シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

非モテ・非コミュ方面をまとめる為の備忘メモ

 
 そろそろ、自分なりに非モテ・非コミュ問題の結論をまとめたいと思っているので、重要と思われる文章を備忘的に集めて置いておくことにする。
 

非モテ・非コミュの幼少期に関連した文章

 
 
 http://d.hatena.ne.jp/Agguy0c/20071031/1193805381
 ・Agguy0cさんの、生まれ育ちについての独白。両親との関係について綴ったうえで、自分自身のなかに生まれた不安感と空白について言及している。両親との関係と、Agguy0cさんの現在までの非コミュ的メンタリティには、多かれ少なかれの因果関係があると推定される*1。そして、親の世代のメンタリティが子の世代であるAgguy0cさんに世襲しているかのように読める部分もある。「他人と親密な関係を結ぶ事がもし出来ないとしても、せめてこの連鎖を断ち切りたい」という悲壮な表明で、このエントリは締めくくられている。
 
 http://d.hatena.ne.jp/hebomegane/20080430/1209528341
 ・類似した事例として、hebomeganeさんの父子関係についてのエントリにも注目しておく。父親からの、理不尽で不規則な叱責を通して、hebomeganeさんは父親の顔色ばかりを伺うようになっていったという。非モテ・非コミュ界隈の話を聞いてまわっていると、子ども時代に、理不尽かつ不規則にみえる叱責や抑圧の前に為す術が無かった・親の顔色を伺いながら振舞うしかなかった、という話を耳にする確率が高いような気がする。Agguy0cさんのエントリとは対照的に、ポジティブシンキングな結びになっているものの、かえって上滑り感が漂っているようにみえる。
 
 http://d.hatena.ne.jp/nitino/20060913
 ・そういえば、非モテ同人誌『http://khuriltai.readymade.jp/top/』に寄稿していたnitinoさんの文章のなかにも、「私を見捨てないで」という語彙が登場する。「私を見捨てないで」という不安は、他人の顔色伺いと極めて近いところにあるように思える。というか殆ど同じなのではないか、と思っている。nitinoさんは女性で、過小適応というよりは過剰適応というニュアンスが強い印象こそあれ、そのメンタリティには非モテ・非コミュと共通する何かが横たわっているように思え、だからこそ、nitinoさんは『奇刊クリルタイ』という同人誌に寄稿しようと動機づけられたのではないか、と推測する。
 
 [注:]後で指摘がありましたが、クリルタイの表紙を担当なさっただけで、文章は書いてないそうです。失礼しました。
 

 http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51095828.html
 ・ところで、「子どもが親の顔色を伺いながら育つ」という現象は、放任主義やDV親のもとでだけ起こるとは限らない。教育偏重の過干渉主義もまた、似たような心象風景と結果を子どもに惹起する傾向があるようにみえる。親子関係のなかで顔色ばかり伺う処世術を身につけすぎてしまい、それ以外には何も無いとなれば、思春期以降に苦戦は免れないようだ。「過保護より過干渉が問題」。
 
 Latest topics > 自信ありそうげな人が妬ましいし羨ましい - outsider reflex
 ・幼少期にみられた根っこの部分がそのまま大人になっても持ち越され、それが大人になってからの非コミュ・非モテ的振る舞いと関連してしている事例の一。自分自身のなかにゆるぎない「横綱」のような何かが欲しい、という願望は、風が吹けば飛んでしまうような心象があればこそのようにみえる。そしてpiroさんの場合も、他人の顔色を伺っていなければ不安だというメンタリティが通底しているようにみえる。
 
 「No」に際して物凄く不安になってしまう人達 - シロクマの屑籠
 ・もちろんこうした非モテ的・非コミュ的な「不安」が強い人においては、「今が、勝負すべき時なのか、逃げるべき時なのか」よりも「今が、承認される時なのか、Noと言われてしまう時なのか」で頭のなかがいっぱいになりやすい。経済的算盤勘定よりも、自分に否定的な感情が投げつけられないかどうかの心理的算盤勘定に衝き動かされる度合いが強いほど、ビジネスやコミュニケーションの場で本領を発揮しづらそうだ。
 
 
 

非モテ・非コミュに利用可能な処世術のバリエーション幾つか

 
 
 http://d.hatena.ne.jp/tenkyoin/20080407
 http://d.hatena.ne.jp/tenkyoin/20080416
 ・実際にtenkyoinさんの勉強がどこまでが「コンプレックスへの対処」「プライドの備給」なのかは定かではないし、そういった割合の多寡が勉強の価値と合致するとも限らない。だが、思想・評論・社会学などに埋没することによって、自分自身の寄る辺無さや、コミュニケーション上の問題を帳消しにするという道筋があるということは、意識しておいて良いと思われる。そしてよほど勉強した人であってさえ、「他人の目」や「(異性を含めた)コミュニケーションと承認の欲求」から完全に解脱することは困難のように思える。
 
 電波男 (評論) - Wikipedia
 ・そこで二次元ですよ!という話になって電波男。しかし、二次元美少女キャラクターだけで自己完結出来る萌えオタがどれぐらいいるかというと、実際には滅多に存在しないというのが本当のところで、実際に“抱枕獏”と心中できる人というのはある種の萌えエリートだけといわざるを得ない。
 
 Rauru-Block.org
 ・対して、ニコニコ動画を使ったコミュニケーションは、(その場その場だけとはいえ)承認欲求や所属欲求を満たしてくれる場として誰でも利用しやすい。別に「萌え」を求道しなければならないわけでもなく、自分好みのコンテンツを経由して、自分自身の内側の空っぽさを忘れられるような一体感をいつでも獲得することが出来る。勿論これはニコニコ動画だけに限った話ではなく*2、諸々のオタクコミュニティやネットコミュニティで見受けられた現象ではある。個人的には、この手法にとりわけ手馴れていたのが、第三世代〜第四世代のオタク達ではないかとも思っている*3
 
 http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20071213/1197521756
 自己承認を滅却するのではなく、単に防衛するだけでは「まさに虚勢」ですよ - シロクマの屑籠
 ・自分の得意分野のスポットライトのなかでしか自己表現しないように限定することで、その狭い領域のなかで肯定的目線を集中的にゲットするという処世術もある。例えば、自分自身が常に得意になれる狭い分野でだけ承認欲求をかき集め、そうでない殆どの分野では「承認など要らぬ」と自分に言い聞かせることが出来れば、他者の評価に傷つくことも、自信喪失に追い詰められるリスクも小さく出来るので、「他人の顔色を伺う」不安を最小化して過ごせる。自室に引きこもるだけが、自分自身を傷つきとまなざしの恐怖から守る術ではない。特定のニッチ・分野でだけ承認欲求をかき集め、その他のニッチ・分野では承認欲求を放棄してしまうこともまた、自分自身を傷つきとまなざしの恐怖から守るには好都合な処世術としてチョイス可能だ。
 

 僕が非コミュである原因 - 遥か彼方の彼方から
 ・他者への興味が湧かない。でも、自分が興味を持ってもらいたいと思ってはいる----これは非モテ・非コミュ的にはかなり率直な物言いではないかと思う。また、オタクのなかにもそういう人が決して少なくないと思う。問題は、このようなダブルスタンダードがコミュニケーションのなかで成立するのか・どうやって成立させるのか、という点だ。ネット上では部分的には成立するかもしれないし、実生活でも非常に魅力的な人であれば何とかなるのかもしれないにしても。
 

 革命的非モテ同盟跡地
 ・また、社会運動や社会問題というバッファを一枚挟んで承認を満たそう・他の人達の注目を満たそうというやり方も、有効ではある。自分自身のミクロの問題と社会というマクロの問題を置き換えることに成功するなら、自分自身のメンタリティの問題に直面化することを回避することが出来る*4。「私は運動をしているので」「私は社会問題を論じているので」という立ち位置は、自分個人が他者評価という名の「顔色」に曝される不安をかなり軽くすることが出来る。
 
 2007-11-15 - 古田ラジオの日記「Welcome To Madchester」
 ・そんな非モテ・非コミュにとって、自分だけの空間・他者との関わりを度外視させてくれるアイテムは、重要な補給線だ。iPodなどを駆使すれば、抑圧されがちな職場でも雑踏でも一服することが出来る。ヘッドホンを耳につけて自分自身の安全なニッチの要塞に籠もってしまえば、少なくともその瞬間は「他人の顔色」とは隔絶された空間に一時避難することが可能ではある。
 
 

意外と過去記事を探すのは大変

 
 はてなブックマークの[非モテ][非コミュ]タグを頼りに、思い出せる範囲で拾いまわってみたけれど、多分まだまだ具体的で真剣な話が埋もれているような気がする。いずれにせよ、非モテ・非コミュに関するテキストをみてまわると、「他人の顔色や承認を巡る不安」がやはり目立ち、どうやってその不安に対処するのかによって、様々な適応のバリエーションがみられるようにみえる*5
 
 非モテ・非コミュの適応バリエーションは、時にいびつで、時に刹那的なものではあっても、当人達にとっては切実で真剣な取り組みであることは間違いないだろう。そして彼らの多くは、自分自身の選択肢が非モテ・非コミュメンタリティを代償するものではあっても超克するものではないことを知りつつ、それでも自分なりのベターを模索しているであろう。
 
 にも関わらず、非モテ・非コミュのこうした苦しみを軽減させる方法の模索は意外と進んでいないような気がする。あれほど言及され、消費された[非モテ][非コミュ]という語彙なのに、メカニズムの解体も処方箋の提案も進行せずに、数年前と同じところを循環しているだけのようにみえる。よって、今後その辺りをまとめていく材料として、この備忘メモを書きとめておくことにする。
 

*1:勿論、1対1の因果関係というわけではないだろうけれど。

*2:ただしシステムとしてニコニコ動画に一日の長があることは認める

*3:そして第一世代〜第二世代の「おたく」は、上のtenkyoinさんに近いようなアプローチを趣味分野において展開していたのではないか、と疑っている

*4:尤も、ときとしてこのような手法が実際の運動や社会の改革に寄与することもあるので、これがいけない処世術・役に立たない処世術と言い切ってしまうのは早計だ。メンタリティ上の背景と、実際の仕事や運動の可否は命題としては別個に取り扱うのが適当だと思う。

*5:例えば、脱オタ的メソッドもまた、そのバリエーションの一つとして勘定することが出来るだろう