シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

結婚・恋愛と“適度な失望や摩擦を含んだ親密さ”

 
 
 
 
http://d.hatena.ne.jp/heartless00/20081020/1224497705
 
 
 色々と考えさせられる対談記事だった。
 そのなかで特に私が気になったのは、
 
1.男性の側も女性の側も、自分自身の劣等感を糊塗すること・コンプレックスを防衛することに汲々とした形でしか恋愛にコミット出来ないということ
 
2.そのくせ異性に対しては自分にとって都合の良すぎる期待を抱いている傾向が強い
 
3.確率論や期待値で恋愛へのコミットを決めてしまいすぎるということ
 
 以上三点だ。この三点は、男女を問わず、昨今の壮青年に強く感じられるメンタリティじゃないかと思う。
 
 自分自身の劣等感やコンプレックスを超克しろとまではいかなくても、上記三つのメンタリティを自覚のうえで折り合いをつけるためのメソッドや、異性に対する期待水準に折り合いをつけていく為のメソッドは、対談記事をみる限り、あまり出てこなかったようにみえた。これが、日本版ミーイズムの男女交際面における着地点なのだろうか?*1。まぁそうかもしれないけれども、こんな我利我利亡者のままでは長期的な配偶関係を維持することは困難だろうし、その困難さは統計的な数字となって既に裏づけられているようにもみえる。
 
 この対談で描かれるメンタリティをみていると、はてな界隈で言う“非モテ”問題と、実はそれほど変わらないメンタリティを皆さんお持ちなんじゃないですか?と私は感じたりもする。実際にモテるかどうかやセックスをしているかしていないかはともかくとして、1.劣等感を糊塗し、コンプレックスを防衛する為の所作に束縛されまくっていて、2.異性に対しては自分にとって都合の良い振る舞いをガンガン期待し 3.確率論と期待値で男女関係や人間関係を判断しすぎてしまう という辺りは、非モテメンタリティと殆ど共通している。こういったメンタリティを持った人は、結婚しようがしまいが、モテようがモテまいが、異性との間で安定した関係を長期的に積み上げていくことは難しいだろう。代わりに、欲求不満・自己嫌悪・対象への幻滅・束縛的で所有的人間関係に陥りそうにみえるし、現に、そのような男女関係は間違いなく増加している。もちろんこのような交際の仕方は、実存的諸問題には殆ど寄与しない、喉の乾きの癒えない営為と断じてしまって構わないだろう。たぶん、どんなに美人と付き合おうがセックスしようが、このタイプのメンタリティにどっぷり漬かった人は“不幸を回避”しにくく、いずれは手持ちの幸福感はゼロになってしまう。
 
 じゃあどうすれば良いのか、という具体的なメソッドとなると、私もあまり良い知恵がみつからない。だが少なくとも一点、これさえ何とかなるだけでもよさげなのに…と思うことがある。
 
 それは、「適度な失望や摩擦を含んだ親密さを築いていける感覚」の成熟過程だ。これはもちろん男女関係に限った話ではない。子ども同士の友達関係や、初恋の中学生同士の初心な付き合いなどをスタート地点として、人は、親密でありたいと思った相手も実際には自分の期待や理想とは異なった、失望や摩擦をそれなりに含んだ他者であることに気づいていく。ただしその気づきが絶望に直結するわけではなく、それでもなお自分と他者との間に親密さを構築していくことの意味や可能性をも学び取っていく。こうした感覚が十分に育っていれば、同性の友人であれ異性の恋人であれ、適度な失望や摩擦を含んだ相手という前提を踏まえながら親密さを構築していけるだろうけれども、逆にこうした親密さを構築できないような人は、不信感を防衛する為にストーカーまがいの異性束縛や、傷つくのを恐れた人間関係からの退却などに陥ってしまいやすい。
 
 これを、ちょっとだけソレっぽく言うなら、エリクソンの発達段階でいう青年期→成年期あたりの、[同一性vs同一性拡散][親密さvs孤立]がまともに進行するなら、適度な失望や摩擦を前提として踏まえた、大人らしい親密さに移行できるんじゃないんですか?という表現になるかもしれない。だけど、今の三十代や二十代について私がみている限りでは、これが全然出来ていないし、ちっとも移行できていない。いい歳したストーカーやら、結婚離婚を幾ら繰り返しても学習しない大人やら、願望を充たしてくれる美少女じゃなきゃ駄々をこねる大人やら、ゴロゴロ存在しているわけだ。
 
 ただし、エリクソンの発達段階の話は、日本から遥か遠い西洋のちょっと昔の時代にフィットした仮説に過ぎないわけで、日本の団塊ジュニア世代に杓子定規に当てはめて良いかというと、少し疑問は残る。確かにエリクソンの発達段階は、理想的な成熟プロセスの一つの雛型だとは思うけれども、日本の団塊ジュニア世代以降の人達に容易く達成可能な成熟プロセスかというと、私はかなり怪しいと思うし、日本という文化圏内の唯一解と言えるかというと、これも怪しいんじゃないかと疑ってはいる。とはいえ、エリクソンの発達段階を採用しようがしまいが、[摩擦や齟齬を含んだ親密さの構築]が未成熟なまま三十路を迎えてしまえるということ・そういった大人がどんどん中年世代へと加齢していっていることは、社会心理学的にも、社会学的にも、かなりヤバい話なんじゃないかとは思う。そのような社会に進んでいけば、ミクロの個人の実存的不安や不幸感覚はもっともっと増大しそうだし、マクロの社会レベルでも、様々な問題が噴出しそうな気がする*2
 
 このように、エリクソンの発達段階説の(特に日本国内における)今日的必然性については、私はちょっと疑っているわけだが、一方で、エリクソンの発達段階説に含まれているような[摩擦や齟齬を含んだ親密さの構築]の大切さは、私はいまでも全く疑っていない。そして、私達よりもうちょっと上の世代の人達には、なんやかや言ってこれを構築・達成できている人が多いように見受けられる。ちょっと上の世代の人達は、子どもから大人になっていく過程のなかで、[摩擦や齟齬を含んだ親密さの構築]をある程度達成しやすく、言い換えるなら、(この分野に関して)“成熟しやすかった”のではないか。
 
 一方、こうした[摩擦や齟齬を含んだ親密さの構築]をろくに積まずに加齢し続ける人がワラワラ増加している現状を目の当たりにすると、どうして新しい世代はこうなっちゃったんだろうという疑問を禁じ得ないし、未来への展望にも思いを馳せずにいられない。*3思春期の延長・モラトリアムの延長という言葉も聞かれるけど、大半の凡人は、加齢からも歳相応の社会的要請からも自由ではいられない。そうやって否応なく中年化していくなかで、[摩擦や齟齬を含んだ親密さの構築]抜きでやっていけるものだろうか。
 
 個人的な印象としては、三十代からの個人の適応のなかで[摩擦や齟齬を含んだ親密さの構築]がどこまで達成できているのかは、適応の幅や“不幸感”の強弱とかなり相関するのではないかと推定している。これが出来ていない人は、いっときの栄華を達成することこそあれ、人間関係を長期的に育むことには失敗しやすい*4か、過剰防衛が災いして人間関係の幅そのものを広げられないかの二択に陥りやすいように見受けられる。時々、成熟なんて不要だとうそぶく人がいるけれども、[摩擦や齟齬を含んだ親密さの構築]に関しては、歳相応に身に付いていないと色々と不便を蒙るような気がするし、そんな大人になりきれない中年や老年ばかりが溢れた社会ってのは、社会的インフラでどう誤魔化してみたところで結局は生き難い(ように感じられる)社会なんじゃないかな、とも思う。
 
 ミクロの個人の適応にばかり関心のある私としては、こういった今日的状況下で、[摩擦や齟齬を含んだ親密さの構築]を身につけていくためのプロセスはどのようなものなのか・プロセスに必要なリソースは何なのかを今後はっきりさせていきたいと感じる。さらには、[摩擦や齟齬を含んだ親密さの構築]がある程度以上の年齢になっても構築されていない人がそれでも折り合いをつけながら生きていくための技法にも興味を感じる。エリクソンの説いた発達段階が、ごく当たり前の発達から達成の難しいレア品になりつつある現状のなかで、個人の適応をどう追い求めていくのがベターなのか、ゆっくりと考えてみたいところだ。
 
 

*1:この辺りは、もっと適切な語彙を用いればきちんと整理することは可能そうだけれども、今はまだその時期ではないので黙っておく

*2:個人的には、この辺りの問題はアメリカ合衆国においてもっと深刻な形で、楽天的外見を装いながら全力進行中のような気がするので、アメリカの心理学的・社会学的事情にアンテナを張り巡らせておくことは非常に有用だろうなとは思う。尤も、ここは一神教の国でもフロンティアでもなく、八百万の国なので、そこを弁えておく必要はあるけれども。

*3:ちなみに、精神医学、ことにDSM-IVに則った精神医学は、この問題にそれほど寄与してくれないような気がするし、だからといって今更一人一人に対して旧来的な意味の“精神分析”をやってまわるというのも多分どこか間違っているような気がする。そもそも、精神分析が出来る人がこの国にそんなに沢山いるとは思えないし、さらに言えば、精神分析をやる人のなかに現在の急激な変化をよく把握している人がどれぐらいいるのかも私は知らない。

*4:ここでいう失敗とは、過剰な期待や信頼や理想を相手に投げかけて、それが充たされないといって怒ったり裏切られたと喚いたりするような失敗を指す