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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

孤独感がデフォルトになった時代

  
 第三者からみて孤独そうに見える人が必ず精神的に打たれ弱いかと言うと、そうでもありません。少数ながら、孤独に対する耐性が異様に高い人が存在しますし、第三者からは目に見えにくい繋がりをどこかに持っている人も珍しくありませんから。しかし、本人自身が孤独に悩んでいるような人――つまり孤独に苛まれている人―――は、必ずといってよいほど精神的に打たれ弱いように見受けられます。
 
 独りぼっちは辛いんですよ。
 
 「自分は独りではない」と感じている人が新しいことに挑戦するのと、孤独感に苛まれている人が新しいことに挑戦するのでは、体感されるストレスが何倍も違ってくるのではないでしょうか。世の人間の大半は、どうやら孤独には弱いようにみえます。「自分は独りぼっちではない」という感覚無しには生きていけないというか。[誰かが自分のことを見てくれている感覚][誰かが自分と一緒にいてくれる感覚]を持っている時なら簡単に我慢できることでも、孤独感に苛まれている状況下では我慢しきれない――そんな現象を見るにつけても、「孤独」はそれ自体がハンディで、ろくなことがないように見えます。
 
 ときに、「孤独であればこそ自立できる」なんて言う人もいます。確かに、適度な短さの孤独は自立を助けるとは私も思います。あるいは“いつでも帰れる場所のある孤独”とか。でも、そういうのは本当の意味での孤独じゃないですよね。命綱つきの孤独というか。でも、長すぎる孤独・終わりの来ない孤独・帰る場所のない孤独は、ほとんどの人のメンタルをガリガリ削っていくのではないでしょうか。
 
 孤独感に苛まれているがために目が曇りやすい、という問題もあります。一刻も早く孤独から抜け出したいと切望しているような人は、孤独を癒してくれそうな誘惑に負けやすくなってしまいます。ネット上では――例えば2chあたりでは――「女性に気安く声をかけられたらマルチ商法を疑え」的な警句を見かけますが、実際問題、世の中には、そんな孤独な人の心の隙間を狙っている悪者がウヨウヨしていて、実際に餌食になる人もいるので、そうした警句が流通するのも無理ありません。
 
 

にも関わらず、孤独がデフォルトになっている

 
 にも関わらず、今、孤独を感じている人が世の中には溢れているのではないでしょうか。ほら、孤独に苛まれて青息吐息な自分の心を、twitterやFacebookを介した疑似親近感で埋め合わせるべく、ネット上の自転車操業に明け暮れている人をあちこちで見かけます。
 
 かつての地域社会では、村八分になっているような人を除けば、孤独は珍しいものでした。むしろ逆というか、孤独ではないこと・つねに他人とのしがらみにまみえて生きることがデフォルトで、そちらがストレスの源として危険視されなければなりませんでした。
 
 ところが、今はどうでしょう。他人とのしがらみが最小化され、個々人の自由選択が尊重される都市生活に至った私達は、しがらみという名のストレッサーから大幅に解放された筈にもかかわらず、人々はストレスに呻き、心療内科の外来はいつも予約でいっぱいです。他人とのしがらみにまみえることによるストレスはこんなにも減ったにも関わらず、現代人のメンタルヘルスはたいして改善しませんでした。それどころか昔よりも悲惨なことになっているのではないでしょうか。
 
 どうしてしがらみから解放された私達がストレスに苦しまなければならないのか?その要因はもちろん多岐にわたりますが、その要因の一端として、デフォルトがしがらみから孤独へと移行し、その孤独が新たな心理的脅威となっている点を無視するわけにはいかないでしょう。
 
 誰もが暮らしやコミュニケーションを自由に選択できるようになった現代の都市生活は、それはそれで利便性の高い、「一度体験したら二度とムラ社会に戻ることの出来ないもの」だったのは確かだと私も思います。しかし、そのスタンドアロンな欲望に最適化されたはずの都市生活が、いつの間にやら、自由と表裏一体の孤独という名の新たなストレスをデフォルト化し、私達の打たれ弱さの源になっているのではないでしょうか。のみならず、SNSやソーシャルゲームにまつわる悲喜劇が象徴しているように、“私達の新しいこころのセキュリティホール”として、オンライン上に寂しそうな姿を晒しているのではないでしょうか。
 
 私達人間は、孤独感に弱い、そういう社会的な生き物です。
 
 その社会的な生物であるところのヒトがデフォルトで孤独感に晒される時代を迎えたということ、そのような時間と空間を所与の条件として与えられていることの意味を、あなたは考えてみたことはあるでしょうか。
 
 個人の自由を尊重することは素晴らしいことには違いにありませんが、その行き着く先に辿り着いた、デフォルトとしての孤独感と打たれ弱さは、そんなにありがたいものではないと私は思いますし、しがらみによるストレスに負けず劣らず、厄介なものであるなと思います。この、孤独感という厄介者に対して、どのように立ち振る舞っていくかが、ミクロな個人においても、マクロな社会においても、厳しく問われる時代になりました。
 
 人は、もういちどしがらみに立ち戻るしか無いのでしょうか?
 だとしても、今更地域社会には帰れるものでもないでしょう。
 だとしたら…?