シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

相手の心を試しているうちは、その人を愛せないよ。

 
 恋人が自分をどう思っているか。
 配偶者が浮気や不倫をしていないか。
 親友が自分に嘘をついていないか。
 
 そういう確認作業と称して、親しい人に踏み絵を踏ませる人がいます。パートナーが本当に愛してくれているのか、理科実験をやるように確かめる人がいます。なぜ、そういう事をしてはいけないのしょうか?
 
 人の心を試してはいけないのはなぜか。 - 続・はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記
 
 上記リンク先の人は、理系的に考えて、合点のいく答えにたどり着いたようです。そしてはてなブックマークに寄せられた感想を眺めてみると、(株)はてな代表取締役のid:jkondoさんまでもが「素晴らしい」とコメントしていらっしゃるので、たぶん、素晴らしいんでしょう。でも、どのあたりが「素晴らしい」のか、私にはピンときませんでした。
 
 もちろん、合理的に考えようとすることはいいことです。私だって、合理的に考えるのは嫌いじゃありませんよ。でも、世の中の素晴らしい事・価値のある事のすべてが合理的とは限りません。むしろ私は、合理的に考えさえすればこの世のワンダフルすべてにアクセスできると思い込むのは、現代人にありがちな、一種のビョーキみたいなものだと思ってしまう性質なので、ちょっと非-理系的に考えてみることにします。
 
 

自己執着にもとづいた合理性ではみえないものがある

 
 とはいうものの、リンク先の結論と私が考える結論とは、実は、似ていたりします。キーワードは「」。id:kawangoさんは終わりのほうで以下のように書いています。
 

だったら、自分自身もまた現実の相手の心なんか、おかまいなしに、相手を受け入れて、愛して、信用すべきだろう。

http://kawango.hatenablog.com/entry/2012/06/29/002717

 
 対して、私の結論は「相手の心を試しているうちは、その人を愛することが出来ない」ですから、ほら、似ているでしょう。でも、やっぱりニュアンスが違うと思うんです。例えば、
 

自分が望んでいる人間関係ってそれでしょ?偽りかもしれないけど、それを本当にしたいんでしょ。自分もそして相手も。だったら、そういうことにすればいいじゃない。疑ったらすべてが台無しになる。

http://kawango.hatenablog.com/entry/2012/06/29/002717

 とか、

愛情あふれる肉親や恋人、信頼あふれる仲間なんていうものは自分の脳内のシナプスのパターン上にしか存在していない。神も同じだろう。現代科学の常識から一番矛盾のない神の存在場所を考えると、やはり自分の脳内であるという結論がいちばんしっくりくる。

http://kawango.hatenablog.com/entry/2012/06/29/002717

 などを読んでいると、やけに自分中心な視点で合理的に考えているように読めてしまったんです。『人の心を試してはいけないのはなぜか。』というパズルを、「自分がどう感じるか」「自分の心理状態がどうなるか」「自分がどういう信用関係を構築するか」といった関数だけで解こうとしているというか。
 
 でも、それだけじゃ何かが足りない。
 だから私は、「人の心を試しているうちは、その相手の人を愛することが出来ないから」という視点を付け加えます。
 
 人の心を試したがり、あまつさえ実際に試してみるってのは、相手が自分をどう思っているのか気にしているってことじゃないですか。「私のこと好き?」「私のこと信頼してる?」「私のこと愛してる?」――そういう気持ちがあればこそ、人の心を試したくなるし、そのように相手に問いかけているのだと思います。少なくとも、人の心を試すような行動に出る人の大半は、そういう動機にもとづいて行動しているのではないでしょうか。
 
 でも、これって、あんまり相手のこと愛してないですよね。
 
 一見、相手のことを気にしているように見えて、本当に気にしているのは「相手から自分がどう思われているか」「相手から自分が愛されているかどうか」であって、要は自分がかわいい・自分が好きという気持ちのほうが強いって事じゃないですか。そういう気持ちが優勢な人は、相手が自分のことを愛してくれない・自分に見返りを与えてくれないと確認できたら、すぐ醒めてしまうのでしょう。相手のことより自分自身のほうがずっと好きな人にとって、愛してくれない相手への“投資”をやめるのはすこぶる合理的です。
 
 で、なにがいいたいのかというと、こういう「自分にとっての損得」ってロジックで方程式を組んでばかりだと、あんまり相手のことを深く愛せないと思うんですよ。合理性の方程式をひたすら自分中心に組み上げる人は、その自分中心の合理性というやつにどうしても縛られて、非-合理的かもしれない振る舞いや、見返りを求めない愛情に対してしり込みしちゃうと思うんです。でも、それって愛ですか?愛じゃないですよね。算盤感情というか、ビジネスライクな何かですよね。どう考えたって愛じゃない。
 
 世の中には、「自分がどう感じるか」「自分の心理的境遇がどういったものになるのか」「自分がどういう信用関係を構築するか」では手の届かない、けれどもかけがえのない価値のある行動選択がたくさんあります。
 
 例えば、親がどれだけ子どもを愛したとしても、子どもは親からいつか離れていくものです。もし、親が子どもに見返りを求めてやまないようでは、子どもはきっと参ってしまうでしょう。自分中心の方程式で考えるなら、子育てなんてきっと“赤字”だと思います――親が愛する量に比べれば子に愛されないし、与えるのに比べれば返って来ないし。でも、そういう自分本位な損得勘定を超えた愛し方で接しなければ、やっぱり子どもってスクスク育ちにくいんじゃないかと思うんです*1
 
 あと、片思いの異性に対して、たとえ恋が実らないとしてもその異性に為し得るベストの選択をする、なんていうのも、自分の損得勘定ばかりをベースに計算していたら無理かもしれません。自分の損得勘定のことしか考えない人にとって、両想いになる可能性がなくなった異性に何かを為すのは、わりと非-合理的なことでしょうから。でも、私はそういう行動や体験にも値打ちが宿ることもあると思っているので、そういう行動や体験をカットしてしまうところまでは合理的になりたくないなぁと思っています。
 
 ロマンがないじゃないですか。
 少しぐらいロマンがあってもいいじゃないですか。
 
 念のため断っておきますが、すべての人を見返りなく愛しなさい、と私は言いたいわけではありません。ビジネスライクな考え方や、自分中心な合理性を軽視したいわけでもありません。ただ、自分ガー自分ガーという合理性では手の届きにくいところにもかけがえのないものがあって、そのかけがえのなさにアクセスするためには、人の心を試してしまうような強すぎる自己執着が邪魔になりますよ、と言いたいのです。
 
 

愛をとりもどせ

 
 人の心を試してはいけないのはなぜか?
 その人を深く愛せなくなってしまうから、と私なら答えます。
 
 まあ、逆に言えば、愛なんていらない、自分しか好きじゃない、自分ガー自分ガーという自己執着の化身のような人なら、人の心を試しまくったって悪くないのかもしれません。演技や嘘が途方もなく上手で、絶対にバレないように恋人の携帯電話を覗き込めるような人の場合、そういうことをやりながらでも相手からの愛情や信用を得られるかもしれませんよ。でも、仮にそういうことが可能だとしても、愛せないがゆえに届かない視点・愛せないがゆえに見えない境地というのは依然として残るでしょう。
 
 今日日は、自己執着に基づいて合理性を計算し、その方程式越しに娑婆世界を眺める人が多いので、その見えない境地、の部分がどんどん失われていっているような気がしますが、それは本当は、とても悲しくて寂しいことなんじゃないかなと私は思っています。
 

*1:もちろん、自分本位な損得勘定を超える=子どもがスクスク育つ十分条件ではありませんけど