている。産業構造が変わった、ソビエトが崩壊した、大きな物語が終焉した……。たぶん、そうなんだと思う。ところで、個人の心理学的特徴、特にアイデンティティの確立様式をみていても、立場の弱い人間、苦しい境遇の人間が力を合わせて社会を変えるってのはとても難しくなっているように思えて、それをメモしておきたくなったのでメモしておく。
 
 

金太郎飴のような農民や労働者はいずこへ

 
 かつては、農業従事者にしても工場労働者にしても、働く大人は割と均一だった。同じような服を着て、同じような店で飯を食い、同じような生活習慣をたしなむ。誰もが同じような歌を聴き、男達は一様にタバコを吸い、家庭の団らんは“巨人大鵬卵焼き”だった。村社会的なコミュニケーションが成立している場所では、主婦の井戸端会議であれ、日の丸企業であれ、農村であれ、そうした均一化に拍車がかかってもいた。
 
 もちろん、会社ごと、農村ごとの違いはあった。所属する共同体の違いは、そのままアイデンティティの違いとなり、個人の違いをかなりのところまで肩代わりしていた。それでも、似たような労働形態・生産活動・価値観を持った者同士の類似性は高く、同じようなテレビ番組を楽しみとし、同じような電化製品を欲しがっていた――テレビの次は電気洗濯機、その次はビデオデッキ、その次は――。
 
 翻って、2013年。労働者の生は多様だ。同じ仕事をしている者でも、服の趣味や食習慣は驚くほど違っている。仕事の種類だけでなく、雇用形態も多様化が進み、いままでの枠組みで雇用や労働を語ることが難しくもなった。娯楽の領域は多様化をきわめ、歌も、テレビ番組も、漫画も、まったく違うものを消費している。アイデンティティを所属共同体にアウトソースする人が減る一方、個人アイデンティティはしばしば消費活動によって仮構されるようにもなった。
 
 ボードリヤールが『消費社会の神話と構造』で指摘したような消費構造は、消費を介した個人アイデンティティの仮構をうながしただけではなかった。消費を巡る差異化ゲームとその多様化は、そっくりそのままアイデンティティ領域における多様化をももたらした。消費によってアイデンティティを仮構するという営為そのものは、陳腐きわまりない、没個性なものだ。しかし、いやだからこそ、その消費活動を介して「私はこういう人間である」を身に帯びたがる人々の欲望は、「ぼくがぼくであるための」服、「わたしがわたしであるための」ガジェットを市場に生みだし、幾つもの“スタイル”が誕生した。ある時期まで、そうした“スタイル”同士の間には露骨な主導権争い、ヒエラルキーを巡る争いがあったけれども、多様化が極限まで進展した今となっては、消費全体をヒエラルキーの体系に組み込むようなメタ視点はたいして意味を持たないものとなった。
 
 だから21世紀には金太郎飴のような農民、金太郎飴のような工業労働者が存在しない。同じラインで働いている者同士で趣味の話題が一致する確率はあまり高くない――もちろん、探し出せば共通の話題のひとつやふたつ見つかるだろうし、そういう“話をあわせるための共通コンテンツ”の確保にリソースを回す人もいる。けれども、例えば戦前の農村や高度成長期の工場のような、あれも共通、これも共通という状況はまず成立しなくなったし、そういう状況を期待する人もいなくなった。会社では必要最低限の会話だけに留めて、家に帰ってコンテンツと戯れ、それではじめて「わたしになる」――そういう人が増加した。
 
 

「ネタ」に集まることはできても「団結」はできない現代人

 
 ネットではよく、「2ちゃんねらーは敵に回すと恐ろしいが、味方につけると頼りない」といわれている。このことは、2ちゃんねらーの、ひいてはネットユーザーの性質をよく現していると思う。
 
 2ちゃんねらーやネットユーザーは、話題に集まることはあっても団結できない人達だ。
 
 彼らは炎上ネタや関心を惹く出来事があると、びっくりするほど集まってきて、賞賛にせよ、バッシングにせよ、とにかくその「ネタ」を喰らい尽くす。共通の「ネタ」を共通した料理方法で喰らい尽くすことに関しては、2ちゃんねらーやネットユーザーの瞬間最大出力には驚くべきものがある。
 
 けれども彼らは「団結」できない。だから味方としてはまったく頼りにならない。彼らは「ネタ」に群がることはあっても、共通した利害にもとづいて持続的なまとまりを形成する力をほとんど欠いているのだ。彼らの殆どが責任を――それこそ署名すら――負いたがらないことも付け加えておく。組織されることもなく、団結もせず、持続しないということは、権力にはなり得ない、ということである。
 
 そんなネットユーザー達の得意技は、群がってコンテンツを全力消費することだ。瞬間湯沸かし器のように人気を沸騰させること、そして誰かの不名誉やスキャンダルを炎上させること、それだけが機能と言ってもいい。一発花火を打ち上げること、何かを壊すこと、何かをだめにすること――そういう、アテンションの蕩尽にかけては天下一品だが、持続的な活動、組織的な団結、長期的なビジョンを必要とする活動にかけては全くだめである。そうした性質を踏まえ、「2ちゃんねらーは敵に回すと恐ろしいが、味方につけると頼りない」を再確認すると、このフレーズがネットユーザーの性質をいかに的確に捉えた言葉であるかが、よくわかる。
 
 もちろん、この「ネタに対する瞬間的な関心と、持続的な団結の困難」はオフラインだけに限ったものではなく、オンラインにおいても顕れつつある。持続的な活動を伴った団結は次第に困難になり、よしんばできたとしても成員が著しく少ないものか、控えめに言っても多くの人間を組織化できるものではなくなっている。私達は、何かを壊すためにワイワイ集まって“革命ごっこ”に興じやすくなった。けれども壊した後、何かをつくるために団結して粘り強い活動を続けることは難しくなった。
 
 「集団」にはなれても「団体」にはなれない私達。
 
 このことをもって、「現代人は団結力が無くなった」と批判する人もいるかもしれないし、事実、現代人には団結は難しかろう。しかし、共通点の乏しくなった私達、「ネタ」に身を寄せ合うことしか出来なくなった私達が、共通点の多かった時代の人々と同等の団結を成し遂げろというのがどだい無理な話なのである。ニコニコ動画やSNSをみてのとおり、人間(の大半)は孤独に弱く、だからこそ身を寄せ合うためにコンテンツに群がったり、わざわざ共通話題となるコンテンツを摂取してでもコミュニケーションに食いつこうとする。けれども、芯から共通点が多いわけでもない粒度の高い個人と個人が、その粒度の高さをアイデンティティの存立様式として維持ながら繋がろうとすれば、せいぜい、ネタやコンテンツをハブとして刹那的な集合をつくるのが精一杯になるのは致し方のないことである*1
 
 

粒度の高い世界でグリップをきかせるのは

 
 では、こういう個人の粒度がやたら高く、一瞬の集合は可能でも長期的な結合の困難な社会で実質的なグリップを握る人はどういう人だろうか?
 
 既に権力を持っている者、既にひとまとまりの団体をつくっている者、持続的な活動のできる者達がますます勝ち残るのだろう。もちろん、移り気で「ネタ」で集まることしかできない砂粒のような人々が、コントローラブルかどうかは別だ。しかし、ニコニコ動画の人気動画であれ、オフラインの革命ごっこであれ、そういったものが瞬間的な突風に過ぎないことを知悉したうえで、軸のブレない活動と組織化を進めていける(立場と判断力の双方を持った)人間でなければ、こういう状況下では何も成し遂げられないだろう。爆発力のあるネタで人を集めてみたところで、そんなものは、せいぜいバブルな承認欲求を充たすに終わってしまうか、運が良くてもアブク銭を手に入れて終わりである。飽きっぽい人々のアテンションを「ネタ」で束ねて熱狂してみたところで、彼らを引き留めておくことなどできないのだから。
 
 逆に言えば、ネタに集まることしか知らない、団結しようにも共通連結点の乏しい人間ばかりの状況だからこそ、いったん権力を握った側・相応の規模で組織化を成し遂げた側にとって、現状は新しいライバルが出現しにくい案外やりやすい状況かもしれない。「ネタ」に集まる砂粒達の関心は山の天気みたいなもので、どのみち予測しきれず、多少の醜聞は避けがたい。しかし、なんにせよ新しい団結や組織化が困難なのだから、そういったものを実質的な水準で保持したライバルはそう簡単には生まれてこない。表面的にはラジカルでも、実質的には泰平である。
 
 一般に、粒度の高い個人で形成され、組織や空気に個人が従属していない社会は、そうでない社会より進歩的とみなされている。しかし矛盾しているけれど、この粒度の高い状況は、保守的な人々、現状を変えたくない人々を利することこそあれ、革新を望む人々、現状を変えたいと真摯に望む人々にとって、なにかとやりにくい社会ではないか?もちろん、「革命気分になれる」ネタならあちこちに溢れているので、無責任な夢想家達の夢は尽きまい。しかし、実行力のある組織化や団結がきわめて困難である以上、権力や既存秩序といったものに実行力のある打撃を与えることも困難である。どれだけ大きな一撃であっても、たった一撃では城や砦は陥落できないのだから。そして、地道な組織化をやってのける器量と忍耐力と資本を揃えた人間など滅多にいるものではない。
 
 弱い立場の人ほど社会関係資本に乏しく、強い立場の人ほど社会関係資本にも富んでいることまで加味して考えるなら、既得権益側にとってじつに都合の良い社会である。「わたしがわたしであるために」「ぼくがぼくであるために」に夢中な人達は、所詮、「ネタ」への集合と離散を繰り返しながらリソースを吐き出すことしかできない砂粒でしかなく、権力を持つ側にとっての脅威たりえない。アイデンティティの個人化が徹底し、お互いが違っていることが喜ばれる社会になったからこそ、既に群れている者、既に団結している者の力は相対的に大きくなる。居酒屋の勇者達の声、twitter弁士達の声をどれだけ集めたところで「ネタ」にはなっても「意見」とはなり得ないのである。「権力」にもなり得ない。
 
 「みんなちがって、みんないい。」
 
 このフレーズは一見リベラルにみえるし、作った人は実際リベラルな人だったのだろう。しかし、権力という観点、組織化という観点からすれば、このフレーズは既得権益側にとってこそ滋味深いもののようにもみえる。みんながみんな違う社会では、集合は起こっても団結は起こらないのだから。集団は生まれても団体は生まれないのだから。
 
 みんなちがって、みんないい。
 みんなちがって、みんないい。
 
 

*1:こうした傾向は、例えばサラリーマンを“社畜”と呼ばずにいられないような、アイデンティティの半径が個人にべったりとへばりついて、アウトソースが不安や葛藤に直結してしまうような人にこそ当てはまる。どこにも所属できない、自分が自分でいることに拘泥せずにいられない人は、どこの誰とも団結できない。まあ、「リーダー」や「バンドのボーカル」や「麻呂」になれるというのなら話は違ってくるのかもしれないが……