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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

スーパーチートマザー・花について(おおかみこどもの雪と雨)

 
 アニメに限らず、ヒーローものには人間離れした能力を持った主人公が登場するのが常だ。『ドラゴンボール』はもとより、『暴れん坊将軍』や『風の谷のナウシカ』も、主人公が反則的なスペックだから物語が成立していたと言える。
 
 で、『おおかみこどもの雪と雨』。
 
 この作品も、主人公の母・花が、人間離れした、チート*1を随所に発揮していて、そのチート性能頼みで物語が進行している。彼女はフリーザ様を倒せるわけでも王蟲と会話できるわけでもないが、「母」としての性能・スペックは反則並みで、心理的にも常人を逸脱している。そんな彼女のチートっぷりを点検してみたくなったので、以下、書き記してみる。
 
 
 【強靱な身体と聡明な知性】
 
 まず目につくのは、花の知的強度と体力的強度の両立っぷりだ。
 
 冒頭、彼女が国立大学の文系学部に通っているシーンが描かれている。国立大学の学生とて真面目に勉強しているとは限らないわけで、作中でも授業中に漫画を読んでいる学生などが登場している。しかし花は真面目に授業を受けていて、こちらにもあるとおり、大学生としては本を読み込んでいる部類と推測される。花は父子家庭で育ったという設定になっているが、あのように若いうちから本棚を耕しているということは、彼女は小さい頃から本に親しんで育ったのだろう。子育てをスタートしてからも、農学や医学の書籍を独学で読みこなしており、専門外の本からも知識を引き出せるだけの能力が垣間見える。
 
 そんな知的で読書家な彼女が、田舎で子育てをしながら、荒れ地に鍬を打つのだから驚くしかない。
 
 女手一つで幼児二人の子育てをするだけでも相当タフじゃないとやっていけないのに、めげることなく畑作を試みるなんて!作中、それなり疲れている描写はあるが、それにしたって、畑作をやったことのない人間が一人で畝を何本も耕し、ボロ家を補修し、坂道を自転車で往復して買い物に行くなんて不可能に近い。小さい頃から土に親しんでいるなら話は別だが、彼女は土ではなく本に親しんで育ってきたタイプの人間だ。そんな人間があんな事をすれば、すぐ消耗し尽くして、寝込むか病気になってしまうだろう。
 
 そういえば、作中、花は病気というものをしていなかった。子育てのなかで最も厄介な事態のひとつが「養育者が病気で行動力や判断力が低下する状況」だが、彼女はどれほど無茶をしようとも病気をしないらしい。この一点だけみても、花は現実離れしている。
 
 
 【異常な精神的タフネス】
 
 精神面でも、花の丈夫さは際だっている。シングルマザーに至る顛末はPTSDになってもおかしくないようなものだったが、彼女がPTSDやうつ病になった描写は無い。
 
 その後の都会暮らしにしても、子どもを小児科にすら連れて行けない環境で、児童相談所に虐待を疑われるほど孤立した子育てをやるなんて、普通だったら保つわけがない。しかも、夜泣きで睡眠不足にもかかわらず勉強までしているのである。あの寝ずの勉強の動機付けのなかには不安の解消という部分もあるだろうから、寝不足でも勉強することが心理的な安定に繋がる、という部分もあったかもしれない。が、それにしたって「孤独で不安な状況下」での「睡眠不足」はメンタルヘルスの大敵である。現実の母親だったら、とっくに潰れているだろう。
 
 
 【思春期をやすやすと手放し過ぎている】
 
 物語のスタート時点の彼女は、勉強熱心な女子大生なので、一般的に考えれば、職業も居住地も配偶者も決まっていないモラトリアムな段階にある筈である。そんな彼女が、さっさと「彼」と親密になり、家庭をつくっていく――これも現代人としては尋常ではない。
 
 思春期モラトリアム真っ盛りな、自分の可能性がまだ決まっていない人間が、サクッと配偶者を決めて、サクッと子育てに突入できるというのは、かなり凄い。普通は大変な逡巡を伴うものだし、後になって早すぎる決断を悔やみ、「本当の私はこう生きるべきじゃなかった」「子どもなんて要らない」と嘆く人もいる。いや、花の年頃でも、そのように人生の舵を切れる人がいないわけではない。けれどもそのような人は、既に仕事や居住地についてのアイデンティティがあらかた決まってしまっている人であり、つまり、既に仕事を持ち、暮らしの定常状態に至っている人の場合が多い。大学在籍中というモラトリアムを絵に描いたような立場の人間が、スルリと思春期を手放せるほうがおかしいのである。
 
 尤も、この花というキャラクターには、はじめから思春期など無かったようにも見えなくもない。なんとなくオカンっぽい顔立ちをしているし、やたら着飾ってみせるでもなく、エプロンをつけて料理する姿もサマになっている*2。そういう意味では、ここで驚いておくべきは、思春期を簡単に手放せている点というより、大学在籍中というモラトリアムな立場なのに心理的には思春期を終えていた点、のほうかもしれない。
 
 
 【スーパーマザーなのに、グレートマザーになってしまわない】
 
 そんな、まるで母になるために生まれたかのような花が、すんなり子ども達の巣立ちを受容&祝福できているのだ。これも、当たり前のように見えて簡単なことじゃない。
 
 現実の母親を見るに、子育てにリソースを一転集中しすぎた母親は、母親という立場とアイデンティティを手放しにくく、子どもとの距離感が密着したままになりやすい。もちろん、母子密着が必要な時期もある――子どもはまず、全面的に世話されなければならない乳飲み子として生まれてくるから、少なくとも初期段階には養育者との密着が必要だし、愛着形成にも密着は必要だろう。しかし、だからといって、いつまでも母親が子どもと(心理的に)密着していて良いわけではない。子どもの成長とともに、少しずつ親から離れていくのを見守り、見送れるようになっていかなければ、親離れできない子どもと、子離れできない親ができあがってしまうだろう。
 
 こうした母子分離の遅延は、母親が子どもを手放しづらいような動機が伴っているケースに、とりわけ起こりやすい。「子どもを手放したら危ない」「私が子どもの成長を一手に引き受けなければならない」といった不安が強い母親は、しばしば母子分離を遅らせてしまったり、子どもを自分の制御下に置こうとしてしまいがちだ。そうなると、子を思う母の気持ちが、思春期以降の自立の妨げになってしまうこともある。
 
 そこらを踏まえて花の子育てを振り返ってみよう。
 
 花は、「おおかみこども二人のシングルマザー」という、「子どもを手放したら危ない」という不安が最高潮に高まりそうな母親をやっているわけで、本来だったら、母子密着一直線、といったところだろう。作中でも彼女は、子ども達を保育園に行かせるのを躊躇し、雪が小学校に行くことさえ不安がっていた。子どもを保育園や小学校に行かせるのを不安がる母親など今時珍しいことを思うにつけても、花が子ども達を手許に置いておきたい気持ちは人一倍だったと推定される。
 
 そんな彼女なのに、子どもの親離れに際して、意外とあっさり子ども達を祝福できているのである。一応、雨の親離れにはそれなり葛藤してみせるシーンもあったが、それでも最終的に、山に登った雨にエールをおくり、里の中学校に降りていった雪の隣で誇らしげな顔をして微笑んでいるのだ。どうしてそんなに簡単に母親をやめられるのか?
 
 ひとつには、雨の場合は山の「先生」が、雪の場合は学校での人間関係*3が、家庭外の心理的充足や規範意識のよりどころとして機能していたから、というのもあるだろう。雨の場合は動物の世界に、雪の場合は人間の世界に、それぞれ母以外のよりどころを見つけることが出来ていた*4。母のまなざしと価値観の届かないところに独自のよりどころをもっておくのは、母子分離の大切な条件のひとつだと思われるので、小学生段階からそういったものに恵まれていた雨と雪は幸運だった。
 
 それにしたって、そうやって離れていく子ども達に対し、花が不安を募らせて拘束性の高い行動に出ていてもおかしくなかったのだ。作中でも、“進路”を口にした雨を花が家に閉じ込めておくシーンがあったが、ああいう振る舞いが、もっと早い段階から・もっと華々しく出ていても不思議ではなかった。現実の話だったら、花は、子どもの自立を口にしながら態度では束縛してやまないような、ダブルバインドの面倒くさい母親になっていた可能性が高いし、なまじ有能な母親だからこそ、その束縛は雨を巧みに飼い殺していたことだろう。あるいは雨が山に“就職”した後、雪だけは手放すまいと執着を露わにして、中学進学時に誇らしい顔をできずに、お葬式のような気分で送り出していたかもしれない。
 
 こうした心理的陥穽に陥ることもなく、(途中、若干よろめきつつも)花は子ども達の門出を祝福できていたのである。母親も人間である以上、母親を長年やっていれば、そこにレゾンデートル(存在理由)なりアイデンティティなりを見いだすようになる筈だし、それ自体は決して悪いことではない。しかし、そこから親離れ・子離れという境遇を迎えていくにあたって、花はあまりにも母親特化型として出来上がりすぎていて、しかも子どもを手放しにくい動機や不安を抱えやすい立場に見えてならないのだ。にも関わらず、自身の存在理由が揺らぐでもなく、中年期危機を迎えるでもなく、花は子ども達を誇らしげな笑顔で送り出している!これはもう、非凡といわざるを得ない。子を飲み込むグレートマザーになりそうな立場でもグレートマザーにならない、というあたりも花のスーパーチート性能のひとつとして数え上げてよいものだと思う。
 
 

「2012年にチートな母親を描いたアニメを世に問うことの意味」

 
 こんな風に、『おおかみこどもの雪と雨』は、チート性能な母が活躍する作品だった。とはいえ、理想の母なり女性なりをクローズアップした作品が過去になかったわけではないし、珍しいわけでもない。アニメという枠を離れれば、“月9”をはじめとしたトレンディドラマが女性の理想の一端を牽引していた時代があったし、NHKの大河ドラマに登場するヒロイン達も、毎回、強くて賢い女なり母なりをやっていた。なにより、朝の連続テレビ小説は、長期連載の強みを生かして、女性の理想的な半生を昔から描き続けてきた。
 
 それらの作品のスーパーヒロイン達に比べると、花の描かれ方はだいぶ違っている。花はそれなり自分で考え自分で生き方を決めているし、決断力に曇りがあるとも思えない。けれども花は、あまりにも子育てする母としての振る舞いばかりが理想化され過ぎていて、彼女個人としての自立やアイデンティティ形成に関する描写が省かれすぎていた。
 
 その欠落っぷりは、“花自身の執着や心理学的案件が省略されすぎている”と言い換えることも可能かもしれない。これが月9ドラマなら、自立と恋愛にまつわる課程や葛藤が描かれただろうし、連続テレビ小説なら自立と子育てにまつわる葛藤と解決過程が描かれるだろう。どちらにしても、女性自身のニーズを省いたりはしまい。ところが『おおかみこどもの雪と雨』の花はというと、とにかく、母、母、母、なのである。
 
 この偏重の結果として、花は、母親としては理想のチートキャラに仕上がっていると同時に、女性一個人としては不自然な、みようによってはグロテスクなキャラクターに仕上がっている。彼女個人のアイデンティティや自立の問題を徹底的に省いているあたりは、そうした問題に直面している人々から見れば、感情移入するための橋頭堡の乏しい&やけに手抜きなキャラクターと映るかもしれない。先日も書いたように、この作品は思春期モラトリアムな人達を置いてけぼりにしているわけだが、それだけでなく、子育てと自己アイデンティティの両立に苦労しているような養育者をも置いてけぼりにしている。
 
 じゃあ、花というキャラクターに共感できる人間・理想として受け取れる人間なんて、一体どこにどれだけいるのか?
 
 思うに、花に共感しやすいのは、子育てにアイデンティティを見出している人・子育てのピークを越え母子分離を無事に終えた人あたりではないかと思う。しかし、そういう人間が、現代社会にそれほどたくさんいるとは思えない――子育てより自分の仕事に夢中な男性達・子育てと自立の両立に悩める女性達・そして思春期モラトリアム真っ盛りの青少年達こそがたくさんいるのではないか。しかも、連続テレビ小説ならともかく、この作品はアニメ作品だから、子育てを終えたおばあちゃんがたを主要ターゲットにしているとも思えない。だから“主人公への感情移入”という筋でみれば、本作は甚だしいミスマッチを呈していると推定される。
 
 しかし、『おおかみこどもの雪と雨』をつくった細田守監督であれば、このミスマッチは当然承知しているのだろうし、承知のうえで敢えてチートなスーパーマザーを世に問うてきたのだろう。この作品は、おそらく視聴者のシンパシーを獲得するためにつくられてはいない。むしろ、視聴者側に多発するであろう違和感や消化不良感も織り込み済みのうえで、「理想の母のアイコン」とも言うべきチートキャラクターをスクリーンに躍らせたのだろう*5。言い換えると、この作品を通して現代の視聴者を“挑発”している、のではないか。
 
 ウェブサイトのインタビューでは、監督は以下のようなことを言っている。
  

・Q 『おおかみこどもの雨と雪』の着想のきっかけは?
自分の身近で子供が出来た夫婦が増えてきたときに、親になった彼ら、特に母親がやたらカッコよく、輝いて見えて、子育ての話を映画に出来ないかなと思ったんです。自分が体験してみたい憧れを映画にしたという感じです。

http://www.ookamikodomo.jp/interview/index.html

 
 この「親になった彼ら、特に母親がやたらカッコよく、輝いて見えて」をキャラクターに仕上げたのが花というチート母親なのだろう。その理想化された母としてのアイコンを目の前にして、現代の視聴者は何を思い、どう反応するのか?そして五年後十年後、この作品はどの程度まで記憶されていて、どのような評価を受けているのか?『おおかみこどもの雪と雨』とその制作陣は、今現在、興行収入という形で問われている。と同時に、現代の視聴者が本作とどのように対峙し何を思うのか、制作陣サイドから問いかけられているのだろう、と思う。2012年の細田守監督の“問題提起”は、将来どのような意味を帯び、どのように位置づけられるのだろうか。
 

*1:cheat:ずる。いかさま。

*2:家事が得意であること自体は、父子家庭出身という設定からみて違和感は無い

*3:同級生だけではなく年少〜年長までの小学生と、その父兄との人間関係

*4:この、雨と雪がそれぞれ見つけたよりどころは、「父性」と俗に言われる心理社会的な機能を概ね備えていたと思われる。この「父性」に相当するものが、家庭内ではなく家庭外にあったということ・それがどこでどのように起こっていたのかも、『おおかみこどもの雪と雨』を心理学的に眺めるにあたってかなりの見所になっているが、書いているときりがないので、ここではその事実を指摘するだけに留める。

*5:そういえば、二時間アニメという媒体は、緻密な人物描写という点では連載実写作品に比べてハンディが大きいが、抽象的で多義的解釈やデータベース的消費の余地の大きなアイコンをババーンと叩き付けるにはむしろ適している、と思う。