シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

一人のヒロインを選ぶ尊さからの逃避

 
 

君が望む永遠 ~Rumbling hearts~(通常版)

君が望む永遠 ~Rumbling hearts~(通常版)

 
 一人のヒロインを選ぶ尊さは、他のヒロインを捨ててこそ保たれる筈なのに。
 
 例えば、十年以上前のPC-98版『同級生2』は、その自由度の高さも手伝って、どのヒロインを選び、どのヒロインを選ばないのかの自由がプレイヤーにほぼ完全に任されていた。その気になれば、二股、三股をかけることだって出来たし、特定の一人を一途に追いかけることも可能だった。しかし二股以上が成立していたとしても、最終日には必ず一人のヒロインを選択し、他のヒロインを“振らなければならなかった”
 
 一人のヒロインを選ぶ以上は、他のヒロインは捨てなければならない。
 
 このシステムは、一人のヒロインを選ぶという事の意味や尊さを自覚するには好都合だったと思う。「誰か一人を特別に選び、他の女性との可能性の芽を摘む」という選択は、選ばれないヒロイン達からみれば残酷のようにみえて、実はそれほど残酷ではない。選ばれる側のヒロインからすれば、むしろ他の女性との可能性の芽を摘まないで曖昧にしておくことこそが残酷きわまりないと言えるだろう。そういう意味では、誰が選ばれたヒロインなのかを曖昧にしたままのハーレム的展開のほうが、遥かに残酷だ。あれは、全員を選んでいるようにみえて、誰も選んでいない。ハーレム内のすべての女性キャラに対して不実な態度を続け、すべての女性キャラに息の詰まるような疎外的状況を押し付けているわけだ。
 
 その点、『同級生2』の場合、ヒロインを選ぶ自由と義務の両方がプレイヤーに強制されていたお陰で、選ぶということの残酷さを自覚させられることと引替えに、選択した後のヒロインは常に、プレイヤーに選ばれた特別なヒロインだった。各ヒロインのエンディングが“結婚”だったことも相まって、選ばれたヒロインの特別さ加減がかなり強調されていたといえる。
 
 しかしその後の恋愛ゲーム界隈の流れは、一人のヒロインを選ぶ尊さを自覚しやすいような流れではなかったと記憶している。[フラグを立てたヒロイン以外が急速にフェードアウトする仕掛け][攻略ルートが一本に絞られる仕掛け][全てのヒロインを攻略した後に“本エンディングルート”が現れる仕掛け]etc…が発達したことで、一人のヒロインを選ぶ自由と/他のヒロインを捨てる義務は体感しにくくなってしまった。これらの仕掛けは、恋愛ゲームを“遊びやすく”することには寄与したにせよ、“複数の可能性のなかから一人のヒロインを選ぶ”ことの特別な意味をすっかり薄めてしてしまった
 
 一人の女性(キャラ)を選ぶということの意味は、“有り得たかもしれないほかの女性(キャラ)との可能性”を捨て去ることによって担保されるもののはず*1。「他の女の子がかわいそうだから選べない」などというのは*2、選ぶ側のエゴイズムでこそあれ、選ばれる側に対して誠実な態度ではない。要は、自分だけが愛しいという態度に通じるわけだが、そういうのが“いわゆる恋愛ゲーム”のメインストリームになっていったわけだ。
 
 こうした傾向に対して、異議を申し立てたゲームが無かったわけではない。一人のヒロインを選ぶことの尊さ・誰も選ばないことの残酷さを浮き彫りにした作品は、例えば『White Album』『君が望む永遠』といった形で登場してはいる。しかし、ヘタレ主人公のエゴイズムを露骨に描写したこれらの作品をもってしても、恋愛ゲーム界隈のメインストリームを変化させることはできなかったようだ。“ヒロインを選べない男性のエゴイズム”に直面化させられたプレイヤー達は『君が望む永遠』に“鬱ゲー”というレッテルを貼りつけることで安堵し、そして恋愛ゲームの男性主人公達はますますヒロインを選択しなくなっていった*3。ごく控えめに言っても、「他のヒロインとの可能性を捨てるということ・だからこそ一人のヒロインを選ぶことが重くて尊いんだ」ということを骨身に染みて実感させてくれるゲームというのは、あまり無い*4
 
 “一人のヒロインを選ぶということの尊さ”“そのために他のヒロインを捨てるということ”は、本来、恋愛や男女交際を考えるにあたって非常に滋味豊かで、奥深い領域だと私は考えている。しかし現在の恋愛ゲーム(とそのプレイヤー)は、こうしたテーマから遠ざかることこそあれ、アプローチすることを躊躇っているようにみえてならない。
 
 ヒロインを選ぶ自由からの逃避は、これからもずっと続くんだろうか?
 誰も選ばない・誰も選べない世界を、プレイヤー達は志向し続けるんだろうか?
 それは本当に幸せな夢なのだろうか?
 

*1:それが言いすぎだとしても、少なくとも強調はされるはず

*2:例えば『Fate』のシロウのような類は

*3:なお、『School Days』もまた選ばない・選べない男性のエゴイズムを描写した作品のひとつと言えるが、ここまで来るともう、プレイヤーは自分自身のエゴイズムに直面して抑鬱的になることすら出来なくなってしまい、「ヘタレの誠と俺とは別種の生物なんだ」と割り切って安心するためのツールとして作品が消費されるところまで来てしまっている。

*4:『クラナド』は一見するとこれに近いが、渚afterルートを進む為には結局他のヒロインすべてを選んで回らなければならなかったりするため、一人のヒロインを選ぶ、というニュアンスはあまり強調されていない。そもそも、クラナドの主題はヒロインを選択する意味を強調するのとは別のところにある