シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

ルール、コンセンサスはいつもダイナミック

 
 http://medt00lz.s59.xrea.com/blog/archives/2007/10/post_557.html
 
 ルール、について書かれたこの文章を読んで色々と思ったことを書き残すことにした。
 
 リンク先で言われているところのルール、というものには、ルール・道徳・モラル・コンセンサス、といった色々なものが含まれているように思う。狭くは一対一の人間関係から、関東・関西といった広域レベルのものまで、ルールやコンセンサスと呼びえるものは、実際には決めるものでも、存在を疑わずに保持するものでもなく、人間同士の間の動的平衡関係のなかで常に刷新されていくものだ、と思う。正しさに基づいてではなく、関係性と政治力とインセンティブの複合の帰結として現出し、揺れ動くものとして捉えたほうが、分かり良いものだと思う。
 

ルール、コンセンサスの動的モデル

 ルールやコンセンサスに「かくあるべし」を期待する人にとって耐え難いことかもしれないが、実際にはルールやコンセンサス、とりわけ成文法化されていない幾つもの取り決めについては、それらを共有する立場の人達の行動や動機付けによって実効性や内容が日々変化していく筈だ。例えば救急車は緊急性の高い患者しか運ばないというルールやコンセンサスなどは、そのコンセンサスを守ることが適切で満足と全ての人に思われている限りにおいては、変化しない*1かもしれない。しかし、一人でもそうでない成員がいれば、徐々に変化していく可能性が生まれてくる。擦り傷でも救急車を呼んでも怒られなかった・タクシー代わりに呼んでみたけど何とかなった、といった体験を持った人が現れ、しかもその体験が次第に多くの人に伝達されるか共体験されていった時、ルールやコンセンサスは既に形骸化することになるだろう。勿論、過去に言われていた「救急車は緊急性の高い患者しか運ばない」というルールやコンセンサスの形骸は、センテンスとしては残るだろう。だが、そのセンテンスをどこまで守るのかに関して実際に私達の間で保持されているルールやコンセンサスは明らかに変化していくし、実際に119番通報する際の敷居の高低にダイレクトに影響を与えているはずだ。
 
 勿論、こんなのは救急車に限ったことではない。夫婦間の取り決め・電車のなかのマナーやモラル・運動会の日に何をすべきなのかに関する保護者会のコンセンサス、といったものは、全て、ルールを共有するプレイヤー個人個人の振る舞いと意図によってダイナミックな動態を示す筈のもので、その横断面だけを把握して「かくあるべし」を説くことは本来ナンセンスなのだろうと思う(そういう意味では、老人の「近頃の若者は〜」という言葉は、ルールやコンセンサスをスタティックに捉えるという誤謬の歴史的堆積物、ということも出来る)。同質な社会構造が何十年も続いたムラ社会などなら、一見するとルールやコンセンサスが不動であるかのようにみえる状況もあるかもしれないが、スピードの速い現代社会においては、それはまず有り得ない。
 
 唯一の例外は、法律や条令によって定められたルールやコンセンサスで、これらに限っては、法の制定と判例の蓄積を通して、かなりのところまでスタティックなルールやコンセンサスが長い間広い範囲に留まることになる。ただし、法的に定められたルールやコンセンサスは、静的にはなる代わりに、その他の動的なルールやコンセンサスの平衡関係を規定する一因子として他のルールやコンセンサスにエフェクトし続けることになるし、結局のところ、法で記述され得なかった残余の部分において、動的平衡が揺れ動き続ける図式は普遍である。
 

ルールやコンセンサスは、個別の文脈に基づいて適用される

 そしてルールやコンセンサスは、その適用の段階において、適用レベルがしばしば変化することにも注意しなければならない。個別の個人対個人、個人対集団、集団対集団のあいだのインセンティブのぶつかり合いや政治的パワーのぶつかりあいといった種々のコンテキストを踏まえたうえで適用される。例えば、禁煙席でタバコを吸っている人をみたら注意する、というルールやコンセンサスは、比較的高頻度に共有され守られるものだろうが、違反者が誰であるかによって、このルールが適用されるかは俄然変わってくるだろう。今にも倒れそうなせむし男が吸っているのと、サングラスをかけた偉丈夫が吸っているのでは、ルールの適用可能性は大きく変わってくる。ルールを破る側は、後者のほうが遥かに破りやすいし、ルールを守らせる側は、前者のほうに注意を促しやすい。
 
 まずはじめにルールありき。コンセンサスありき。…などというのは「そうだったらいいのにな」という願望のレベルの話であって、実際には、ルールやコンセンサスは内容そのものの動的平衡性だけでなく、適用が文脈レベルで常に変化するという意味でも非常に不確かな、揺れ動きやすい概念であることを把握しておかないと、色々と失望することが多いのではないかと思う。また逆に、ルールやコンセンサスと相対するにあたり、ルールを守るにしても、ルールを破るにしても、ルールを変えるにしても、それが動的平衡性のなかに存立しているということ・文脈によって適用のレベルが変化すること、を知っておくと様々な場面で得しやすいといえる。ルールを盾にしたい場合には、そのルールが現在のコンテキストのなかで(或いは個別関係のなかで)適用可能なのかどうかをチェックしたり、ルールを変えたい時には、自分の振る舞いや周囲の人の振る舞いがルールの動的平衡にどのようなエフェクトを与え得るのか考えたりすると、個人は様々な恩恵を受けられるだろう*2
 
 ルールやコンセンサスは、石版に刻まれた法文というよりも、ホメオスタシスのもとに成り立つナマモノに近いものに喩えると、わかりやすく、利用もしやすいのではないかと私は考える。
 

ルールやコンセンサスまでもが、細分化されている

 最後に、ルールやコンセンサスの細分化についても少し触れておこう。文化ニッチや世代ニッチ、職能ニッチなどにおいて保持されるルールやコンセンサスは様々だが、地域社会が無くなった現代都市空間においては、「地域で共有されるルールやコンセンサス」というものが成立し得なくなってしまう。法的な取り決めを除けば、現代都市空間において共有されるルールやコンセンサスというのは、ゼロとは言わないにせよ、希薄なものとなるのは致し方のない所であろう。自分が所属するニッチの内側のルールはしっかり守る人であっても、public spaceでは共有すべきルールが希薄であれば、どうしても自分のニッチのルールを基に考えざるを得ない場面というのはあるだろう(私も、ある)。皆が皆そう振舞うとしたら、皆がてんでバラバラに俺ルールを適用しようとしているようにみえて、殺伐とした光景にみえるに違いないだろう。たとえ、大多数の人がルールを守ることが良いことで、自分は守ろうと思っていたとしても、である。
 
 病院や学校といったpublic spaceで、かつて守られてきたルールやコンセンサスを全く度外視した振る舞いの個人が現れる場合だって、もし、彼/彼女が自らの所属するニッチにおいてはそう振舞うことがルール通りだったとすれば、彼/彼女の側からすれば「なんであたしのルールを守ってくれないのよ!」ということになるだろう。モンスターペアレントやモンスターペイシェントと言われる人達さえ、案外、ルール破りをしているというよりは、自分が所属する狭い世界(家庭やらコミュニティやら)で自分が*3そのように振舞うことが保証されている振る舞いを、public spaceに適用しているだけなのかもしれない。コンビニの前でたむろしているDQNだって、電車の中で大音量でアニソンを聞いているオタクだって、「俺はルールやコンセンサスを破っているぜヒャッホー!」という感覚は案外持っていなくて、自分が所属している狭いコミュニティのなかでは自分がそのように振舞うことがルールやコンセンサスから逸脱しないからやっているだけに過ぎないのかもしれない。その意味では、public spaceで法外な要求を突きつけるようにみえる人達も、必ずしも不道徳者・インモラリスト、というわけではないのかもしれない可能性に留意しなければならない。尤も、自分の所属するコミュニティで(自分に)適用されるルールが、外の世界のルールと共通規格だと思っているのだとすれば、彼/彼女は「世間を知らない人」という誹りを免れないとは思うけれども。
 
 ポストモダン社会における、ニッチの細分化は、当然ながらニッチの内側で適用されるであろうルールやコンセンサスをも細分化し、それぞれのニッチの内側で、それぞれのルールやコンセンサスが独自の動的平衡を呈している。そして、そこの相違が露呈しがちなpublic spaceにおいてこそ、ルールとコンセンサスの不一致に伴う摩擦や問題が表面化するだろうと予測されるし、現在の娑婆世界をみる限り、事実そうなっている。
 

まとめ

 ルールやコンセンサスというものについて、思うところを書いてみた。まとめると、
 
1.ルールやコンセンサスは、成員の振る舞いなどによって変化し続けるダイナミックなものとして捉えるのが適切
2.ルールやコンセンサスは、個別の文脈に基づいて適用される
3.ルールやコンセンサスは、ポストモダン的細分化を受けて、ニッチごとに固有のものに細分化されている。public spaceでは、それらがぶつかりあって摩擦が起こる
 
 といったところは、ルールやコンセンサスについて考える際に十分に視野に入れておくのが適当ではないだろうか。*4
 

*1:そして動的モデルに従って考えるなら、厳密には「変化していない」のではなく「同じ状態が常に更新されている」と評価するのが適切だろう

*2:一般的に、ルールが共有される範囲が小さな領域であるほど、個人のアクションがルールの動的平衡に与える影響は大きくなる。よって、ルールを変える、に関しては、ルールとコンセンサスの適用範囲がある程度小さい時にしか役に立たないことは理解しておかなければならない

*3:自分が、という修飾語をつけたのは、さきにも述べたとおり、ルールやコンセンサスとは個別の文脈によって適用の可否や内容までもが変化してくる為である。在るコミュニティのなかにヒエラルキーがある場合などは、ルールやコンセンサスは当然のことながらヒエラルキーに応じて適用が変わってくるわけである。

*4:あと、時間があれば、行動遺伝学的・生得的な道徳モジュールについて考えたいが、他の機会に譲ることにする