シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

すべての人間が、成熟を避けるという社会は

 
 「すべての人間は、成熟しないで構わない。幼児のまま留保なく生を肯定されるべきである。バブー!
 
 誰も成熟しなくて良い社会。成熟しなくて済む社会。それどころか、“成熟の真似事”すら引き受けなくても良い社会。もしそんな社会を肯定するとしたら、一体誰が、その成熟を引き受けない人達を養い、世話し、支えるのだろうか?
 
 大人という立場・成熟した振る舞いを受け付けなければならない状況というのは沢山ある。例えば鉄道の駅員、学校教師、民生委員etc…社会のインフラを支える多くの職業、特にface to faceのコミュニケーションを必要とし、ときに忍耐や粘り強さを求められる職業においては、いつも受動的な御客様気分・バブバブ気分だけでは職業として成立しない。上に挙げた例に限らず、これは殆どのサービス業にも当てはまろう。
 
 また、父親や母親として次世代を養い育てる人達も、大人としての立場・養育者としての立場を引き受けないわけにはいかない。内心はともかく、仕草として“ママは小学二年生”というわけにはいかないのである。たとえ幼少期にトラウマなり引っかかりなりが残っている親でも、だからと言って、子どもと全く対等にバブバブ言っているわけにはいかないし、それで子どもが健全に育つということはあり得ない。
 
 成員の過半数以上が、養われること・楽しむこと・与えられること以外を引き受けない社会は、どう考えてもパンクする。 せいぜい、『蠅の王』で描写されたようなディストピアができあがるのが関の山だろう。
 
 
 【子どもの心を抱えていても「成熟を引き受ける」ということ】
 
 ところで、成熟だの大人だのと言われて、「はい、私は成熟します」「俺は大人になりました」と腹の底から言える人はどれぐらいいるだろうか?たぶん、それほどはいないだろう。
 
 “完璧な成熟”だの“完璧な大人”だのを想定するのはとても難しい。いるんでしょうかね?そんなパーフェクトで超人な人物って。むしろ、そのように思い込みすぎること・指向しすぎることのほうが、精神衛生上のアンバランスを示唆する兆候のような気がしないでもない。
 
 いくら年を経ようとも、大人としての立場を引き受けようとも、人間の心の中には幼児期や児童期の記憶が残っている。そして遊びの最中やピンチの時などに、そういった太古的な願望がヌッと顔を出すことも珍しくない。人間の心理的な成熟は、【卵→幼虫→さなぎ→成虫】へと跡形も無く変身していく蝶に喩えるよりは、地層のように、【幼児期のエッセンスに児童期のエッセンスが堆積し、さらに思春期や青年期のエッセンスが降り積もり…】といった風に喩えるほうが実際に即している。
 
 だったら、一人の人間として完全な成熟を目指す(あるいは他人に期待する)よりは、未熟なり幼児の心なりを抱きつつも、状況や立場を踏まえて「成熟を引き受ける」という表現のほうが、現実に即した目標(あるいは要請)ではないかと思う。別に、心の芯から成熟しなければならないとは思わなくてもいいし、目指したところでできっこない。いっぽう、必要性や立場に応じて、「成熟を引き受ける」という捉え方であればもっと現実的で、なおかつ自分自身と他人に対して、必要な振る舞いを期待しやすいのではないかと私は思う。
 
 自分が完全な大人をやろうとするでもなく、他人に大人を期待しすぎるでもなく、然るべき状況・然るべき立場の時には“指しゃぶり”をやめて「成熟を引き受ける」ということ; これがそれなりに可能なら、次世代を育成できるだけでなく、大人同士の人間関係のなかでも、互いにもたれあいながら互いに支えていくような、バランスのとれた相互依存を成立させられそうだ。
 
 すべての人間が、成熟を避けるような社会は、いずれ崩壊を免れないだろうが、すべての人間が、自分と他人に成熟しか許さない社会も、それはそれで何処かおかしい。「成熟を引き受ける」ぐらいがバランスをとりやすいんじゃないかと。