生まれそこなった新世代としてのオタク|Weep for me - ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記
およそオタクに限った話ではなく、日本人の大半は、「自分自信の内側の価値」なるものをあまり内在化させず、自信や価値やアイデンティティを外部にアウトソーシングしながら生きているような気がする。「自分が自分であることを確認できる何か」「自分に価値があると思えてくるような何か」を他者や物品やコミュニティに仮託することで、それで何とか自分自身の心の均衡を維持している。
なにも最近の日本だけの話ではなく、かつて、[企業とモーレツ社員][地域共同体と村人]といった組み合わせのなかでも自然に行われてきたことと回想して、ほぼ差し支えないのだろう。日本人は、近代的な西洋人(のステロタイプ)とは異なり、「自分自身の内側の価値」を凝集しなくとも、コミュニティや組織全体と半ば融合した形で、外側の価値を共有しながら生きていくことが許容され、時には美徳とさえみなされていた。都合のいいことに、日本語には、自他の区別をつけながら話さなければならないという原則が無い。日本語を用いるなら、その価値・その成果が誰のものなのかを峻別をしないまま、あたかも皆の価値・皆の成果であるかのようにボカしたまま、会話を成立させることも容易い。
で、本題に入ると、
オタクはそうした現代人の先端にある現象だ。そういう見方がされたこともあったように思う。今もあるのかもしれない。多様化した価値観の中で、旧世代の感覚ではアイデンティティの拠り所となり得なかったものへの傾倒が可能になった。そのひとつの帰結が、リンク先に例示されるような服オタなんだとすると、それは旧世代的な帰属意識のお手軽な矮小化、或いは、縮小再生産にすぎないということになる。時代の先端なんて呼べるようなものではない。おそらく、本来新世代的なものの理想として語られるべきは、「自分だけの価値」に安住できる精神性だったはずである。
http://diary.lylyco.com/2008/11/post_210.html
私自身の見聞きする限りでは、最も若い世代の日本人でさえも、「自分自身の内側の価値」に安住できている日本人は少数派に属しているようにみえる*1。戦後、個人主義と民主主義が与えられて、地域社会が崩壊すれば「自分自身に依って立つ人」へとシフトチェンジするかと思いきや、そうはならなかったらしい。代わりに日本人が選んだのは、特定の個人を動員して自分の価値をアウトソーシングするようなやり方や、極めて狭いセグメントのなかでふんぞり返ることで、自分自身に内在化しきっていない自信や価値を埋め合わせるようなやり方だった。
例を挙げればきりがないが、いくつか例示してみよう。
・自分の価値を実感させてくれるような子どもを求める教育ママ
・全能感を失わずに済む狭い領域のなかでだけ、ふんぞりかえっていたいオタク
・援交女子高生を通して自信を回復させるしかなかった一時期のオジサン達*2
・高級車や改装車を乗り回し、それらを自分自身の一部として体験するような人
・自分自身のスゴさを保障する為の手段として、異性を求めるような人間
モノや他人を動員する形で「自分自身の内側の価値」を代償する営為がそこらじゅうにに溢れている。かつては地域社会や企業が(莫大な負担と引替えに)提供していた自信や価値を、私達はこうした様々な手法で代償してはいる。この代償をもって、「超克」というわけにはいくまい。
世代や社会は変わっても、心性は昔のまま?
以上を踏まえるといろんな視点が広がってきそうが、今回は、以下の点だけを確認しておく。
それは、「自分自身の内側の価値」を埋め合わせる手段として他人が動員されるというのは相当な人間疎外で、これが酷い度合いで長く続けば、動員された側のメンタルに相当な負荷と傷跡を残すだろう、という点だ。教育ママで例示したような、自分の価値確認の手段として自分の子どもをはけ口にするような場合、いたいけな年齢で期間も継続的であることもあって、目も当てられないほどの負荷と傷跡を残しかねない。援助交際の女子高生も、勿論当人の意志に基づいて性的アイコンとしての自分をオジサン達に売り飛ばしていたにせよ、じゃあそれがノーダメージで気楽な小遣い稼ぎで済んだかというと、かなり疑問が残る。地域社会や組織やコンテンツをアウトソーシング先として動員するのは、まあそれほど悪くない話かもしれないが、特定個人がはけ口となる場合には、様々な傷跡や歪みを残しかねない。この手の傷跡や歪みは、連鎖・世襲することも多く、非常に厄介だ。
それなら、コンテンツを自分自身の価値を埋め合わせるアイテムにすればいいんじゃないかとか、2chの幾つかの板のように、集団的に自分自身の価値を補填しあえる場所を使えばいいじゃないかとか、色々な対応策は確かにあるだろう。ただし、この手の対応策は、自分自身の自信や価値づけを補填するには適しているかもしれないが、「自分自身の内側の価値」を安定化させて、アウトソースする必要性を低下させてくれる手法にはなりにくいようにみえる。むしろ、「自分自身の内側の価値」を振り返らず、そこに依存しまくるリスクを含んでいるようにみえるし、例えばネトゲ界隈などは現にそうなってしまっている。
自信や価値をアウトソースすることの是非や、程度問題としてどれぐらいまでなら“オーケー”なのかは、非常に難しい問題なのでここでは問わないが、ともあれ、現在までに登場した大抵のサービスは、こうした自信や価値のアウトソースに耽溺する機会を増大させてはくれるが、そうしたアウトソースの必要性を軽減してくれるわけではない。そして「自分自身の内側の価値」と呼べるような根本的な蓄積を保障してくれるわけでもない。私達は抑圧に満ちた地域社会からは解放されたが、自信や価値をアウトソースせずにいられない心性からは解放されていない。それどころか、今まで以上に束縛されているのかもしれない。